森鴎外の本名と同じ

「かけ直すって言ってもすぐかけてきそうだし、結が来たって言ったらまたややこしくなりそうだし。とにかく、ごめんなさいね」

「ううん。大丈夫」

 親しい女の人との電話でなくてよかった、ともやもやしていた自分に、結は自分で驚く。

「もしかして心配してた? 付き合って一か月でほかの女と仲良く電話してる奴はドブに放りこんでやればいいわ」

「だ、大丈夫。林ちゃんはそんな人じゃないと思ってるから」

 意地悪く微笑む林太郎に、結は思いきり手を振った。

 林太郎が穏やかな目で見つめてきて、結の言葉を待っているのだと気付く。

「えっと、今日、会社ですごい怒られちゃって。結果的に間違えたのはあたしだから、もちろんあたしが悪いんだけど、指示がものすごく遠くて聞こえなかったり、怒るのももう少し柔らかく怒ってくれればなあって思って。ものすごく凹んじゃったから、聞いてほしかったんだ」

 たいしたことじゃなくてごめんね。そう笑おうとしたら、林太郎が立ち上がって、結の隣へ座った。風が動いて、抱きしめられた。甘い匂いがいっぱいに広がる。

「いい子ね。よく頑張ったわ。偉い偉い」

 そうして、頭を撫でてくれる。

 結が悪かったら、林太郎はちゃんと叱ってくれる。そういう人だ。けれど今は結もちゃんと分かっているから、ちゃんと受け止めてくれるのだ。

 今一番ほしい言葉と、温もりを添えて。

「泣いてるの? 泣くのはストレス発散にいいから、たくさん泣きなさい。化粧崩れも心配しなくていいわよ」

「な、泣いて、ないよ!」

 林太郎の言葉が追いうちで、瞳いっぱいにもり上がっていた涙がこぼれた。あとからあとから、あふれてきて止まらない。なぐさめて頭を撫でてほしいと思っていたのは結自身だけれど、本当にされると破壊力が強すぎて卑怯だ。

 泣き声をかんで、涙がおさまるまで泣いて、『今ブサイクになってるだろうから嫌だなあ』と思いながら、顔を上げた。

「ありがとう。林ちゃん」

 林太郎は微笑んで、抱きしめていた両腕を解いた。

 そして両手で結の頬を思いきり挟んだ。

「あのねえ。ずっと思ってたんだけど、付き合ったんだから呼び捨てにしなさいって言ったでしょ。林ちゃんじゃなくて、り・ん・た・ろ・う!」

「え? そほ《こ》?」

 頬を挟まれているので、うまく発音できない。

 たしかに付き合うときに、『これから林太郎って呼んでちょうだいね』と言われたが、ずっと『林ちゃん』と呼んでいたし、林ちゃんは林ちゃんで、恥ずかしいので呼べていなかった。

「ほ、本名嫌いら《だ》ったらどうしようかなと思っへ《て》」

「何しらじらしいうそついてるのよ。呼ばせたくない奴には『リン』って呼べって言うし、林太郎って男感満載だけど、『森鴎外の本名と同じです』って説明するの楽だから、そこまで嫌いじゃないわよ。何より!」

 結の頬から林太郎の手が離れる。

「あたしが呼んでって言ってるのよ。結は特別なの」

 そう言って、林太郎はとても恥ずかしそうに目をそらした。珍しい様子に、『可愛い!』と思ったのと同時に、頬に熱が駆け上る。

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