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〈西暦2013年6月6日午前8時54分 アメリカ合衆国連邦、北部ミシガン州 元デトロイト市街〉


 手前に三回、二回。返して二回転からのホルスターキャッチ。これで本日の朝課が完了する。


 ニコラス・ウェッブの生活は極めて規則正しい。


 起床は四時、筋力トレーニングを含めた鍛錬をを屋上で三時間こなして、三十分の入念なストレッチ。それからシャワーを浴びて、軽く室内の清掃と洗濯等の家事を行い、今の相棒――トーラスPT92自動拳銃の手入れをする。


 ガンスピンもその一つだ。銃を扱う者としてあまりよろしくない振る舞いだが、しないと落ち着かない。なので精神安定の意味も込めてやっている。


 ちなみに、ニコラスが憧れたのは西部劇の花形ビリー・ザ・キッドではなく、ガキの頃に流行ったSF映画『ロボコップ』だったりする。名の通りサイボーグとして蘇った警官が極悪人から市民を守る物語で、変に着飾らないあけすけさが好きだった。


 ゆえに、ニコラスにとってのヒーローは、アメコミ雑誌に載っているマントやらマスクを被った連中ではなく、銃片手に容赦なく悪人を撃ち殺すサイボーグ警官だった。


 ふと目線を上げれば、鏡の中から目つきの悪い黒髪の男がこちらを睨んでいる。


 ゲルマン系の特徴を残す彫りの深い顔立ちに褐色の肌。アメリカ人にしてはやや低めの177センチ。光の反射によっては金色に見えるらしい黄土色の瞳は、吊り目に三白眼なせいで、泣かれたことはあっても褒められた試しがない。慢性的な寝不足による目下の濃い隈も目つきを悪化している要因だろう。


 ヒップホルスターに収まった拳銃を一撫でしたニコラスは腕時計を確認した。


 の相棒を起こしに行く時間だ。


 バスルームを出たニコラスは廊下を進み、その奥にある寝室へと向かった。歩くたび左脚にも慣れた。


 寝室に辿り着いたニコラスはドアを控えめにノックした。返答はない。ニコラスは慎重にノブを回し、室内に身体を滑り込ませる。


「おい」


 寝室のベッドの真ん中、毛布でくるまれた塊に、ニコラスは遠慮がちに声をかけた。


 反応はない。


 頭からすっぽりと覆われているのでどこが頭か分からないが、とりあえず肩らしき部分を掴んで揺さぶってみる。すると、「うーん」という声とともに毛布の塊がモゾモゾ動いた。


「おい起きろ。朝だぞ」


「ん……」


 舌足らずな可愛らしい声が聞こえるが、起きようとする気配はない。仕方なく毛布を剥ぎ取ると。


 美少女が寝そべっていた。それも男物のワイシャツとショーツだけ着た。


 14、5歳と見紛う童顔だが、その身体つきは成熟した女性のそれ。絹糸のごとき黒髪は顎のラインで無造作にカットされ、うなじの部分だけが尻尾のように長い。彫りの浅い顔立ちは東洋の血が入っているからか、それでも鼻は高く形も品が良い。肌は上物の象牙が如く、赤みを帯びて健康的だ。


 彼女こそニコラスの今の相棒、ヘルハウンドこと、ハウンドである。


 ハウンドは「んんぅ」と手足を伸ばし、ようやく瞼を開けた。

 漆黒の瞳がこちらの姿をとらえると、眠たげな表情が悪戯っぽい笑顔に変わった。


「おはよ、ニコラス」


「……おはよう」


「んじゃおやすみ」


「おい」


 即座にツッコんだニコラスだったが、彼女はこちらに背を向けごろんと寝返りを打つ。二度寝する気満々だ。さすがに苛立ち、ワイシャツの襟首を掴もうとして。


 逆に掴まれた。


 物凄い勢いで腕を引かれたニコラスはバランスを崩し、ハウンドに覆いかぶさるようにベッドに手をついた。その隙にハウンドは素早くこちらの首に腕を回し、がっちりとホールドする。


 傍から見れば恋人同士のベッドイン。そんな体勢で、ハウンドはしげしげとこちらの顔を覗き込み、口、鼻、肩と順繰りに顔を寄せてスンスンと鼻を鳴らす。それから頬っぺたをみょんぶみょんにょんと引っ張り回した。


「おい……」


「ん、表情筋が死んでないかな~って思って」


「……表情筋が死んでたら口の開け閉めも瞬きもできないと思うんだが」


「それもそうか。けど、うん。前より隈が薄いし顔色もいい。口臭も体臭もよくなった。会った時より男前になったな、ニコ」


 ニコ、と変わった愛称 (普通はニックかニッキーだ)で呼んだハウンドにニコラスは呆れた。


「いい加減ふつうに起きてくれ。毎朝毎朝めんどうだ」


「朝のキスもしてくれない甲斐性なしを仕込んでなにが悪いのさ。それに私、一応飼い主なんだけど?」


 ニコラスは溜息をつこうとして、飲み込んだ。いくら11歳年下のガキとはいえ、若い女性の顔に息を吹きかけるのは躊躇われる。


「おい、いい加減放せって――」


「昨日は悪夢、見なかった?」


 唐突な質問にニコラスは一瞬言葉を詰まらせた。


「まあな、」


「嘘。ニオイでバレバレ」


 ニコって顔には出ないけどニオイは正直よね~、などと言われ、閉口する。


「……別に悪夢なんて、珍しくもないだろ。とっくの昔に慣れた」


 そう言って、腕を振り払った。


偽善者ムナフィック』。イスラム教聖典において最悪の異端者を指す言葉。イラク市民が自分につけた蔑称であり、合衆国におけるニコラスへの評価そのものでもある。


 どれほど戦功を立てようと、軍を去ろうと、残されたのは汚名だけ。


 立ち上がりかけたニコラスのこめかみ、髪の中に細い指がするりと滑り込む。


「…………なんだ」


「い~や? 相棒が落ち込んでいるようでしたので」


 わしゃわしゃ頭を撫で繰り回す少女にニコラスは辟易した。


「番犬役ならともかく、犬っころそのものになった覚えはないぞ。雇用契約書でも扱いは『助手』はずだ」


「いいじゃん、頭なでるぐらい。気持ちいいし。あ、それとも恥ずかしい?」


「言ってろ」


 細腕を叩き落としながら吐き捨てる。


 この程度の誘いで舞い上がるほど青くはないし、そもそも女は苦手だ。特に、こういう男を振り回すのは好きなくせに、振り回されるのは大嫌いな典型的な気まぐれ女は。


 誘ってるのだって、こっちが拒む前提で絡んできている。本気にすれば、痛い目を見るのは十中八九こっちだ。


 第一、この女は得体が知れない。


「ああ、そうそう。そこの、今週分の給料な」


 サイドテーブル上の封筒を指さした。確認して見れば500ドルも入っている。


「毎度思うんだが本当にこんなもらっていいのか?」


「いいのいいの。ニコ家事もやってくれるし。つーかニコほとんど貯めてるでしょ? 靴ぐらい買ったら? ボロボロじゃん」


「穴が開いてないんだからいいだろ」


「穴って。あ、もしかして誰かに仕送りしてる? 女? 女か?」


 からかい顔で目を輝かせる少女を胡乱気に睨む。とはいえ、質問は質問だ。ニコラスはしばし考え。


「いや。……男だ、多分」


「なにそれ?」


「探してる奴がいるんだ」


 親兄弟ではない。友人でもない。恋人でもない。

 かつて、スコープ越しに目が合っただけの少年兵。命を救ってもらった恩義を律義に返しにきた小さな子供。


 人殺しの俺を英雄ヒーローと呼んだ、物好きな奴。


「昔、約束したガキがいるんだ。アメリカで会おうって。貯めてんのはそいつへの仕送りだ」


「なんだつまらん。せっかく冷やかしのネタができたと――」


 振動。半秒遅れて、轟音。


 ぎょっとして窓を振り返れば、乱立するビル群の間をぬって黒煙が吹き上がっている。かなり近い。1マイル (1.6キロ)といったところか。

 だが、


「おっ、今日は30番地か。派手にいったな~。あの辺りはアラーニェ・ギャングの縄張りシマだね。ライバルチームのアジトでも吹っ飛ばしたかな?」


 日曜日にソファーで野球観戦に興じるおっさんよろしく、寝そべったまま頬杖をついたハウンドは大欠伸をしている。ニコラスは眉をしかめた。


「暢気なこと言ってる場合か。結構近かったぞ」


「平気、平気。よくあることさ。この街じゃ、ね」


 ベッドから飛び降りたハウンドは、鼻歌を歌いながらバスルームに消えた。ニコラスは再び窓に視線を戻す。


 そこには映画『ロボコップ』と同じ光景が広がっていた。


 スモッグで掠れ切った空、冬の積雪で傷んだ凹凸だらけのアスファルト、下水と生ごみの悪臭混じりのビル風。

 明かりのない廃墟には不法住民で溢れ返り、割れた窓ガラスの代わりに設置されたベニヤ板や襤褸布が住民のプライバシーと安全を辛うじて守っている。


 傾いた電柱の根元では、ホームレスがドラム缶の焚火を囲んで、黄ばんだ歯を剥き出しに馬鹿笑いを響かせる。ガードレールに座って足をぶらつかせる孤児は、財布を掏れそうなカモを探して通行人に目を光らせる。


 それら荒廃した世界を取り囲む、高さ15メートルからなる黒々としたフェンスの上部には、監視カメラがずらりと居並んでいる。極太の鉄格子と金網を組み合わせた厳重なそれは、自分が知る合衆国の風景を覆い隠すには十分すぎた。


 かつて世界有数の大都市と持てはやされたたデトロイトの面影は、そこになかった。


 ここは『特区』。

 アメリカ合衆国に誕生した犯罪都市にして、世界屈指の暗黒街。


 そんな街で代行屋「ブラックドッグ」という名の便利屋を営んでいるのが現在の相棒ヘルハウンドであり、自分は彼女の助手だったりする。


「ところで今日の朝食なに?」


「ベーコンエッグサンドと紅茶」


「ミルクティーがいいな~」


 今度は溜息を堪えなかった。


 ニコラスは渋面の顕わに、冷蔵庫から取り出したミルクのボトルを、皿が跳ねない程度に乱暴に食卓に置いた。




 ***




 午前9時40分。


 12階の自宅から同じ建物、一階のカフェ『BROWNIE』へと降りた二人は、白ワイシャツに黒のスラックス、腰エプロンのウェイター制服 (ハウンドはベストもついている)に着替え、開店前の準備をしていた。


 相変わらず、レジ横に設置されたレトロな携帯ラジオから流れる古臭いジャズが、やけに似合う店だ。


 乳白色のレンガ壁に、暗色を基調としたオーク材の家具がよく映える。ところどころに傷が入った床は年季を感じさせるが、その上から幾度となく塗り重ねられたワックスで、落ち着いた品の良さを醸し出している。


 そんな床を板目にそって箒で掃く。

 板間の僅かな隙間に入りこんだ塵も、穂先で丁寧に掻き出す。


 別にそこまでせずとも、と思わなくもないが、元が綺麗だったので、何となく元の状態に戻さないといけない気がするのだ。


 棚の上や窓枠には、客が置いていったレトロな玩具やジャズのレコードが所狭しと飾られている。一見とっ散らかった印象を受けるが、これが不思議と落ち着く。あえて部屋を散らかして安心を得ようとするようなものかもしれない。


 イギリスの伝統的なパブと、五十年代のアメリカのダイナーを一緒くたにしたような、そんなカフェだった。


「掃除終わったぞ」


「ん。じゃ次はテーブルふいといて」


 ハウンドの指示にニコラスは無言で従う。

 この不況のご時世、無一文の傷痍軍人なんぞを雇う物好きはそういない。しかも住居と食事つきでだ。胡散臭いことこの上ない雇い主だが、追い出されたくはなかった。


「終わった」


「んじゃ次はテーブル調味料の補充ね」


 またもニコラスは素直に従った。


 代行屋の窓口としてカフェを借りている自分たちは、代わりに店の手伝いもやっている。ちなみにカフェの店長は高齢なこともあり、いつもオープン直前にやって来る。


 にしても、かつて狙撃手だった自分が今やカフェの店員&代行屋の助手とは。かつての同僚がこの場にいたら五度見ぐらいはするんじゃなかろうか。親友だったら確実に爆笑する。笑い過ぎて何かに蹴躓いてすっ転ぶまでがワンセットだ。


 ふと古臭いジャズが途切れ、男の声にとって替わった。かしこまったニュースアナウンサーの声音は酷いノイズのせいで台無しだったが、言ってることは辛うじて聞き取れた。


〈――ザザッ、今月5日、……大統領はミシガン州特別経済自治区、通称『特区』への人道的支援を目的……法案を議会へ提出し……この法案をめぐり、議会からは批判が噴出して……ザザッ、国営の実験都市である特区は……唯一の経済自治区として自治権が認められるも……以来、最悪の犯罪都市と評され……回の法案に対し、合衆国安全保障局(USSA)長官は「特区に巣食う犯罪者への支援など言語道断」と一蹴――〉


 耳をそばだてていたニコラスは、気が抜ける鳴き声に目を上げた。壁の鳩時計が午前10時を告げている。


「お、時間だな。ニコ、看板出しといて~」


 間延びした相棒の声に、ニコラスは立て看板を小脇に抱え、代行屋の窓口であるカフェの裏口へ向かおうとした、瞬間。


 裏口が激しくノックされた。


「……か、誰かいませんか!?」


 裏口越しに焦りと恐怖を帯びた、幼い声。


 ニコラスとハウンドは顔を見合わせた。どうやら今日の依頼人、かなりの急用らしい。

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