1-3

 人を救った。そのはずだった。

 俺自身の動機はどうであれ、俺たちは確かに人を救ったはずだった。




***


――六年前。


 〈西暦2007年12月30日午前6時5分 イラク共和国 地方都市ティクリート〉




「どうだ?」


「駄目だ。これならお子ちゃまトランシーバーの方がまだ使える」


 そう言って無線を放り捨てた相棒に舌打ちで返答する。先ほどの砂嵐のせいか。つくづくこの地は厄介だ。


 首元のあせもに張り付いた砂がじくじくと猛烈な痒みを掻き立てる。それを深呼吸だけでどうにかなだめていると、相棒がより深刻な声音を出した。


「それともう一つ、ヤベえことになった」


「これ以上悪い知らせは聞きたくないんだがな。……なんだ?」


 ちらと隣を一瞥すれば、神妙な顔つきの相棒が重々しく口を開いた。


「実家の妹の自室にある本棚裏に隠してたAV処分するの忘れてた。見つかったら確実に殺されるわ」


 ニコラスは一瞬でも注意を逸らしたことを後悔した。

 年頃の娘の自室になんつーもん隠してんだ。そんなんだから妹から「サイテー」などと罵倒されるのだ。


 こちらの冷ややかな雰囲気を察したのか、相棒がすぐさま弁解を始める。


「まあ聞けよ。話せばわかる」


「後にしてくれ」


「もとを正せば妹が悪いんだよ。俺が入隊して留守してる間にアジトを占拠しやがったんだ。でなきゃお宝を残すなんてへまはしない」


「いいから任務に集中しろ。状況分かってんのか」


 苛立ちを堪えながらもニコラスは眼前の接眼レンズを見据えたまま、瞬きを堪える。今はまだ駄目だ。まだ。


 一方の相棒は、巨躯に似合わぬ剽軽さで肩をすくめたらしかった。


「分かってるさ。能天気かつ自信家なドレスデン少尉殿は、事前に具申した部下の忠告をすべて無視。無謀にも我ら第37偵察小隊による大規模パトロールを敢行し、道中の一団を保護しつつ、前哨基地COBへ帰還しようとしたところを狙撃されてリタイヤ。んで、小隊軍曹兼専任偵察員のお前が代わりに指揮を執ることになった、だろ?」


「……まあ、示威行為もたまには必要なんだろうが。分隊を小隊に統合したのは悪手だったな。高機動装輪車両ハンヴィーが八台もこんなとこに乗り込んでくりゃ、向こうだって警戒する。せめて二、三チームに分けてパトロールすべきだった」


「悪手? ただの馬鹿だろ。巡回ルート急遽変更して非安全確保地帯レッドゾーンに大所帯で乗り込んだ挙句、出くわした奴隷商とドンパチだ。向こうから先に撃ってきたとはいえ、こんなデリケートなとこで現地住民もろに刺激するようなこと普通するかよ。しかも自分は撃たれておねんねだ。相手、奴隷商だぜ? テロリストじゃなくて。二度と海兵隊マリーンを名乗らねえもらいたいもんだな。あんなのうちの恥だ」


「一応、合衆国安全保障局USSAは非安全確保地域でもこの区画は比較的治安も安定してて、現地住民も大人しいって言ってたぜ」


「冗談だろ。あれのどこが大人しいんだよ。どう見てもモガディシオの再現だぜ」


 相棒のぼやきに眼球を巡らせれば、街から禍々しい黒煙が幾筋も立ち上っている。ざっと見ただけで、ゆうに十は超えている。


 敵の暴徒――過激派組織『イラク解放戦線』が味方に送る一斉攻撃の合図だ。古タイヤなどの有機物にガソリンをぶっかけて燃やしているのだろう。『ブラックホーク・ダウン』再来というわけだ。


「二週間後には本国から視察が来る。手柄が欲しかったんだろ」


「冗談じゃねえ。美女ならまだしも、何が悲しくてあんなむさいおっさんの騎士ナイトやらなきゃなんねえんだよ。しかも下車もしねえチキン野郎のためによ」


「降りた途端、撃たれたな。それもケツ」


「はっ、ざまあみろだ。そのままタマも抜かれちまえ。――っと、来たぞ。S23B1前の十字路、一台だ」


 相棒の報告に、乾く眼球の猛烈な不快感に耐えて銃口だけわずかに右へ向ける。


 即席戦闘車両テクニカルと化したトヨタのピックアップトラックが、砂埃を巻き上げて交差点にドリフト停車していた。近くを歩いていた女が迷惑そうにスカーフチャードルで口元と鼻先を覆い、きょとんとした顔の幼子を引きずるように小走りで去っていく。


「五……いや六人目だ。赤茶のストール男」


 無言のまま、ニコラスは戦闘車両に取り付けられたDShK38重機関銃デューシュカをぴたりと見据えた。


 暴徒らが次々に荷台へ乗り込んでいく。その六人目、赤茶の頭部にストールをぐるぐる巻きにした男が、AK47自動小銃の銃口を天に向けて背後を振り返る。


 丁寧に慎重に深呼吸をした。

 はやる心臓をなだめるように、ゆっくり。


「方位90、距離452……ってとこか。気温、風向き変わりなし。修正するか?」


「いやいい。この距離なら


 ストール男はDShK38重機関銃の射手の肩に手を置きながら、荷台の男たちを見回しながら、仰々しく演説を始めた。指揮を取っているのか、仲間を鼓舞しているか。


 まあ、どっちでもいい。


 ニコラスは、ゆっくりと音もなく息を吸い込んだ。そしてゆっくりと息を吐き、肺の空気が残り二割になった刹那――ぴたり。息を止める。


 次の瞬間、男が左から右へ身体の向きを変えた。


 射手の肩に手を置いていた男の頭部が、射手の頭部と並んだ。


 砂塵が一瞬、止んだ。


――今。


 竹を割ったような、奇妙な発射音。


 一秒間かけて452メートルの距離を進んだ弾丸は、頭部を二つ穿った。荷台に崩れ落ちる二人を見て、相棒がヒュウと口笛を吹く。


「お見事、玉突きじゃん。流石だな、『百目の巨人アルゴス』」


「その呼び方やめろっつったろ」


「なんだよ。狙撃手らしいイカした呼称コードネームじゃねえか」


「だから嫌なんだよ」


 そう答えながら、再度荷台を入念に確認する。暴徒はすでに蜘蛛の子を散らして逃げており、射殺された男二人だけが割れた柘榴のような頭部を晒していた。


 それを確認して、ニコラスは念願の瞬きをした。

 敵二名、撃破キル


 溢れ出す生理的な涙が眼球を潤す痛みを味わっていると。


「でだ、件のAVの話なんだけどよ」


「その話まだ続ける気か」


「相変わらずノリが悪いな。こんな状況にこそジョークは必要だろ?」


「俺は必要ない」


「なら今度は『死に際に残すカッコいい最後の言葉大賞』やろうぜ。最優秀賞はブームブーム (エナジードリンクの一種)一箱プレゼント」


「おいやめろ」


 不謹慎すぎる相棒に抗議したその時、待ち焦がれた地上班からの応答がようやく返ってきた。声が上ずっているのは焦燥のせいか。


『こちらマリノアB3。現在、ハンヴィーから積み荷を降ろして荷台スペースを確保。先ほどから民間人の収容を開始しています。あと五分もあれば出発できるかと』


 遅い、という言葉をニコラスは飲み込んだ。新兵の彼に怒鳴ったところで現状が改善されるはずもなし。第一、負傷した小隊長から引き継いだ命令とはいえ、無茶の過ぎる指示なのだ。


 敵に包囲されつつある状況下で、40名近くのイラク市民を保護しつつ、前哨基地FOBへ撤退するなど。


 32名しかいない海兵隊員にどうしろというのか。しかもうち10名は新兵だというのに。


 愛銃のM40A3狙撃銃の頬付けチークパッドの位置を直しながら、ニコラスは努めて冷静に指揮する。


「イーグルG 1了解。民間人用の水、食料、医療キッド以外は全部降ろせ。それと、あと三分で済ませられるか?」


『やってみせます。——あと自分は、「ロッカーに入ってる手紙を宛名の女の子に届けてください」でお願いします』


「おいこらフレッド、テメエ部隊通信で喋ったな?」


 初めてスコープから目を離して怒鳴れば、ニヤつき顔の相棒が無線送信ボタンを押したまま舌を出している。


 道理でさっきから応答がないはずだ。全員自分たちの会話に耳をそばだてていたのだから。


 新兵の返答をかわぎりに、悪ノリした兵士たちが無線回線を占拠し始めた。


『両親に預けた犬の面倒を見るよう言っといてください』


『くたばれ馬鹿ドレスデン!』


『誰か俺が卒業パーティープロムで会った女の子の連絡先しりませんか?』


『妻に「実は愛していなかった」と伝えてくれ』


「お前らいい加減にしろ! あとウィルビーはしれっと家庭内の事情を持ち込むな、伝える奴がめちゃくちゃ気まずいだろうがっ」


 「最優秀賞はウィルビーだな」と笑う相棒を脚だけ伸ばして蹴飛ばすも、小憎たらしいほど恵まれた巨体は揺るぎもしない。ゲラゲラ笑う無線の兵士と一緒に忍び笑いをしているだけだ。


 ニコラスは溜息をついた。厄介な時ほどジョークが増える相棒の性質は心得ている。が、今回は状況が状況だ。とてもではないが、軽口など叩ける気分ではない――。


「そんな顔すんなって、ニック」


 視線を向ければ、こちらを見つめる相棒がいた。先ほどの悪ふざけが嘘のような、真摯で穏やかな笑みを湛えて。


「クソ少尉の尻拭いは癪だけどよ、ほっとけないだろ? 俺たちがここにいる以上、ここは戦場になる。あの子たちも巻き込まれる」


 ニコラスは地上に目を戻した。


 錆びた鎖に南京錠の粗雑な手枷をはめられた女子供たちが、虚ろな表情でハンヴィーに乗り込んでいく。過激派に売られるはずだったたちだ。


 この国に派兵されること三回。周囲からはベテランと呼ばれるようになろうと、これだけは慣れなかった。


「所詮俺らは猟犬だけどよ。たまにはいいじゃねえか、こういうのも。いい加減腹くくりな、新小隊長」


 相棒に続いて無線のあちこちから威勢のいい声が返ってくる。ニコラスはそのお気楽名ともいえる前向きさに、長く、だがふうっと息をついた。


「分かってる。やれることはやるさ」


「そうこなくっちゃな。――お」


 相棒が耳の無線を押さえた。

 地上班が、ようやく民間人の収容を完了させたらしい。


 これでこの地獄ともおさらばだ。新兵諸君は。


 ベテラン勢20名はこの場に残る。民間人を無事脱出させるためには、誰かが敵を引き付け、退路を拓く必要がある。


――民間人を守って殿を務める、か。映画に出てくるヒーローだな。


 ニコラスは自嘲した。


 正直なところ、羨ましいと思っている。ドレスデン少尉の真っ直ぐな善意が。

 残忍な独裁者から民衆を解放し、民主主義を根付かせる。そう疑うことなく信じられるその性根が眩しく、虚しかった。


 今回が初のイラク派兵で、ものの数回しか下車しなかった少尉は気付けなかったのだろう。自分たちを見つめる、イラク市民のあの目に。


 『イラクに存在する大量破壊兵器の捜索』。その大義すら失われようとしている今、無用な戦争を引き起こしたのではないかと世界が勘繰り始めた現在。

 国に混乱を招き、荒れ果てた末に生じた人身売買の被害者を救出する自分たちの行いを、果たして世界はどう見るのだろうか。


 正義か、それとも偽善か。


「待てニック、子供がいる!」


「子供?」


 腹ばいから立て膝姿勢になり、愛銃でぐるりと周囲を見回す。


 300メートル先、街の細い路地に黒いものが動いている。スコープの倍率を調整し、その正体を見るなり彼は息をのんだ。


 少年だ。


 10歳そこそこだろうか。薄汚れた布を雨合羽レインコートよろしく身にまとい、路地を転がるように走っている。


 まず疑ったのは過激派の少年兵だ。奴らは厄介だ。自己防衛意識と倫理観が欠如しているせいか、捨て身の戦闘を仕掛けてくる。


 確証はない。だがそうでないという保証もない。

 だからニコラスは、見なかったことにした。


「過激派の少年兵だ。ほっとけ」


「待てよニック! よく見ろ、敵があの子を追ってるんだ」


 相棒の発言に彼はさらに倍率を調整する。


 子供は路地をジグザグに駆け抜けており、その背後を15人近くの民兵が追いかけている。時おり後ろを振り返りながら走り続ける子供に、彼は眉をしかめた。


「ありゃ誘導だ。味方を俺たちのとこに誘導してるんだ」


「味方誘導すんのにあんな必死の形相するわけねえだろ! 頼むニック、お前なら当てられるだろ?」


 ニコラスは口元をへの字にひん曲げた。こうなるとコイツは絶対に譲らないのだ。


「……もう車両は満杯なんだぞ」


「チビ一人ぐらいなんとかなるだろ」


「勘弁してくれ。理想主義者は小隊長殿だけで十分だ」


「俺はあれよりもっと現実的な理想主義者だね。……車列を誘導するぞ。こうなったら英雄ヒーローになりきってやろうぜ」


 熱血漢め。


 溜息交じりに苦笑したニコラスは、無線に指示を飛ばす相棒を横目に照準を定める。

 狙いは少年を追う民兵、その先頭を走る男。


 紙鉄砲が鳴るような軽い銃声。


 男の頭上、建物の壁面で土煙が上がる。自軍の狙撃班の放った弾丸だ。大外れだが無理もない。動く的に当てるのは本来至難の業だ。


 だが敵は土煙に気付き、頭上を見上げた。

 脚が止まった。


――今。


 引金を絞り切る。迅速に、かつ丁重に。


 頭部命中ヘッドショット。民兵は地面につんのめり、ピクリとも動かなくなる。


 ニコラスは顔色一つ変えず次弾を装填する。視界に動く標的の人影が、フィルム映画のコマ送りの如く進行方向に浮かび上がる。


 偏差射撃――元来、高速で移動する戦闘機同士の航空格闘戦ドッグファイトにおいて使用される射撃法。動く標的の移動速度と着弾までの時間差を計算し、標的の未来位置を予測して撃つ見越し射撃。


 ニコラスの十八番だった。


 立て続けに銃声、三発。


 今度は胸や下腹部を撃ち抜かれた民兵が三人地面を転がった。苦悶の表情で転げまわる仲間に怖気ついたのか、追手の速度が落ちる。そこに自軍の狙撃が集中し、敵は慌てて物陰に逃げ込んだ。


 チャンスだ。


 追手への狙撃に気付いた少年は、刹那どうすべきか逡巡し、すぐさま駆け出した。


 ニコラスたちが援護し、少年が走る。


 その路地の突き当たり、一台の車両が少年の行く手を阻むように急停車した。カーキ色のボディをケブラー装甲で補強し、対地雷用に底面防護力を強化した装甲車。相棒が誘導した海兵隊仕様のハンヴィーだ。


 自軍の兵士が少年へ駆け寄ったのを確認したニコラスは、ようやく一息ついた。


――上手く生き延びろよ、チビ助。


 最後に顔でも拝んでおくかと、スコープ向け、凍り付いた。


 目が合った。


 距離は400メートル近く。しかも自分は尖塔屋外の欄干の影に隠れ、双眼鏡を使ったとしても、子供からは彼の愛銃の先っぽと髪の毛がちょっと見える程度のはずだ。


 しかし、子供は真っ直ぐにこちらを見ていた。


 自身の命を救ったことへの感謝ではない。

 祖国を踏み荒らす侵略者への憎悪でもない。


 森の木漏れ日の届かない、生い茂る木々たちが創り出す闇の中、そこからこちらを覗く、獣の眼だ。


 ――お前の行い、見たぞ。――


 深緑の双眸はそう言っていた。




 ***




 こうして、俺たちは民間人を無事救出した。


 たとえ海兵隊第37偵察小隊の32名のうち12名しか生還出来なかったとしても、親友を失ったとしても。命を懸けた甲斐はあったはずだった。


 だが、そうはならなかった。


 新兵に護衛された奴隷たちは、前線基地の米軍ではなく付近を巡回中だった国連部隊に保護された。


 悪夢の始まりだった。


 これまでのトラウマとパニックのせいか、奴隷たちは、あろうことか自分たち海兵隊員に乱暴されそうになったと国連部隊に訴えたのだ。確かに奴隷たちを無理やり車両に乗せはしたが、それは街から脱出させるためだ。暴行などこれっぽっちもしていない。新兵はそう弁解し、説明した。


 だが、それを聞いた国連は、世界は違った。


「米軍が民間人をテロリストと勘違いして暴行を加えた」


 アメリカは、たちまち世界中の非難を浴びることになった。

 その屈辱からか、政治家ならびに世論は怒りの矛先を生き残った自分たちへと向けた。ある意味、長引く戦争と不況へ不満を溜め込む国民への生贄スケープゴートだったのかもしれない。


 地獄の釜の蓋が開いた瞬間だった。


 帰還兵12名のうち、5名が自ら命を絶ち、4名が生きたまま死んだ。麻薬に手を出し酒に溺れ、精神病棟の住民となった。残り3名は再度の派兵を渇望し、二度と祖国の地を踏むことはなかった。


 愛する家族から縁を切られ、軍事機密もへったくれもない報道という名の罵詈雑言を浴びせられ、死してなお「自死など無責任」と責め立てられた。しごく当然の結果といえるだろう。


 それでもニコラスは軍に留まり続けた。二年前、即席爆弾IEDで負傷するその時まで、狙撃手として戦い続けた。


 心臓に刻み込まれた、とある子供の言葉を楔に。


 出来損ないの英雄は死に損なった。

 幸か不幸か、自分にはそれがまだ、分からない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る