第54話 災難の始まりその5
迷宮が溢れる。
それもはやは台風が直撃するのにも等しい自然災害のようなものである。
かろうじて耐え忍ぶことには成功するかもしれないが、甚大な被害が出ることはすでに確定したようなものと言える。
「な、何言ってんだ。迷宮は平穏そのものだぜ?」
「東で新たに見つかった迷宮って言ったろう! メノラーの村の近くらしい。今騎士団が村の避難のために急行している」
ざわめきがギルド全体へと広がり、十分にその意味を認識できたころ――――爆発が起きた。
「た、大変じゃないか!」
「規模は? 援軍の手配はどうなった?」
「おいっ! 誰か早くギルド長呼んで来い! 急げ!」
「冗談じゃねえ……よりにもよってどうしてこのマクンバで迷宮が溢れるなんてことが……」
彼らの脳裏に浮かぶのは八年前、隣国のパリシア王国で起こった惨劇である。
一般にはパラザードの氾濫として知られている。
長く放置されていた迷宮が突如として魔物を吐き出し、近隣の三つの街と八つの村が壊滅するという被害を出した。
領主軍は集結に手間取り、諸侯の援軍を得て魔物を討滅したときにはすでに魔物に蹂躙された村で生き残っている者はいなかった。
被害者数はおよそ一万に達し、パリシア王国は国家間戦争に匹敵する損害を負った。
その被害は八年を経過した今も癒えているとはいえず、被害にあった地方の復旧は細々と移民を募ることで続いているという。
それ以来一度全大陸で放置迷宮がないかどうか、文献などによる調査が行われたはずなのだが、件の迷宮はその調査を免れていたらしかった。
「――おい、その迷宮の話は本当か?」
いかにも不機嫌そうな顰め顔で、ギルド長であるホルストナウマンは自慢の金髪をがしがしと搔きむしった。
事実であればマクンバの被害を少しでも減少させるべく動かなくてはならない。たとえそのために犠牲が必要であるとしてもだ。
すでにこのとき、ホルストナウマンはマクンバ唯一の金級探索者として現場に出ることを覚悟していた。
「は、はい。知り合いの衛士から聞きまして……なんでも第一発見者は探索者のメッサラだとかで」
「ああ、あいつの故郷はメノラーだったか」
パーティーの解散は痛恨であったが、北極星のスカウトとしての腕は確かだった男だ。
迷宮の話はまず間違いないと考えていいだろう。
あとはどこまでこの情報を広めていいのかが問題であった。
もし無作為にマクンバ全域に広まればパニックが発生するのは間違いない。
「ここにいるすべての探索者に命令する。俺が許可するまでこの話を口外するな。もし話したらギルドを除名するからそう思え」
肩を怒らせてホルストナウマンがひと睨みすると、その場にいた探索者たちは激しく首を上下に振った。
ギルドを除名されてしまってはたまらないし、何よりホルストナウマンを本気で怒らせるのが怖かった。
今でこそ大人しくギルド長などに収まってはいるが、現役の探索者であったころは狂犬のように見境なく噛みつく男だった。
「しかし――――姐さんに知らせないわけにはいかんだろな。本当はあの人がマクンバ最強戦力だし」
そう呟くとホルストナウマンは職員のひとりを呼んで伝言を任せた。
職員の男の行先は鍛冶師街――ドルロイ工房である。
そこにはホルストナウマンが唯一頭の上がらない元金級探索者にして、ホルストナウマンにギルド長を押し付けた地獄の毒花、リンダがいた。
要塞都市マクンバは、リュッォー王国伯爵ノリスが治める領地である。
関所の守備隊長からもたらされた情報は、伯爵家騎士団長と秘書長の精査を受け、直ちにノリスへと届けられた。
これまでノリスはマクンバをよく治めていたといってよい。
領民の評判も上々であり、鍛冶師ドルロイの誘致に成功したばかりか、迷宮からあがる税収もノリスの代になって二割以上は上昇していた。
今年三十六歳になるノリスは、先年ようやく世継ぎに恵まれ、一男二女の幸せを絵に描いたような家庭を築いていたのである。
この幸せがずっと続くかと思っていたが、運命の女神はノリスに思いもよらぬ試練を下すことにしたらしかった。
「間違いないか?」
「斥候の騎兵からの報告では、すでに数百の魔物が流出を開始しているとのこと」
「報告の探索者は銀級で将来を嘱望されていたと聞いています。まず間違いないといってよろしいかと」
軍を動員するということは、それなりの手続きと費用を必要とする。
いざやっぱり間違いでした、ではマクンバ伯爵家は王国中に恥をかくこととなるのだ。
しかし間違いないとなれば迅速に行動することは絶対であった。
「周辺の村からの避難を第一に優先しろ。いずれにしろ迷宮が氾濫するとなればこのマクンバで迎え撃つしかない」
数で圧倒的に劣る以上、野戦に打って出るのは自殺行為である。
それは王国からの援軍が到着して、ある程度間引きを行った後のことだ。
今は防御力の高いマクンバに立てこもり、魔物の侵入を防がなくてはならなかった。
「陛下とサーヴェイス子爵に使者を立てよ! マクンバはこれより氾濫に対しあらゆる防御手段をとる、と」
ノリスが領民の間で評価の高い理由が、この速攻果断な決断である。
隣の領主であるサーヴェイス子爵と協力することができれば、王国騎士団の到着まで粘るのはそれほど難しいことではないとノリスは考えている。
しかし戦いに不測の事態はつきものだ。
マクンバを守るためにはあらゆる手段をためらうつもりはノリスにはない。
「探索者ギルドと鍛冶師ギルドにも協力を要請、いや、命令するのだ。我が伯爵家の兵力だけでは氾濫を抑え込むことはできん」
厳密にいえばギルドは伯爵家の支配下にはない。
しかし領主には非常時における強制徴収権が認めらており、その一環としてギルドに兵力の供出を命じることができるというのが一般的な認識であった。
「やれやれ、これは戦後の予算が大変なことになりそうですな」
当然非常事態が終息すれば、報酬を払わなくてはならない。いかに領主といえど、無料奉仕を求めるわけにはいかないのである。
被害からの復興やギルドに支払う報酬を考えて、秘書長は深々とため息を吐いた。
「マクンバが滅びてもいいならケチるがいい」
「まあ、損して得取れという言葉もございますし、考えてみれば新たな迷宮が収入源になってくれるかもしれませんしな」
「逞しいなお前…………」
ノリスは呆れたように長年仕えてくれた老齢の秘書長を見つめる。
だが今はそのたくましさが心強く感じられた。
ノリスとて降ってわいたこの事態に動揺していないわけではないのだ。むしろどうしてよりにもよって自分の領地に現れたのかと怒鳴りつけたいところであった。
「――――バイエル」
「はっ!」
腹心の騎士団長にノリスは命じた。
「正確な魔物の戦力が知りたい。できうる限り数、種類、進行方向、指揮命令系なんでもいい。情報を集めてくれ」
「このバイエルの魂魄かけまして!」
言うが早いかバイエルはすぐさま立ち上がった。
「この目で見てくるのが一番手っ取り早いかと。では、御免!」
八年前の惨劇では領主は魔物の波にのまれて死亡したということをノリスは知っている。
幸いマクンバは要塞都市として知られる防御力の高い都市であるが、死の危険がないとは決して言えなかった。
「万が一に備えて子供たちを逃がしておくか」
仮にノリスが斃れようとも、このマクンバと伯爵家は継続させていかなくてはならない。
それは自分の命よりも大事な領主たるの務めなのであった。
日ごろから訓練をともにしている精鋭の騎馬小隊を率いて、バイエルはマクンバの城門を飛び出した。
マクンバからの街道は北と東に伸びているが、メノラーの村は東に五十キロほど進んだ領地のはずれにある。
発見された迷宮は、メノラーの村からおよそ五キロほど手前にあるらしい。
マクンバからの距離を考えればざっと四十五キロ。
いかに魔物でもマクンバへ辿りつくまでに数日を要するはずだ。
バイエルは十キロほど駆けさせたところで、馬を休ませるために街道に設けられた駅舎へ馬を寄せた。
「騎士様、何かお急ぎですか?」
駅舎の亭長が怪訝そうな顔をして差し出した水を受け取ると、バイエルはすまなそうに言った。
「じきに魔物がやってくる。お前たちも早くここを離れてマクンバへ逃れるがいい」
「ま、まさか……御冗談を」
「冗談ではない。迷宮が溢れたという情報が入っている。我々はこれからその偵察へ行くのだ」
「たた、大変だ!」
パラザードの氾濫はまだ記憶に新しい。亭長は腰を抜かしたように後ろへ倒れこんだ。
「すまんがこのあたりに残っている人間がいたら、お前のほうから声をかけてやってくれ。私はマクンバ伯爵家騎士団長バイエルだ」
「へ、へい…………」
馬の汗を拭い、水を補給して再びバイエルは騎乗の人となる。
それから再び街道を疾走したバイエルは信じられないものを目撃することになった。
「な、なんなのだあれはっ?」
数百どころの騒ぎではない。
そこには街道と森を埋め尽くすかのような、何万という魔物の群れが熱線をまき散らし一面を荒野に変えながら進撃する様子が広がっていた。
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