序幕

 アンジェはうらぶれた路地裏に並ぶ店の中でも、一際ひっそりと佇む古書店からようやくの思いで外へ出た。

 埃が降り積もり、風もなく、暗く、どことなく湿った空間から解放され、大きく息をつく。

 絹の手袋をはめた手には、古びた紙袋。

 よほど昔に仕入れたものなのか、古紙の匂いがつんと鼻につくそれを、アンジェはしっかりと抱き締める。

 中身は一冊の本だ。

 やっと手に入れた。

 噛み締めるように、アンジェは思う。

 長かったのか、短かったのか分からない。でも、これできっと。

「……何かしら?」

 大通りへ一歩踏み出したアンジェは、思わず足を止めた。

 なんだか騒がしい。

 事故だろうか。

 いくつものクラクションが大きく鳴り響き、重なっていく。

 その合間に人の悲鳴や怒号が上がり、何か重いものが衝突して砕ける音が弾ける。

 騒音は通りの向こうの方から、徐々に近づいて来ている。

 アンジェは顔をしかめた。

 何の事件かは知らないが、巻き込まれては堪らない。

 特に、今は。

 騒動から逃げようと踵を返したアンジェは、しかし不意に襲った衝撃に数歩後ずさった。

「何!?」

 何かが上から降ってきたのだと悟る。

 ぶわ、と風が長い髪をなぶっていった。

 顔を手で庇ったまま、目を開けて、凍り付く。

 眼前には、巨大な黒い物体。

 いや、生物か。

「うそ、悪魔……!」

 なぜこんな所に。

 とっさに上げた悲鳴はか細く、ほとんど声にならなかった。

 生臭いにおい。

 歪な球体を更に捻りながら引き伸ばしたかのような胴体に、腕だか足だか判別できない触手が幾つもくっ付いている。

 それが、べんたんべたん、と不規則に地面を叩いていた。

 殺される。

 本能的な恐怖に従い、アンジェは震える足で後退しようとして、気付いた。

 僅か三メートルも離れていない位置に聳える悪魔の胴体に、横に真っ直ぐ切れ目が入っている。

 突如、それがかっと開いた。

 それは、巨大な目だった。

 白目の部分には青く異常に太い血管が網を広げて脈打ち、光彩は汚らしい黄色をしている。

 何より嫌悪を誘ったのは、焦点が定まらずぎょろぎょろと眼球が動く度、どろりと縁から溢れ出る紫色に濁った体液だった。

 その大人の背丈の二倍はあろうかという眼球に、震えるアンジェがはっきりと映っている。

 逃げなければ。

 けれど、どうやって?

 不規則に回転する悪魔の眼球がついに動きを止めた。

 アンジェをしっかりと見据えて。

「あ……」

 ひく、と悲鳴すら上げられずに喉を引き攣らせたアンジェへ触手が伸び––––顔の真横で捻り切れた。

 紫色の体液と肉片が飛散する。

 思い切りそれを顔面に浴びて、アンジェが硬直した。

 そしてようやく、思い出したように足が動く。

 駆けだそうとした瞬間、背後から鋭く命令が飛んだ。

「動くな!」

 びくん、反射的に竦んだアンジェの横を再び何かが飛来していった。

 赤く弾ける炎のようなもの。

 被弾して、悪魔がのたうつ。

 アンジェの足元に千切れ落ちた触手が、苦痛に呼応するように跳ねた。

「ひ……っ!」

 悲鳴を半ば吐き出しかけたまま、余裕もなくアンジェは身を庇った。

 暴れる触手が壁にぶち当たり、更に体液を撒き散らす。

 蹲ったアンジェの頭にぼとぼととねばついた液体が降り注いだ。

 その間に、なおも飛来する炎に責められた悪魔がより一層苦し気に胴をよじり、堪えかえたように跳躍した。

 高く。

 アンジェの頭上を、大きな影がよぎる。

 いくらもせず、背後で轟音があがった。

 悪魔の巨体が着地したのだ。

 悲鳴が遠ざかり、拡大していく。

 やがて、アンジェの蹲る裏通りに静寂が落ちた。 

 たすかった……?

 くたくたと力が抜けていく。

 完全に地面に座り込んだアンジェは、ようやく大きく息を吐き出した。

 喉に絡んだ悲鳴のせいか、不格好に数度咳き込む。

 そして、気付いた。


 口を覆った両手から、やっとの思いで手に入れた本がなくなっていることに。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る