#2 受容をみちびく果実(1)
目に映る何もかもが変容していた。ついさっき耳にしたはずのユイの言葉を思い出す。すべてが夢みたいに変わる、現実が夢に成り代わる。これが、そうなのか? こんなの文字通り異世界じゃないか、本当にやりやがった、ユイは一足先にこの場所を見たんだろうか……噛み合わない歯車みたいに思考はひとりで空転した。
ユイの癖をまねて試しに頬をつねってみる。やわらかく、ひりひりと痛い。これは本物の痛みだ。もしこの確かな痛みさえ偽物だというのなら、俺たちの現実なんて何もかも幻じゃないか……
気づいたときからずっと握っている茶色い筒は異国の楽器のようにも見えるが、先端あたりに突き出た火皿があって、そこでまだ煙がくすぶっている。揺らした感触で内側に液体が入っているのがわかった。どうやら一種の喫煙具らしい。
俺は焦燥に駆られ、周囲にいる少年たちのひとりの肩をつかんで詰問した。
「何がどうなってる。これ、何だよ?」
「え? いま、博士に貰った龍の肝を吸ったところだろ……覚えてないの?」
激しくうろたえ押し黙る俺を前にして、はじめ期待や羨望に近い眼差しで注目していた彼らも徐々に異変に気づき始めた。
「リク、具合悪いのか?」「ちょっとキマりすぎたんじゃないのか」「やるって言ったのリクだかんな」「だから多いんじゃないのって言ったんだよ、大丈夫?」
口々にそう語りかけてくる。彼らは俺のことを知っているのに、俺は彼らのことを何ひとつ知らない。こいつらは友達同士の集まりみたいだが、四人いる少年のうち誰の顔にも見覚えはない。いくつか言葉を交わしただけで、ぞっとするほどの齟齬があるのがわかった。
明らかに異様な、おそらく手に負えない変化が生じてしまったことを少年たちも感じ取ったらしく、ともかく彼らは俺を引っ張って丘を下り始めた。
「ねえ、ここはどこなんだよ。俺は、君たちは誰だ。どこに行くの?」と立て続けに質問する。ふと、自分の声が声変わりする前の高さだということに気がついた。四肢と胴体にぺたぺた触れてみる。肉体が明らかに幼くなっている。身に付けているのは見慣れない衣服。飾り気のない半袖と半ズボンで、柔らかくて生成りっぽい簡素なつくりだ。
「ちょっと落ち着けよ、博士に見てもらうよ、あれは博士が作ったやつだしさ。そのほうがいいよ、うん」
ひとりがよそよそしく答えた。彼らはまさに狂ってしまった友人にひどく当惑し、扱いに困り切っているといった様子だった。
いや、実際その通りかもしれないじゃないか……この俺は"あっち側の現実"という妄想に突如取り憑かれた可哀想な少年なのだとしたら。そうではないとなぜ言える? あり得なくはないその可能性に行き当たって、激しく動悸がし始めた。俺は俺自身をどうやって証明すればいいんだ……その困難さを直視するとおかしくなりそうだった。
気を逸らすために、自分の手のひらのしわを眺めたり空に浮かぶ雲を数えたりしながら歩いた。幼くなっているとはいえ、この体つきが昔の俺自身のものであるのはおそらく間違いないとわかった。ほくろの位置や骨のかたち、血管の通りかたまでを自分でも驚くほど詳しく覚えていたからだ。
もといた現実と同じように空は青いし草原はゆったりなびいている。丘を吹く風はみずみずしい土の匂いがして、太陽の熱はたしかに皮膚へ染み込んだ。すべてが疑いようもないほどリアルに息づいている。一方で、目下に広がる西洋ファンタジー風の都市と巨大な城を見ると、まるでゲームか映画にでも入り込んだような錯覚を起こす。知覚のリアリティと状況のリアリティが激しく食い違っている。
丘を下りきって街から少し逸れたあたりに深い森への入り口が面していて、むき出しの土の小道がその奥へ続いている。俺は少年たちの後に続いて森へ入り込んだ。誰も言葉を発しようとしなかった。話すべき共通の話題などもはや完全に失われているし、これ以上質問を重ねても混乱を深めるだけだと皆わかっていた。
舗装されていない通路は高い樹々に囲まれていて薄暗く、むっとするほど濃厚な植物質の蒸気で満ちている。鳥か何かの聞き慣れない鳴き声がときおり鋭く響いて俺たちを驚かせた。
それほど深くまで分け入らないうちにひらけた広場へ出て、石造りの古ぼけた洋館が姿を現した。豪邸というほど大きくもないが、二階建てのしっかりした造りだ。道はそこで途絶えていた。
「悪いけどさ、自分で説明してくれよ、リクは博士と仲良しだろ。俺たちじゃわからないし、何もできないから……」
そう言い残すと、少年たちは面倒事から逃げ出すみたいにそそくさと来た道を戻って行ってしまった。もしかすると、ここでの俺と彼らはあまり親しくないのかもしれない。異世界に来てもやっぱり友達がいないとは意地悪な設定だ。しかし、そんなみじめな要素さえ、あっちの現実といまの俺の存在を一貫して繋ぎとめる紐帯になってくれる気がした。
ともかく、どうしようもないので洋館の大仰な扉を何度か叩いて「すいません」と大声で呼びかけてみた。しばらく待っていると、扉が魔女の叫び声みたいに甲高く軋んで内側から押し開かれた。
現れたのはひとりの青年だった。ローブのようなゆったりした黒い服を肩からすっぽり纏っていて、ふちの細い古風な丸メガネをかけている。狐みたいな山吹色の髪は無造作にカールして跳ね、寝癖がついたままだ。まさに博士と言った風体で、彼がおそらく少年たちの言っていた『博士』なる人物だと直感した。
青年は俺の顔を見るなり「やあ」と親しげに挨拶した。そうして人当たりの良さそうな微笑を浮かべた。「……何かあったみたいだね」
*
「信じられないのもわかります、でも本当に、ここじゃない場所から来たんです。つまり、いまいるここのほうが異世界みたいに感じられるんです」
小さな木のテーブルを挟んで、俺は正面に座っている『博士』に事情を訴えた。彼は頷きながら紙に何かを書き付けている。案内されたこの部屋には、入り口と窓付近を残した壁全面に立派な本棚が備え付けられていて、古い紙と木と布のざらついた匂いが染み込んでいた。
「なんにも覚えてないんだね?」
彼が尋ねた。その顔つきは温厚かつ知的な印象で、おおよそ俺と同い歳くらいに見える。いや、十四、五歳の姿になってしまったこの俺にとってはいくらか歳上ということになるのだろう。
俺はなるべく平静を保って、自分の状況を客観的に説明しようと試みた。
「ついさっき丘でふと気が付きました。その瞬間に夢から醒めたような感じです。それより前のことは何も、龍の肝とやらを吸ったことも覚えてません。……たぶんあなたたちからすれば、俺はおかしくなったように見えるんでしょうね。でも、それがわかる程度には正気です」
それを聞いた青年は、まるで俺を安心させるためみたいに自然で柔和な笑みを浮かべ、眼鏡をくいと押し上げた。
「なるほど。ただおかしくなったってわけでもなさそうだね。さて、君が吸った物質を合成したのは紛れもなくこの僕だよ。それくらいは聞いたかな」
「はい。博士がくれたって……。あの、あなたが博士ですよね?」と俺はおすおず尋ねる。
「ふふ、いかにも。たしかにみんな僕のことを博士と呼ぶけれど、君はいつもセオと呼び捨てにしてくれていたよ。それが僕の本名だ。それに、敬語なんて使われたこともない」
「はあ、すみません……」
なんとなく悪い気がして謝ると、セオはおかしそうに笑った。
「本当に人が変わったみたいだ。いやごめん、笑い事じゃないね。実を言うと、君が吸ったのは本物の龍の肝じゃなくてその模造品なんだ。おそらく君は副作用で記憶の混濁を起こしている。僕は試したことがないし、試すこともできないからわからないけど、まさかこんなことになるとは思ってなかった。悪かったね」
セオはそれほど申し訳なくもなさそうに謝った。
「よし、まずはいったん君が別の現実からやってきたということを受け入れよう。それが本当かどうかなんて決めようがないからね。僕からすれば君は妄想に取り憑かれているようにしか見えないけど、君が心から確信しているならば君にとってはそれが正しい。そうだろう。だから、ひとまず複数の現実を許容することにしよう。いいね?」
俺がうなずくと、彼は満足そうに微笑した。博士と呼ばれるくらいだし、この男はかなり頭の切れる人物に違いない。状況を冷静かつ客観的に分析してくれる人間がいるというだけでひどく心強かった。
少しずつ落ち着きを取り戻し始めた俺は、ふと疑問に思ったことを聞いた。
「どうして話が通じるんだろう。俺は向こうの現実で使っていた日本語で話しているのに、セオさんも同じ言葉を使っているでしょ。それに、名前だって一緒だよ。俺は向こうでもリクだったんだ」
「そりゃあ、君はここで生まれ育ったんだから、見る幻覚もここを元にしたものになるだろうね。そうだな、たとえば夢だって、君自身がいつも世界を見ているようなありかたでしか現れないだろう。どんなに荒唐無稽な夢でさえ、君が経験したことをもとに想像できる範囲のことしか起こり得ない。この世界で使う言葉といえば古代から地球語だよ。僕は言語学者じゃないから確かなことは言えないけど、ニホンゴ、という呼び方は聞いたことがないね」
あまり納得が行かず考え込む俺の顔をじっと見ていたセオは、ふと立ち上がり、うしろの本棚に並べられた古めかしい書籍をせっせと取り出し始めた。何事かと思い黙って見ていると、すっかり空になった本棚の奥に木製の隠し金庫が現れた。
セオはローブの内ポケットから鍵を取り出してその扉に差し込み開くと、中には何やらごちゃごちゃと詰め込まれていて、そこから小さな瓶をひとつ手に取った。瓶には赤茶色のとろっとしたものが封入されていて、ジャムのように見える。
「それは?」
「これはタヤという木の実を若いうちに摘んで発酵させたものだよ。君のいた世界には無かったのかい?」
俺が知らないだけかもしれないが、少なくとも聞いたことはなかった。首を横に振る。
「文化はかなり違うみたいだね。これは湯に煎じて飲むと鎮静作用があるんだ。いま作ってあげよう、少し興奮を落ち着けたほうがいい」
セオはいちど部屋を出て行った。なんだか精神科医のカウンセリングを受けているような気分だ。しばらくすると彼は金属製のやかんとマグカップを持って戻ってきた。ねっとりしたタヤの実を瓶からマグカップに少し垂らし入れ、湯を注いでかき混ぜる。
「どうぞ」
ありがとう、と礼を言って、目の前に置かれたそれをひと口飲む。想像していたよりずっと甘く、南国の果物みたいな香りがする。舌に残る爽やかな酸味はまさに発酵食品という雰囲気だ。
俺は湯気の立つタヤの汁を冷ましながら少しずつ飲み下した。腹に落ちていく熱い液体がこの身体に現実味を取り戻させる。何がなんだかわからなくとも、とりあえずこの俺はここに生きているらしかった。何よりもこの感覚が激しくそう主張していた。
「おいしいです……セオさんは飲まないの?」
「うん、落ち着くのは良いんだけど頭が回らなくなるからね。僕は寝る前くらいにしか飲まない。タヤは発酵する期間が長いほど効果が強くなるんだが、これは去年から寝かしといたやつだからきっとよく効くさ。ま、個人が許可なく三ヶ月以上タヤを漬け込むことは禁止されているんだけどね」
「ふうん? 許可とってるんですか?」
聞くと、彼は口だけでにやりと笑った。
「僕がいちいちそんな面倒なことをする真面目な奴に見えるのかい」
「……たぶん、見えないですね」
正直にそう言うと、セオは会って以来いちばん大きな声をあげて笑った。
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