#9 「傷だらけの記憶」

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 次の日、開発機を輸送する車を尾行するため、凪とマナは受け渡しが行われるビル内の喫茶スペースで待機していた。


「意外と主婦っぽい人が多いな。平日の昼間だとそういう感じになるのか」凪がきょろきょろと視線を動かしながら言う。

「私達すっごい浮いてるよね……。うー顔熱くなってきた」マナは手をパタパタさせて顔を扇いでいる。


 この高層ビルは都心の一等地に位置しており、下層に観光客向けの店舗が、上層に企業のオフィスが入っている。川電も入居テナントの一つだ。

 高級感のある喫茶スペースの客層は金回りが良さそうな身なりの女性が主で、その中にちらほらと商談あるいは休憩中なのであろうスーツ姿の客が混ざっている。はたから見た二人はラフな服装の中高生カップルで、この場では明らかに浮いていた。


「本社がこんなところにあるなんて知らなかったな。名前通り川崎にあるのかと思ってた」

〈今川崎にあるのは工場だけよ。昔は全ての拠点があっちにあったらしいけどね〉


 通話中の晴香がイヤホン越しに言う。彼女は今日もフクロウ型の無人機での参加だ。今は警備室に潜り込み、地下駐車場と、川電の受付がある十四階の映像をチェックしている。


 凪はふと、向かいの席に腰掛けるマナが不安そうな溜め息を漏らしたことに気づいた。


「大丈夫?」

「……ああ、うん。ちょっと緊張しちゃって」

「晴香の家で待機しててもよかったのに」


 むしろそうしてほしい──凪はそう思っていた。

 Alicorn Softwareの実体が辿れないことが不安だった。この組織が晴香の両親に纏わる事件と関連するものなら、反社との繋がりも警戒する必要がある。今回の尾行がマナの正体や事件の真相に近づくものであるなら、この先何があってもおかしくない。そんな行為に彼女を引き連れながら臨みたくなかった。


「大丈夫、私はどうなってもいいの。前に凪くんが私を助けてくれたときみたいに、これからは私が凪くんを守るよ」


 そう言うマナは、どこか清々しさを纏った笑みを浮かべている。


「……君が君自身を軽く扱うのは嬉しくないよ」


 僕が今ここにいる理由は、君が『どうなってもいい』と言うそれを守るためなのに──そんな言葉が喉まで出かかった。


 マナが危険を冒してまで凪に同伴するのは、いざというときに彼女の特殊な力──〝ヒギンズの箱庭〟に働きかける能力──を利用できるようにするためである。


 〝ヒギンズの箱庭〟とは、晴香が行動管理クラウドの構成するこの世界のシミュレーションを指して言った言葉だ。行動管理クラウドはhIE及び制御下のセンサーから送られた膨大な情報を用いて、この世界をそっくりそのまま写し取った箱庭を、その制御主体である超高度AI〝ヒギンズ〟の内部に構成する。巷に溢れるhIEの行動は、例外なくこの箱庭によるシミュレーションを用いて決定されている。


 マナはこの〝箱庭〟の中に、現実には存在しない人間の情報を紛れ込ませ、その体を自由に操ることができる。この能力はいくつかのルールに従うらしい。


 1. 箱庭内の体の作成と破棄は任意のタイミングで可能

 2. 体の作成時の初期位置及び姿勢は現実世界のマナの状態に対応する

 3. 箱庭内での移動能力は一般的な人間のものに従う

 4. 箱庭内での姿、及び発話した内容はhIEに認識される

 5. 箱庭内と現実世界のhIEの行動は完全に同期しているため、hIEを通じて箱庭内から現実世界に影響を与えることができる

 6. 箱庭内のものを動かすことはできない。触ることができず体がすり抜けるものと、さわれるがびくともしないものがある


 マナの能力はこの制約上、いざというとき近くにいなければ使い物にならない。そのため、マナ自身が同伴を希望した。

 凪も晴香も乗り気ではなかった。しかしマナに一人で尾行することのデメリットを滔々と説得され、そのまま押し切られたのだった。


「失礼いたします」


 窓の向こうの屋上庭園を漠然と見やっていた凪は、その声でやっとウェイターの存在に気づいた。せっかく来たからということで、マナと一緒に軽食を注文をしていたのだ。


 マナの前にほうじ茶と抹茶パフェが並べられる。その後で、凪の前に抹茶アイスが置かれる。その手付きは終始丁寧さを維持していた。


 ウェイターは小さくお辞儀をし、静かにカウンターの方向へ去っていった。


 テーブルに置かれた抹茶アイスに目をやる。

 少し大きめのシックな器に、十分だが上品な分量で盛られた氷菓。添えられたスプーンは何故か表面がでこぼこに加工されている。こういうのがおしゃれなのだろうか?


「なんというか、すごいね」普段なら絶対に食べることのない価格帯のそれを前にして、あまりにも語彙の貧困な感想が漏れた。

「私、生まれて初めてのごはんかも」本来食事の必要ない彼女が目を輝かせて言う。


 その笑顔を見て、ふと疑問が浮かぶ。


「そういえば、記憶が無いって言ってたけど、パフェが何かは知ってるんだね」

「出来事の記憶がないだけだから、大体の食べ物の名前や味は知ってるよ」


 体感として、出来事と事物の記憶の違いというものが想像できない。彼女の説明に、凪はどこか不思議な気持ちになった。


「……いただきます」


 マナは手を合わせておずおずと頭を下げ、そのままパフェを一掬いして口に含んだ。直後、その目が遠くを見るように細まる。


「おいしい?」

「……うん、涙出てきそう」


 彼女は少しおどけた口調で「まあ、そもそも私涙出ないんだけどね」と付け加えた。他愛もない冗談に笑いのリアクションを返す。もし今後アンドロイドが人間相当の存在であると認められる未来が訪れたとして、その時このやりとりは不謹慎ギャグに相当するのだろうか。

 くだらない事を考えているうちに溶けてしまったら勿体ない。手元のアイスを掬い、口に運ぶ。


 美味しい。


 普段食べる抹茶アイスとは甘さの深みが違う。甘すぎるとかくどいとか、そういうことではない。味蕾に与える感動の絶対量が違うのだ。その刺激から僅かに遅れて、仄かな苦味と落ち着いた香りが鼻に抜ける。

 それは口の中でほどけ、心地よい後味を残してゆっくりと消えていった──儚い。


「おいしい……大満足だ……」思わず声が漏れた。


〈いいな、あたしもそこの抹茶アイス食べたかったんだよね。今度連れてって〉通話越しに晴香が言う。〈それはそれとして、星野は? まだ来ないの?〉


 常に同じ車両で尾行しつづけるのは発覚のリスクが高い。そこで、凪と星野の車両の二台体制で、互いに連絡を取り合いつつ適当なタイミングで交代しながら追うという話になっていた。


「渋滞に捕まって少し遠回りするから遅れるって。四時には着くってさ」


〈ギリギリだなー。こっちの作業が終了したらすぐに拾ってもらいたいから、駐車場出口のコンビニで待機してもらうよう言っておいて〉


「うん、わかった」


 星野にメールを送る。おそらく運転中だろうから、すぐには返事が来ないだろう。

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