第2話
あとになって、なぜこの時点でジ・エンドにしなかったのかと自問する。私は学生でも主婦でもない、夢を追うフリーターという中途半端な存在だった。その見果てぬ夢を捨て切れず、不安だったからかもしれない。
「嬉しいわ、洋子さんからの電話ずっと待っていたのよ」
一週間後に電話をした私に、受話器の向こうで由利は弾んだ声で言った。
「変な女だと思ったでしょう」
「・・いいえ・・」
「我ながら大胆なことしたわ。でも、お話したことは本当の気持ち。あなたみたいな人と友達になりたかったの」
「私なんかと・・」
「なんかは余計よ」
ひとしきり朗らかに笑い、由利は自分のことを喋りはじめた。何不自由ない贅沢な生活。今までずっと親の敷いたレールの上を安穏と生きてきたが、人形のように味気ない暮らしだと言う。
「でも私は由利さんがうらやましい。所詮プロになるなんてこと無理だし、お金がもっとあればどんなにいいだろうと、いつも思ってるもの」
「お金なんて一杯あっても虚しいだけよ、それより夢が欲しいわ」
「アパート代の支払いさえも苦しい、かつかつの生活でも?」
束の間、沈黙があった。控えめに、どこか躊躇しながら由利は、こう切りだしてきた。
「良かったら、私にあなたの夢の協力をさせてくれないかしら」
「協力?」
「そう、きっとお役にたてると思うわ・・そのかわり一緒に夢を見させてほしいの、他の世界を教えてほしいの」
酔狂なことを考える女だと、私は内心あきれていた。恵まれすぎて暇と金を持て余しているのだろうか。が、ことさらに断る理由もなかった。
「じゃ、よろしくお願いします」
「いいのね、協力させてもらっても」
「ギブアンドテイクということで」
「嬉しいわ」
由利は協定を結べて、心底うれしそうだった。私たちは次に会う約束を取り付け、電話を切った。自分とは違う世界に住むお嬢様と、私はこんなやりとりから親しくなっていった。
それにしても由利は、俗世間の若者が好む遊興に、ことごとく未体験だった。ライブハウスの熱気のある生音響やクラブで汗だくになって踊り狂う輩を、おのぼりさんのように目を見はって驚嘆するのだった。
「洋子さんのおかげだわ、こんな所に来れるのも」
「そんなにおもしろい?」
「ええ、とっても」
それらの費用は、すべて由利のサイフから出ていた。さいしょ遠慮がちだった洋子も、しだいにオゴられることが当たり前になっていった。
バンドのメンバーに由利を紹介した時、彼らは口々に言ったものだ。
「あんなお嬢様が俺たちの音楽に興味あるなんて嬉しいぜ」
「洋子さんの友だちじゃ珍しいタイプだなあ」
「上品だし綺麗だし、まさに高嶺の花」
いつのまにか由利はバンドの集まりにも顔を出すようになっていった。
「俺たち、ちょっと彼女に甘えすぎじゃないか」
嬉々として貸しスタジオ代や器材費のカンパをする由利に、学だけは渋い顔を見せた。
「絶対まずいよ、ハングリー精神がなくなっちまう」
それに対して良樹や他のメンバーは
「いいじゃねえか、相手は超大金持ちなんだから」
と笑い飛ばしていた。
由利は私を時どき、彼らには内緒で自分のテリトリーの場所に誘ったが、それは私がかつて足を踏み入れたことのない高級な世界だった。
たとえば銀座のマキシムや帝国ホテルのレストラン、著名人が出入りしている美容院やブティック。
由利からプレゼントされた洋服やアクセサリーを身につけた私は、深窓の令嬢さながらに変身し、そして未体験ゾーンに目をまるくするのは、今度は自分の番だった。
「なんか別世界にいるみたい・・」
そんな私に、余裕のある態度で微笑む由利がまぶしかった。
倉橋に出会ったのは、やはり由利に案内された高層ホテルにある、会員制のバーだった。
長身瘦躯で年齢は三十前後。銀灰色のシルク仕立てのスーツにロレックスの腕時計という出で立ちで、彼は突然私たちの前に現われた。
「はじめまして。由利の従兄で、倉橋といいます」
私は窓際のテーブルで、由利と向き合って座っていた。見知らぬ男にいんぎんな挨拶をされ、とまどう私に由利は苦笑いして説明した。
「ごめんなさい、予告なく会わせちゃって。あんまり私があなたの話ばかりするものだから、彼、あなたに会ってみたいって言い出したのよ。今日ここに来る話はしたけど、まさか本当にやってくるなんて・・」
困惑顔の彼女から傍らで立ったままの倉橋に視線を移し、
「よかったら御一緒に」
と私は声をかけた。
倉橋はほっとしたように、品のある端正な顔をほころばす。じゃお言葉に甘えて、彼はそう一言断り、由利の隣に静かに腰を下ろした。
「彼、私の父の会社に勤めているの。私ひとりっ子だから、もしかしたら次期社長になるかもね」
悪戯っぽい目で、由利は倉橋の顔をのぞきこむ。
「やめろよ、いきなり変な話」
倉橋は眉をひそめて
「洋子さんがびっくりしてるじゃないか」
と続ける。
名前を呼ばれたことに、むしろ私は驚いていた。彼は機敏にそれを察知し
「あ、すみません。軽々しく、洋子さんなんて口にして。由利から聞いてたものだから、つい・・」
「いいんです、そう呼んでください」
私はすまして答えたが、いつになく緊張していた。倉橋のような洗練された男は、今まで周囲にいなかった。
オーダーを取りにきたボーイに、彼は迷わずドライマティニを注文する。
窓の外はみごとな夜景。ガスライトの灯るテーブル。冷えたカクテルを飲みほし、私は身体も心も酔っていた。
目の前にいる由利と倉橋。まぎれもなく上流階級の彼らと対等に談笑している自分に酔ってたのかもしれない。
「すごいなあ、バンドで歌ってるんでしょう」
彼はさも感心したように私に言う。由利が横から口をはさむ。
「洋子さん、とっても上手よ。でも曲や歌詞がちょっと平凡だから・・」
彼女の言う通りだった。うちのバンドには歌作りの名人がいないのだ。由利のような素人にさえ見抜かれていることがショックだった。
帰りしな駅で別れる際に、倉橋は
「又、ぜひお会いしたいです」
と私の耳元でささやいた。学という恋人がいながら、その瞬間、私の胸は妖しくざわめいた。火照った頬を鎮めるように涼風が吹き抜けていく。知らぬ間に、夏は終わろうとしていた。
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