(土をかぶせてしまうと、猫はどこにもいなくなった)
彼女のことを、ぼくは偶然よく知っていた。
よく知っていた、というのは、ほかのクラスメートに比べると、という意味だ。
ぼくは教室では、特別に親しい相手も、無闇に仲の悪い相手もいなかった。ほとんど誰とでも友達で、ほとんど誰とでも他人だった。
それは八方美人というのとは、少し違っている。ぼくは必要もなく愛想をふりまいたり、無理な友達ごっこを演じているわけじゃなかった。ぼくはただ、その場その場の雰囲気にあわせて行動して、役柄を演じているだけなのだ。海藻みたいにゆらゆら漂ったり、石ころみたいにじっとしていたり。誰の敵にもならず、誰の味方にもならない。
そういうのは算数の問題と同じで、決められた手順で計算をしていればいいだけの話だった。こっちを足して、あっちを引いて、掛け算を先にして、括弧の全体を割る。そんなのは全然難しいことじゃない。やりかたさえ知っていればいいだけのことだ。
ぼくは協力者が欲しいわけでも、対立者を望んでいるわけでもなかった。
ただ静かに、誰も傷つけず、誰とも関わりを持たずに生きていたいだけなのだ。ある種のサボテンとか、深海で特殊な生き方をする魚みたいに。ぼくが世界に望むことは、そんなに多くはなかった。
もちろん、自分でもそんないろいろがバカらしく思えることはある。みんなも、自分も、何もかも同じくらい愚劣な気もするし、そんなふうにできている世界のシステムは、恐ろしくくだらないもののような気もした。
でもそれは、別にたいしたことじゃない。本当に、たいしたことじゃないのだ。ただ、世界はそういうふうにできあがっている――それだけの話なのだ。
月を親指で隠してしまったって、それはやっぱりそこにあり続けている。
けど――
それとは少し違う考えかたを、彼女はしているみたいだった。
彼女はぼくと同じようには、世界に馴じんでいなかった。それは心の奥だけじゃなくて、表面的にも。彼女は友達を作らず、誰とも親しくせず、いつも一人ぼっちだった。
一人ぼっちでいるときの彼女は、ひどく平和そうに見えた。
彼女がまわりや、みんなや、自分自身のことをどう思っているかは、ぼくにはわからなかった。彼女は友達を求めていなかった。ぼくも、そうだった。そしてぼくが誰かと友達になるのは、相手に求められたときだけだった。だから、ぼくと彼女が友達になることはなかった。
そんな彼女とぼくが知りあったのは、去年のことだ。本格的な冬になる少し前の、ある冷たい一日のこと――
その日、クラスではちょっと落ち着かない空気が漂っていた。パズルのピースをはめそこねたみたいな、時計の歯車が噛みあっていないみたいな、そんな。といって、特別なことがあったわけじゃない。トナカイが空を飛ぶには、まだかなりの時間がある。
みんながそわそわしていたのは、ある一人が伝えてきた話のせいだった。それはあっというまに教室中に広まって、公然の秘密みたいなものになった。話はうちのクラスだけで、ほかの組や学年には伝わっていないらしい。
その話というのは、校舎の裏手に猫の死体が転がっている、というものだった。
昼休みのかくれんぼの時に、その子はたまたま見つけたらしい。家庭科室に隠れているとき、窓の外に見かけたのだという。白猫で、あまり詳しくは見ていない。血の跡らしいものが近くにあって、ぴくりともしなかった――
話を聞いた生徒はみんな、怖いものみたさの気分に感染したみたいだった。呪いとか、近づくと死の穢れがうつるとか、猫の怨念とか、そんなことをひそひそと話しあった。
そして誰かがこっそり見にいってきたという話をすると、みんなは何組にもわかれて同じように見物に出かけはじめた。みんなが死を珍しがった。
ぼくはほとんど興味がなかったので、見物に行くつもりなんてなかった。みんなが何を珍しがっているのか、ぼくにはわからなかった。人だって死ぬし、猫だって死ぬ。ぼくたちだって死ぬ。そんなのは当たり前の話だ。
でも猫の死体参りはいつのまにか一種のクラス行事になっていて、自分だけ行っていない、というふうには言いにくくなっていた。もちろん、嘘をつくのは簡単だった。「うん、見たよ。気持ち悪かった」――そう言えばいいだけだ。みんなだって、それ以上のことなんて期待していない。
けどぼくは何だか、そんなことで嘘をつくのはひどくつまらないことのような気がした。つまらないし、疲れることだ。どこかの鉄塔と同じで、目にしたくないものがあるなら、その中に入ってしまうしかない。
放課後になって、ぼくは問題の校舎裏に行ってみた。あたりには何かの終わりみたいな気配があって、太陽の光は灰色っぽくなっている。空気は冷たくて、時間は凍りついていた。ぼくは玄関を出てぐるっと校舎の角をまわり、そこから緑のフェンスと建物のあいだの細い道を歩いていった。
排水用の小さな溝の横を進んでいくと、砂利と雑草の生えた小さな空間が広がっていた。
何の役にも立ちそうにないその場所の隅に、一人の生徒がかがんでいた。先客がいたのだ。
そのことを、ぼくは特に意外だとは思わなかった。誰がいても、おかしくない。ただちょっと、面倒だなとうんざりしただけだった。どうでもいいような感想を、一言くらいは口にしなくてはならないだろうから。
――けど、何だか様子がおかしかった。
足音で、その生徒はぼくが来たことに気づいているはずだった。なのに、少しもこっちのほうを見ようとしない。背中を向けてかがんだまま、身動き一つしなかった。冬の陽ざしごと、釘づけにされたみたいに。たぶん、その向こうに猫の死体があるのだろう。
もう少し近づいてみて、ぼくはようやくそれが〝彼女〟だとわかった。
そのことは、ぼくにはちょっと意外だった。彼女がこのくだらないイベントに参加するとは思わなかったし、猫の死体を鑑賞するような趣味があるとも思えなかった。
すぐそばまで近づくと、彼女の足元には白い猫の死骸が転がっていた。
一見したところ、それはあまり死体らしくは見えなかった。口から一筋だけ血が流れているけど、どうして死んでいるのかはわからない。車にでも轢かれて内臓をやられてしまい、何とかここまで逃げてきたのかもしれなかった。
猫は野良らしくて、毛はぼさぼさで、汚れていて、お世辞にもきれいとは言えない。体は横倒しに投げだされ、目はつむっていた。その目が最期に見たはずの景色の中に、ぼくたちは今いるはずだった。
ぼくがそれだけの観察をすませてしまうと、彼女はようやくぼくの存在に気づいたみたいに顔を上げた。
彼女をきちんと見るのは、その時がはじめてだったような気がする。
もちろん、教室では何度も彼女の姿を見たことはあった。特別に変わった顔立ちでも、特別に人目をひくような雰囲気でもない。ひとけのない街中ですれちがったって、気づくことはないだろう。
でも――
その時の彼女は、何だかいつもとは違っていた。その瞳には、何かが映っていた。その顔には、言葉にならない表情があった。特別なスイッチを押された機械みたいに、彼女の中で何かが動いていた。たぶん、魂とか、そんなふうに呼ばれるものが。
彼女はしばらくぼくのことを眺めてから、また猫のほうを向いた。太陽の光は相変わらず弱々しくて、猫を起こすような力はなかった。
「静かだね――」
不意に、彼女はそのままの格好で言った。
「――うん、静かだ」
ぼくは答えた。
そのまま、ぼくも彼女もじっとしていた。影は見えない速さで動いていた。風は少しも吹かずに、世界は静止していた。空気はもうほとんど、冬のそれだった。
しばらくして、彼女は小さな音で鼻唄を歌いはじめた。よく聞くと、それは『ありがとう・さようなら』だった。卒業式なんかでよく聞く曲だ。
彼女がどういうつもりでそんな曲を歌いだしたのかは、わからなかった。でもその曲は、不思議とその場所の雰囲気とあっている気がした。だからぼくは何も言わずに、ただ黙ってその歌に耳を傾けていた。
やがて、彼女の歌はいつのまにか終わっていた。それは何の痕跡も残さなかったし、世界は何も変わったりはしなかった。猫は相変わらず、静かに眠っていた。
「……先生に相談して、この子を埋めさせてもらおうか?」
彼女がそう言うと、ぼくは賛成した。確かに、そうするのが正しいような気がした。どうしてそうなのかは、よくわからなかったけれど。
結局、ぼくたちは先生に相談してスコップを借りて、校庭の木のそばに猫を埋めた。掘った穴の底に横たえられた猫は、どこで死んでいてもあまり気にはしていないように見えた。土をかぶせてしまうと、猫はどこにもいなくなった。
ぼくと彼女はそれから、何の話もせず別々になって家に帰った。
――ぼくと彼女が知りあったのは、そういう一日のことだった。
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