[25]

 誰かの視界から映像を見る夢は数日ぶり、国家警備局収容施設から出所してから初めてである。

 その夢はテレビに走るノイズの様に視界が波打っており、視線の先に紺色と思われる色の服を着ている人物が座っている事しか分からない。

 その人物も顔周辺は特にノイズが粗くなっているので表情は伺うことは出来ず、途切れ途切れに聞こえる声色から少し低めではあるが、女性だという事を辛うじて判別する事が出来た。

 すると、目の前の人物はゆっくりと右手を伸ばしてきた。迫る腕の皮膚と血肉は黒い灰となって徐々に崩れ始めている。


『……私の、大切な──』


 女性から発せられた言葉を少しばかり聞き取れた瞬間、何故か心が強烈に締め付けられた。それと同時に伸ばされてきた手が、永遠に消えないでほしいと願わずにはいられなかった。

 灰となり崩れ始めた手を視界の主のものと思われる小さな手が握ると、映像のノイズは更に粗くなり始めた。まるでこの先の出来事を見せるのを拒んでいる様で、そのまま夢はテレビの電源が落ちる様に暗転して終わりを迎えた。


◆◆◆◆◆


 直後、諏訪はハッと瞼を開けて目を覚ました。

 荒い息遣いのまま心臓に手を当てると、とてつもない速度で動く心臓の鼓動が感じ取れ、更に両目から涙を流している事にも気づいた。

 諏訪は起き上がると涙を拭い、深呼吸を行って心臓の鼓動を正常に戻す。やっと落ち着き、ベットの隣に置かれた小さな木製の台に置かれた時計に目を向けた。時刻は二時二十八分。就寝してから三時間ほどしか経っていない。

 諏訪は体を覆っていた布団を剥がしてベットに腰掛けると、大きな溜息と共に両手で顔を覆った。


「……なんだ、あれ」


 諏訪は交戦地域から脱出後、速やかに病院に運ばれて検査を受けたが、出血以外の異常は特に無かったので数時間後には冬島邸へと帰宅していた。

 帰宅後はすぐに風呂に入り、異常に体の節々が痛くて疲れが溜まっていた為に自室で静かに休み、そのまま就寝した。そういう事なので中途半端に起きたこと、そして先ほど見た夢で湧き上がった恐怖感が混ざり更に体が怠くなっていた。

 突然喉の渇きを覚え、諏訪は水を飲みに行こうと部屋を出てリビングへと向かった。午前二時ということもあり家は静かである。

 だが諏訪がリビングの扉に近づいた時、薄らと灯りが漏れていることに気がついた。静かに扉を開けてリビングを見渡すと、テーブルの席に座る人物が振り返ってきた。


「あら、諏訪君」


 座っていたのは紗耶であった。両手でコップを掴み、湯気が上がっている何かを飲んでいる。


「……なんだ、君か」


 諏訪が後ろ手で扉を閉めると紗耶が手招きをしてきたので、席に歩み寄ると向かい側に座った。


「こんな時間にどうしたの?」


 紗耶は魅力的な面立ちを活かして微笑みを浮かべた。その笑みは万人には効果的であろうとさえ感じるほど美しく、年相応の色っぽさを醸し出しいる。

 諏訪は可愛らしいと感じた以外、特に何も感じなかったが、小さく笑みを浮かべて応答した。


「実は嫌な夢を見たんだ。それで寝付けずにいたから、水でも飲もうかと思って……」

「ふーん……あっ、それなら水よりも良い飲み物があるわよ。ちょっと待っててね」


 紗耶はそう言うとキッチンに行き、ポットとマグカップを持って来た。そうしてカップを諏訪の前に置き、ポットを傾けて白い液体を注いだ。


「ミルクか?」

「正解、ホットミルク。私の手作り」


 ミルクからほのかに湯気が立ち上っている。紗耶は再び席に座ると諏訪に飲んでみる様に促した。

 諏訪はそれに応じてホットミルクを飲むと、体の芯が温まり、その温かさが身体中に染み渡ってゆくのを感じた。


「美味しいな」

「当然よ」


 諏訪は息を吐いてから感想を述べると、紗耶は満足した様に頷いた。諏訪はカップを片手に持ちながら気になっていたことを問いかけた。


「こんな遅い時間になぜ起きてたんだ?」

「私は君達と違ってやる事が多いんだよ。国家警備局への報告、関係各所への連絡、評議会メンバーである事が嫌になる原因の一つね」


 紗耶はホットミルクを一口飲むと溜息を吐くと、片手で持っているカップ小さく揺らし、波を立てるミルクの表面を見つめる。数秒ほど経過し、口を閉じていた紗耶は再び静かに話し始めた。


「諏訪君、数時間前に解体作業現場で起きた事を詳しく教えほしい。口が聞けないほど疲れていた様だし、すぐに寝ちゃったからね」

「ああ、了解した」


 諏訪はα達と交戦した際の状況──仁藤紗奈に体の主導権を途中で与えた以外──を報告した。その中で特に紗耶が関心を示したのは、αと諏訪が面識のある可能性が高いこと、何かの物質を注射された事とその直後からの記憶が無い事の三つであった。


「なるほどね」


 紗耶は諏訪の報告を聞いてミルクを飲みながら数秒ほど黙っていたが、突然何かを察した様に小さく声を漏らした。それを見逃さなかった諏訪は問いかけようとしたが、それより前に紗耶は口を開いた。


「諏訪君が打たれたの、Ibisじゃないかな」

「Ibis?」

「国家警備局が警戒している違法な代物だよ。主に日本で活発に取引されていて、適合率が高ければ特異能力を得る事ができるの。もちろん、副作用もあるけどね。多分、吐血もそれが原因で引き起こされたかもしれないね」


 紗耶は無意識に眉を顰めていた諏訪を見つめながら、Ibisの適合率が高まるほど頭髪は元の色から全く別の色へと変色し、変色のみならず初投与時限定で新たな人格が形成される可能性も存在すること、形成された人格は長期短期個人差はあるが、一定期間を過ぎると投与前の人格へと徐々に戻っていくことが確認されている事などを語った。危険な物である理由を聞けば聞くほど諏訪は不思議と体が怠くなった。そうして投与後の影響を聞き終わり、紗耶は諏訪の顔を見ると笑みを浮かべた。


「その顔、怖くなったの?」

「まぁ……だが、疑問がある。自分は一般体質者ではなく、記憶こそ失っているが特異体質者だ。Ibisが特異能力を生み出す代物なら、なぜ投与されなければならないんだ?」

「君をレジスタンスに連れ戻す為だと思うよ」

「……自分を連れ戻すため?」


 紗耶はそのように即答し、腕を組んだ諏訪は理解できないという顔つきで首を傾げた。

 問いへの答え、こればかりは彼女の中で確信があった。過去に起きた特異体質絡みの事件でそれを目撃した紗耶は、Ibisが特異体質者の記憶に引き起こす影響を理解していたからだ。当然、そんな事件を諏訪が知っている筈はないので、カップ片手に紗耶に問いかけた。


「なぜ奴らはIbisを投与すると、自分をレジスタンスに連れ戻せるとは思っているんだ?」

「過去に投与して記憶が蘇った事例が実際にあるからだよ。投与を実行したレジスタンス側はそれを知っているから、君に同じ効果が出ると信じて投与したんだろうね」


 過去に紗耶自身が目の当たりにした、Ibis投与により引き起こされた出来事。思い出すだけで胸が苦しくなる記憶ではあるが、それと同一の事態が今度は諏訪に発生しようとしている。

 紗耶は表面上普通に諏訪と会話しているが、既に最悪の事態を脳裏に描き出していた。


「だが、自分の記憶は戻ってないぞ」

「初めて確認された時は一回だけだったけど、効果が現れるのに個人差があるのかもね」

「なら、また打たれるかも知れないじゃないか」

「それについてはご愁傷様としか言えないね」

「……くそ」


 諏訪はそう呟くと息を吐いて頭を抱えた。今回の襲撃で起きた出来事が何度も続くのは、正直諏訪にとっては御免被りたかった。

 仁藤紗奈に身体の主導権を交代して身体能力が向上しても万能という訳ではない。特異体質の能力を使えない現状では、身体能力だけで超常的な力に対抗する事は難しいのだ。今後も命が足りなくなる事態が続くと考えてしまった諏訪は、更に胃が痛み始めようとしていた。

 紗耶はミルクを飲み干し、数十秒ほど静かに悶える諏訪を見つめてから口を開いた。


「諏訪君、聞きたいことがあるんだけど」


 紗耶の穏やかな声色を聞いた諏訪はゆっくりと上半身を上げると、目の前に座る少女を見つめた。


「どうした?」

「もしもさ、諏訪君がIbisを投与されて記憶を取り戻したら、その時はどうするつもりなの?」


 紗耶の問いかけに諏訪は思わず口を噤んだ。記憶が戻った時の事を全く考えていなかった訳ではないが、いざ聞かれると回答に困ってしまう。自身の中で、その問題の答えは未だ確立されていないのだ。

 諏訪は数秒ほど口を閉ざしていたが、考えていた事を整理すると、いま出せる答えを口にした。


「分からない」


 回答を聞いた紗耶は頷きも微笑みも浮かべず、ただじっと見つめている。諏訪もそんな紗耶の顔を見ていたが、耐え切れずに顔を少し伏せると、首裏を撫でながら話を続けた。


「その時になってみないと本当に何とも言えない。答えを出すには時期尚早だし、未来の出来事なんて今後起きる状況でいくらでも変化するからな。それをここで予測するなど、自分には出来ない」

「……そっか、でも少しホッとしたよ」

「どういう意味だ?」

「レジスタンスに戻ると言ったら、私は君をここで殺していたかも知れないからね。それをしなくて済むから少し嬉しいんだ」


 紗耶はそんな冗談を言うと声を抑えて笑い、それを本当にやりかねないと感じた諏訪は、複雑な心境の中で苦笑いを浮かべた。紗耶は依然として穏やかな表情を浮かべたまま静かに口を開いた。


「じゃあ、ホッとしたついでに教えてあげる」

「何を?」

「私が解決を目指している重要な目標について」

「重要な目標? なんで教えてくれるのかは分からんが、それは特異体質絡みの話か?」

「まぁ特異体質も関係している話かな」


 紗耶曰く、諏訪がレジスタンスに戻るのを引き留める際の材料にしたいと思い説明するという。諏訪は純粋に特異体質という単語を聞いて興味が湧いたので、未だ生暖かいミルクを飲みながら、紗耶の話を聞く事にした。


「私の目標は失踪した父親を見つけ出すことだよ」


 予想したよりも重い内容であるが、諏訪は小さく唸ったばかりで表情を変える事は無かった。カップを置くと腕を組んだまま問いかける。


「いつ頃に失踪したんだ?」

「数年前になるかな。私の父は特異体質を専門とする研究者で、実験資料を盗んだ共同研究者を追って失踪したの。多摩第二収容所で見せた男性二人の個人写真は覚えてる?」

「ああ」

「眼鏡掛けた男性、あれが私の父親」

「もう一人の男は?」

「それは極秘事項だから教えられない」


 黒縁の眼鏡を掛け、黒髪をクールカットにした知的な風貌な男性。諏訪は紗耶と出会う前に見た夢の内容から何となく予想していたが、それが見事に的中したようだ。だが予想が的中したのを知ったと同時に、なぜ記憶の中で父親の顔を隠していたのか、諏訪は新たな疑問が浮かんでしまった。

 紗耶は疑問で頭の中が悶々としている諏訪に当然気づく事はないので話を続ける。


「君に写真の二人を見たのか聞いたのも、父親が失踪する前の情報を入手する為だったの。まぁ、有力な情報は得られなかったけどね」

「他に手がかりはあるのか?」

「少し前に差し出し人不明で中に音声ファイルの入ったUSBが送られてきた。音声は特殊加工されていて、商人を見つければ父親が失踪した原因が分かるという簡単なメッセージだったわ」

「商人?」

「Ibisを売り捌く者のコードネームよ。その名前を持つのが個人か集団かは不明だけどね」


 紗耶によると国家警備局情報部の諜報員が入手した情報であり、Ibisの取引時には必ず商人の名が関わっているという。

 なぜ商人が紗耶の父親と関係しているかは不明であるが、もしも共同研究者の方に関係しているのならば探す価値があるだろう。


「なら当面は商人を探さないとだな。そういえば君はなんで父親を探そうとしているんだ?」

「特異体質実験に関わった人だから早急に保護しないといけないのよ。実験内容や情報が他国やレジスタンスに流出するのを防ぐ為にもね。それが父を探す理由。理由がなければ、あんな奴を探したりなんてしないわ」


 紗耶は瞬時に笑顔を消して突然父親に対して嫌味を言い放ったので、諏訪は思わず目を見張った。どうやら家庭内で複雑な事情があるらしい。これ以上の詮索は止めた方が良いと本能的に悟った。


「ふぅ、ごめんなさいね。少し私怨が混じったわ」


 紗耶は両の瞼を閉じると深呼吸を行った。幼少期に教えられて以来続けている、負の感情を抑えるための行為。それを終えて再び両目を開けると、一呼吸おいて話し始めた。


「この失踪には必ず何か裏がある。それを確かめる為にも、まずは失踪の原因を知っている商人を探し出す必要があるの。だから諏訪君、あなたさえ良ければ、私の目標達成の為に力を貸してほしい」


 紗耶はそう言うと、少し表情を引き締めて右手を差し伸べてきた。諏訪は差し出された手を少し見つめると視線を紗耶へと移す。


「最後まで君と探し続ける事は出来ないかもしれないぞ。それでもいいのか?」

「構わない。その時はなんとかするわ」


 そう言い切った紗耶を見つめていた諏訪は小さく頷くと、その手を強く握り返した。


「分かった、今は君達の陣営に属しているから協力はしよう。だが力を貸すのは国益ではなく、内戦を更に悪化させない為という事は覚えておいてくれ」

「ええ、もちろん、分かっているわ」


 紗耶は嬉しそうに笑みを浮かべると、諏訪も釣られて口角が上がった。そうして手を離すと、紗耶は壁に掛けられた時計に目を向けた。


「あら、もう三時になるわね。早く寝ないと」

「じゃあ自分は部屋に戻る。これで失礼するよ」

「えっ、何言ってるのよ」


 マグカップを持って席から立ち上がった諏訪は不思議そうな顔で自信を見つめる紗耶を見て、意味が分からずに少しばかり困惑した。

 紗耶は突然立ち上がり、諏訪からマグカップを取り取り上げてキッチンのシンクへ放り込むと、戻ってくるなり諏訪の手をいきなり掴んだ。


「また悪夢は見るかも知らないでしょう。だから今夜は一緒に寝てあげる。いかがわしい事はしないだろうし、別にいいでしょう?」

「流石にそんな事はしないが、一緒に寝るのは流石に色々と駄目だと思うぞ」

「なら主人の命令という事にしましょう。それなら大丈夫よ。それに誰かと一緒に眠るのは、奏で慣れているから問題ないわ」

「その奏に怒られるかもしれないのだが……」

「なに、私と寝るのそんなに怖いの?」

「そんなことはないが……」


 諏訪は紗耶が自分の事を想って言ってくれていると分かっているが、それを受け入れて奏に怒られるのは非常に面倒である。しかしいまは非常に眠いので直ぐにでも就寝したい。なので、少し考えてから諦めた様に小さく頷いた。


「分かったよ。護衛員として君の命令に従う。ただし奏に怒られても知らないからな」

「最初からそう言えばいいのよ。あの子に何か言われても私が擁護するわ。ほら、行きましょう」


 そうして先に折れた諏訪の顔を一瞥し、紗耶は手を引きながら自室へと戻った。諏訪はアルビノの美少女とベッドで隣り合う事に落ち着かなかったが、数分もすれば案外何事もなくお互い就寝した。

 苦しくなる様な悪夢を再び見る事は無かったが、代わりに奏の憤慨した顔が脳裏を過り、別の意味での悪夢に魘されたしまった結果、諏訪は十分な睡眠を取る事ができなかった。

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