東洋の楽劇隊

伊藤 黒犬

01 名前

 夜闇の中に静かながら安定した笛の音――


「助けて!」

 被さって少女の叫び声が響いた。青年は笛から唇を離し、顔を上げる。

 眉間にしわを寄せてサングラス越しに目を凝らすと、薄っすらと暗がりの中に人影が二つ見えた。一つは大柄で、もう一つは小柄でじたばたと動いている。

 大柄な影が顔を上げた瞬間、青年は咄嗟に目をそらした。

「……いやぁ、見苦しいものをお見せしてすみません」

 大柄な影、もとい男の柔らかな声に気まずそうな表情で青年は視線を戻す。男は片手で暴れる少女の腕をしっかりと掴んだまま、軽く頭を下げた。

「うちの娘はどうも夜遊び癖が直らないもので」

「違う! 私」

 少女が何かを言おうとした瞬間男の握る手に力が籠められる。うっ、と小さく声を漏らして少女は目を瞑った。まだ幼さの残る十代後半ほどに見える少女は黒い髪を緩く三つ編みにしている。編み込まれた金の紐が微かに光った。

「ほら、近頃凶悪な人殺しがうろついていると聞きますし、だから」

「そうでしたか」

 だが青年の発言に目線を上げる。

「え」

 戸惑いを隠せぬ様子の少女に視線を向けることは無く、青年は笛を鞄の中にしまい、代わりに取り出した携帯ライトで前方を照らしながら歩き出す。

 暗がりの中に丸く照らされたライトの明かりを見送りながら、男の柔らかな表情は溶け、ふっと鼻息を漏らした。

「男のくせにいくじの無い奴だ。偶然通りかかったのがあれだなんて、お前も運が悪かったな」

 薄ら笑いを浮かべる男に掴まれた少女は涙目で小さくなっていく青年の背姿を見る。

「そ、そんなことない、あの人は私のこと助けてくれるもん!」

 少女は青年の方に向けて叫ぶも、その声は夜闇に響いて、再び静寂が戻った。

「無駄だよ。あんな弱虫小僧にこの俺がやれるはず……ん?」

 青年が止まる。


 足を返し、二人の方へと来た道を戻った。

「何だあいつ、まさかやる気になったのか?」

 片口角を上げて男は空いている方の腕の肩を軽く回す。少女は青い両目でこちらへ近づいてくる青年の姿をじっと見つめている。

「どうかしましたか?」

 再び柔らかな笑みを作る男、しかし青年は無言でふっと視線を男に向けた。

 引いた拳を突き出すと同時に男は掌でそれを受け止める。

「はっ、お前みたいな意気地なしにヒーローごっこは無理だ」

 言い切らぬうちに男の表情が歪む。


 膨らんだ腹部に沈む拳。

 緩んだ口元をきつく閉じて、男は青年の端正な顔を睨みつける。

「テメェ、舐めた真似を」

 少女を放して腰からナイフを引き青年の顔を狙うもその手首は掴まれ、あらぬ方向に曲げられる。手放されたナイフが金属音を立てて地面に落ちる。

「し」

 声をこぼす間もなく男の腹部に蹴りが入れられ、態勢を崩した男は青年が手を離すと転倒して地面に頭を強く打ち付けた。うっすらと目を開けようとした男の首元に再び拳が入れられ、鈍い声を漏らして男の手足から力が抜ける。

 携帯ライトの白い明かりの中、草の上に横たわったまま動かなくなった男を見下ろして、少女は茫然とした様子で自身よりやや背の高い青年の顔を見上げた。

 青年は肩にかけた鞄から縄を取り出して慣れた手つきで男をくくっていく。俯いた青年の跳ねた短い黒髪に夜風がそよぐ。

「……た、助けてくれてありがとうございます」

 震える声を漏らす少女をちらりとも見ずに縛り終えた男の縄を引きずる。

「助けた訳じゃない。この人さらいの男に用があっただけだ」

 青年は歩き出す。慌てて少女は何かを言おうと言葉を漏らす。

「あっ、あの、えっと……お名前は」

 やっと口から出た少女の言葉に、青年は足を止めて怪訝そうな表情で振り向いた。

「素性の知れない奴に個人情報が言えるか」

 え、と固まった少女を置いて青年は再び歩き出した。縄できつく縛られた男は完全に気を失ったまま口から胃液を垂らしてずるずると草の上を引きずられている。

「あ、わ、私キヨラって言って、その、踊り子を」

 自己紹介する少女、キヨラの方を振り向かぬまま青年は進んでいく。




 ランタンの二つ吊り下げられた木の門の前で、青年は立ち止った。

「……いつまでついてくる気だ」

 突然の質問にキヨラは戸惑って声を伸ばす。

「あ……あ、貴方が笑うまで!」

「じゃあ無理だな。諦めてさっさとどっか行け」

 前を向いて門をくぐる青年の後をキヨラは慌てて追う。

「待って! 私、その……知ってる人とか、誰も居なくって、あ」

 頬に新たな痣を作っている男を引きずって青年は木造の建物の中に入って行った。キヨラはその後を追う。


 開け放された木の扉の先にはカウンターがあり、部屋の壁にはいくつものポスターが張られていた。

「ほ、本当に取っ捕まえてきたのか……あ、ああ、今懸賞金を持ってきます」

 カウンターの向こうに立っていた筋肉質な若者は縛られて気絶している男を見て、放心気味に奥の部屋へと入って行った。

 貼られているポスターのほとんどは指名手配犯の手配書で、その下部には比較的高額と言えるほどの金額が懸賞金として書かれている。キヨラが手配書を見回していると若者が奥の部屋から袋を持って出てきた。

「これがそいつの懸賞金です。ここで確認していきますか?」

「いえ、結構です」

 若者から袋を受け取ると青年は縛られた男を床に残したまま、その場を後にした。

「人は見かけによらないもんだな……ところで嬢ちゃんは」

 若者に声を掛けられてキヨラは首を横に振った。

「あ、いえ。何でもないです」

 急いで出て行った青年の後について行く。若者は不思議そうに開け放された扉の向こうを見ていたが、そうだ、と呟いてカウンターの手前の男の方へ回る。しかし扉をくぐる人影に顔を上げた。

「何かお困りですか?」

 フードを深くかぶった不審な姿に若者の目が細められる。フードの人物は若者から顔をそらすように左の壁へ視線を移し、中央に貼られたデジタル文書の手配書を見た。

「ただ、忘れ物を探しに。失礼しました」

 そそくさとフードの人物は部屋を去る。


 自転車がよりかけられた建物と建物の隙間から、僅かにフードを上げて通りをじっと見る。ぽつぽつと歩く人の中、きらびやかな衣装をまとっているにもかかわらず速足の少女、次にその前を振り向くことなくすたすたと歩くサングラスの青年に目を留めた。

「あれが……?」

 妙だと言う風に首を傾げ、マントの下に持っていた先ほどのデジタル文書と同じ紙、幼い少女の写真の周りにメモが書かれたその紙と青年を交互に見る。





「そこから動くな」

 立ち止った青年の命令に、キヨラは踏み出そうとした足を空中で止めた。

「は、はい」

 足をそっと地面に降ろし、鞄の中を漁る青年の姿を見つめる。青年は笛、それから中身の無い空き缶を取り出して路上に置いた。

「何をするの?」

 缶を不思議そうに眺めていたキヨラは青年に視線を戻す。返事はせずに青年は片手に持っていた笛の吹き口に口を付けた。

 静かで安定した、少し乾いた音が笛から洩れる。

「この曲……」

 キヨラは小声で呟いた。

 夜の街道に響き出した笛の音に通行人は足を止める。窓が開き、住民は笛を吹いている青年の方へ視線を下ろす。

 キヨラは後ろから歩み寄ってきた人にぶつかり足元を崩しかけ、踏み出しかけた足を止める。壁に手を突いて態勢を整え辺りを見回すと、じわじわと青年の周りには人だかりができていた。演奏の中からん、からんと硬貨や紙幣を缶の中に入れる音が鳴る。

 キヨラは目を閉じ、音に耳を澄ませた……


 ……時、演奏が止んだ。

「あれ」

 拍手喝采と投げ銭の音の中でキヨラは青年を見る。

 缶は溢れ返り、群衆が立ち去って行くのをしばらく眺めた後、青年は鞄の中から袋を取り出し口を緩めて缶の中身を移した。缶を鞄にしまい、路上に散らばった金銭を拾い集める。再び道行く人の話し声と硬貨を拾う音を残して静けさが戻る。

 瞬く間に散り散りになる人々をキヨラはぼんやりと眺めていた。

「すっごく綺麗な音だった、人もあんなにいっぱい……けど、あの曲って」

 ふとキヨラが辺りを見回すと、既に青年は少し離れたところを歩いていた。

「……ま、待って!」

 慌ててキヨラは後を追う。

 夜の街道に吊るされたランタンが路上に残されたままの硬貨を赤く照らす。



「まともな旅人にしか見えるけどな……」

 はっと息を止めてフードの人物は室外機の影に身をひそめる。

「大量殺人犯、殺人狂……稲葉、太陽」

 建物の隙間を見た青年、太陽は、視線を前に戻して歩いて行く。





 下町を通り抜ける 縦笛と懐かしい あの日のメロディー 口ずさんで

 砂漠の潮の音も 北風のざわめきも 遥か遠い地から 運んでくる

 赤いマントはためかせ まだ知らぬ路を行く

 夜空の星を数えた 幾夜の時を越えて


 東洋の楽劇隊

 作詞・作曲 不明

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る