第39話:【正太】薬売りの正体─4

 のたうち回るうち、背中が壁についた。ほんの少し、なにかに守られている気がする。打ち寄せる波を前にした砂遊びのスコップ、くらいの物だけど。

 膝を抱え、脛をさすり続ける。ズボンから出た素足の部分が、どうにも無防備に思えて嫌だった。


 化け物は、見えたり見えなかったりした。触れるかどうかの所で、赤く光る目玉だけの顔を笑わせる。

 きっと目を瞑ったら、食われてしまうんだ。

 勝手にそう思って、まばたきさえも我慢した。声を上げれば、きっかけにして食われるかも。ちょっと動けば、その部分をもぎ取られるかも。


 自分で自分を、身動きできなくしていく。

 それが何分。何時間続いたのか全くあやふやだけど、いつしか僕は眠っていた。きっと夢も見なくて、はっと気付いても闇から闇へ移動しただけだ。


「お腹空いた」


 緊張感のないセリフを、ため息代わりのような声で言うのは誰だろう。

 僕もお腹が空いて、疲れて、首を動かすのも面倒になってきた。視線だけで探すけど、誰も見えない。


「お腹空いたよ」


 ああ。

 僕の声だ。口を動かしている自覚が無かった。それに干からびていて、自分の物とは疑わしい。

 お腹が減った。喉が渇いた。明確にそう思うと、ますます欲しくなる。


「誰か――」


 言いかけて、やめた。無駄という気持ちもあったけど、余計にお腹が空くだけだ。じっと動かず、なにかが起こるのを待つしかない。

 それがアーシェさんの助けなのか、薬売りの悪意なのか、それとも別の。

 分からないけど、それ以外に選択肢の無いのだけがはっきりしている。


 この場所で、もう一日は経ったろうか。目覚めてから、一時間も経ったろうか。やることが無くて、時間ばかりを気にする。

 どれだけが過ぎても、なにかあるとは保証されていないのに。もしかすると薬売りは、このまま僕を死なせるつもりなのかもだ。


「うう……」


 お腹が痛くて、気持ちが悪い。吐きそうなのに、喉へなにも上がってこない。

 その苦痛が過ぎると、また暗闇が怖くなった。独りなのが心細くて、鼻先一センチになにが居ても分からない。


 もはや埋める心持ちで、頬を地面に擦り付ける。両腕で顔を隠し、小さく丸まって堪えた。

 そんな時間が、たくさん過ぎた。五、六時間かもしれないし、一日か二日ほどもか。

 気持ちの上では、一年ぶりくらい。ふと、誰かの視線に気付いた。


「だ、誰」


 つっかえたのはともかく、普通に声を出したつもり。なのに細く、小さく、震えてささくれ立っている。蚊の鳴くようなとは、たぶんこういうのだ。


 残念ながら、返事がない。また化け物が現れたのか。それなら声を出したのは失敗だ。

 と考えるうち、その誰かは口を利いた。


「果てのない暗闇。怖いだろう?」


 言葉の一つひとつが、鉄の鎖を引き摺っている。ゆっくりと、押し潰すような薬売りの声。


「僕、僕はっ」

「無理をするな。殺戮者になりたいわけでないし、君をいたぶって楽しむ嗜好もない」


 話したい。薬売りがどうするつもりかとか、関係なく。

 姿が見えなくとも、たしかにそこへ誰かが居る。僕が話せば、答えてくれる。それを実感したくて。


「じゃあ、どうすれば。アーシェさんの所へ帰してください」

「黙れ」


 口調は変わらない。薬売りの声は、最初から重々しい。ただ、選んだ言葉が命令形になった。


「お前に望むことはない。そうやって惨めに、自分のくだらなさを知ってさえくれれば」

「え……」

「黙れ、と言った」


 なんだろう。なにか違う。これは最初に会った薬売りと同じなのか。いやこのねっとりとした話し方を、別の誰かが出来るとも思えないけど。


「なぜ、そこに居る。どうしてお前は、現れた。図々しく、当たり前の顔をして」


 違和感が膨らんでいく。僕というのは、アーシェさんを陥れる為の道具。そう言っていたのに、なぜ今はこんなことを。


「帰れ。失せろ。ここに居る限り、お前に安息は無い。与えない」

「僕のことを――」


 やはり違う。薬売りが憎んでいるのは、アーシェさんじゃない。

 僕だ。


「黙れ!」

「うぐぅっ」


 痛みが腕を突き抜ける。細い一点が、かあっと熱く。釘みたいな物が刺さったらしい。

 それがなにかは、すぐに分かった。刺さった根元に、冷たい感触が伝わる。そこからつうっと滑り落ちるのは、とても冷えた液体。

 刺さっているのは、つららだ。


「帰れ。帰れ。帰れ。お前は必要ない、元の世界へ帰れ」


 そんなこと、言われなくても知ってる。僕は誰にも必要とされていない。そう思われるだけの価値が僕には無いから。

 まだまだこれから、覚えていく時間はある。でも大して器用じゃないってことも、そろそろ分かってきた。

 だから邪魔だと言うなら、帰ったっていい。どうせどこに居ても、同じなんだから。


「帰ります。帰りますから、方法を教えてください」

「――よし。言った通り、あの魔女の血が必要だ。お前はここで、餌になっていればいい」


 僕が同意したから、喜んだのか。自分の怒気を恥じたのか。薬売りは、もごもごと唸ってから、僕の役割りを告げた。


「分かりました。とにかく黙って、じっとしています」

「いい子だ。案じなくとも、もうすぐ」


 たとえアーシェさんが目の前に来ても。抱き起こす手を差し出しても。僕は従わない。

 僕のせいで迷惑をかけ続けるなら、居なくなったほうがいい。


 薬売りの口調が、少し早まる。どことなく、満足げな感情も見える気がした。

 もうすぐとは、続けてなんと言おうとしたのか。それはたぶん、話すのをやめた理由と一致する。


 土に近いほうの耳へ、爆発みたいな音が遠く聞こえた。とても小さく、揺れたようにも思う。

 一度だけなら気のせいかと思ったけれど、十秒くらいの間で何度も起こる。しかもそれは、段々と大きくなっていく。音も、揺れも。


「お姉さま……」


 呟いたのは、僕でない。きっと無意識だろう、声と同時に薬売りの立ち上がる気配があった。

 この狭い部屋でどこへ行こうというのか、ほんの二、三歩を進んで立ち止まる。土に金属の擦れる音がして、すぐに蝋燭の火が灯った。


「これが消える前には、終わる」


 あと、十センチくらい。揺らめく蝋燭の火は、元の金属の皿に立てられた。

 薬売りはそれを地面へ置き、口の中でもごもごとなにかを言った。するとまた、黒い布を纏った姿は、この空間から消える。

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