第3話 愚かなる母は大蛇の背に唾を吐き捨てる
――
「あぁ……ティーレを抱きしめた挙句、彼の頬にき、キスをするなんて、我ながらはしたなかったかもしれません」
ティーレと甘く、濃密な時間を過ごしたモナルカは、赤みの引かない両頬を隠すように手を添えて身悶えていた。
都合一時間。モナルカの我儘で、ソファーの上で抱きしめ合っていた二人。
モナルカにとっては正に夢心地の時間であったが、流石に耐え切れなくなったティーレが見合いの似顔絵を燃やしに行くと逃げ出してしまったのだ。
一人残されたモナルカは、ドキドキが収まらない心臓の音を聞きながら、人形のようだと評される表情を牛の乳で作った氷菓子のようにでれっでれに蕩けさせていた。
「けど、ティーレも恥ずかしそうであったけれど、嫌がってはいませんでした。私と同じぐらい、照れてくれていたもの」
それがなによりも嬉しいと、にへぇっと口元を緩ませる。
「心臓のドキドキが抑えられない……恋というのは、こうも自分を抑えられないものなんですね。感情的で、とても非合理。昔の私なら考えられないですけれど」
変わってしまった自分。
けれど、後悔などあろうはずもなかった。
「また、抱きしめても怒られないでしょうか? できれば、キスも……」
ティーレの頬に触れた、紅色の唇をゆっくりとなぞる。
まだ彼の感触が残っているかのようで、ほぉっと恍惚のため息を漏らしていると、無粋なノック音がモナルカの幸福な時間を台無しにする。
心なしか不機嫌な声で入室を許可すると、扉を開けたのは母であるマードレであった。
彼女は室内を見渡し、モナルカ一人であることを確認してから部屋に入ってきた。
「モナルカ」
「お母様」
マードレに呼ばれた時には、モナルカの顔から感情が抜け落ちていた。
美しい人形と評される心なき姫。
彼女が微笑みを見せるのは、世界で唯一ティーレのみである。
「……? 顔が赤いわね。汗もかいているようだけれど、熱でもあるのかしら?」
「健康状態に問題はありません」
まさか男性と小一時間も抱き合って汗をかいたなどと説明するわけにいかず、なんでもないと返事をする。ティーレとの幸福なひとときを思い出して顔が赤くなっていたなど猶更言えるわけもない。
気にはなっても追及するほどではないのか、マードレもこれ以上この件には触れなかった。
「そう? まぁいいわ。次の命令よ」
「なんでしょうか?」
「貴方に付いている、ティーレという使用人を殺しなさい」
「――」
その時のモナルカの表情をなんと表現すればいいのだろうか。
無表情……ではあるのだが、それだけではなく、人が人として表情を認識する目鼻などの物理的な部位ではない、けれど重要ななにかが欠落していた。
敢えて表現するのであれば黒い仮面であろうか。
触れればどこまでも飲み込まれてしまいそうな、深い黒。
モナルカは母にその表情を見せないよう俯き、影で覆う。
「なぜ、でしょうか?」
「近頃の貴女の態度が物語っているのではなくって?」
モナルカの表情の変化には気が付いていないのか、マードレは厳しい視線を娘へ向けた。
「最近の貴女は少し……感情的だわ。人間的とも言ってもいい」
人形と評されているゆえか、マードレは敢えてその言葉を選んだ。
「そんなのは、私の育てたモナルカではないわ」
迂遠でありながらも、マードレは如実にこう語っているのだ。
私の言うだけを聞くお人形であれ、と。
「今はその影響も少ないけれど、いずれその感情は足を引っ張るわ。女帝になるべき貴女には、感情なんて必要はないの。今のうち捨てなさい」
「おかあ、さま」
掠れる声でモナルカは母を呼ぶ。
そこにどんな感情が込められているのか、マードレは一切の理解を示さなかった。
「少なからず、貴女の変化の原因があの使用人にあるのであれば、排除しておきなさい」
邪魔だと、虫でも殺すように告げるマードレ。
どこまでも娘の気持ちを鑑みない彼女は、慈しむようにモナルカの髪を撫でる。
「これも全て、娘を想う母の気持ちなのです。分かりますね?」
「……」
母としての愛を語りながら、淀んだマードレの目はモナルカを見ていない。
彼女がしていることは、可愛い人形を愛でる少女のそれでしかなく、容姿が似ているモナルカを己に見立て、皇帝になるという願望を叶えようとする代償行為でしかない。
母の命令を疑わず、ただただ従順であった、ティーレに出会う前のモルナカであれば上手くいっていたかもしれない。
例え、いつか破綻するのが決まっていたとしても、それは今ではなく、遠い未来に置いておけたのだから。
けれども、モルナカはティーレと出会い、人の心を手に入れた。人間に成れた。
いつまでも自身の可愛い人形のままだと勘違いしているマードレとすれ違うのは必然であり、それは母娘の決定的な別離を意味し、破滅への大きな一歩であり、これまで積み上げてきた悪行の因果の巡りによる当然の帰結である。
つまるところ、何もかもが手遅れであった。
「ふぅ……全く、卑しい平民の使用人風情が私の物に手を出すだなんて、とんだ不届き者だわ」
「……お母様」
眠れる大蛇の背と知らず、唾を吐いて捨てる愚か者。
「なにかしら? 可愛い私のむす――」
パクリ、と。
娘への愛を口にしようとマードレの意識は、大蛇の大口に捕らわれたかのように暗転し途切れてしまう。
次に彼女が目覚める場所は、大蛇の腹の中であることは間違いなかった。
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