第14話:【正太】傾いた愛情─4
「ギィルバァルトオォ!」
地の底から響くような、凍てつく声。視界のいっぱいに拡がった影が、僕を包み込もうと降り注ぐ。
「ひいっ!」
それがなんなのかも分からず、純粋に怖いと思う。この部屋で最初に感じた寒さを、この影は抱えている。
「伏せて!」
後ろからアーシェさんの声が聞こえた。と思った次の瞬間、僕は床に胸を打ち、息を詰まらせた。
顰めて振り返ると、突き飛ばした腕が影に呑み込まれる。だけでなく、僕と入れ替わりに抱擁を受けるアーシェさんの姿があった。
「げふっげふっ! アーシェさんっ!」
咳を堪え、どうにか名を呼ぶ。けれど返事は無い。部屋の入り口付近を占める影がもぞもぞと動き、きっとそれが彼女の抵抗の証と感じられるだけ。
僕に出来ることは、呆然と見ている他に無かった。いや、なにが出来るか考えもしなかった。
見たこともない化け物。自分の身代わりに、アーシェさんが喰われた現実。両手に余る恐怖を、ただただ見過ごし続けた。
「僕の、せい――」
そのうち影は、人ひとりの大きさに縮んでいく。内から蹴りつけ、逃れようとする気配も見えなくなった。
すっとその場に残ったのは、ワンピース姿の女性。たぶん厨房の隅に居た、あの人だ。
「あの。アーシェさんを、その……」
僕の主はどうなったのか。返せと怒鳴りつけても良かったはず。
でも出来ない。この女性を怒らせたらどうしようと、そればかりを考えて。届いたかも怪しい小さな声を、その人の背中に向けるのがやっとだった。
しかし聞こえたのだろうか。女性は振り向き、こちらへ足を踏み出した。一歩。また一歩。僅かな距離を、小さく歩む。
俯いた顔はよく見えない。部屋の暗さとは別の闇が、この人の顔を覆っている。
「ええと」
倒れたままの僕に、女性は手を差し伸べた。見た目にはさっきと変わらないのに、もう寒さは感じない。
おずおずと出した手が、ぎゅっと握られた。
「ショタァ、怪我してない?」
聞き慣れた声。この世界で唯一、頼っていいと言ってくれる声。
それでようやく、僕の主は化け物にも負けなかったと知った。握られた手を握り返す力も無く、「アーシェさん」と腑抜けて言うのがやっと。
「腰でも抜かした? あたしはピンピンしてるわ。ほら、立って」
ぐいと吊り上げられ、足の裏が床へ着く。あの女性の姿は、煙が薄れるように消えていった。僕の胸や脚をはたいてくれるのは、紛れもなくアーシェさんだ。
「アーシェさん、顔が」
「ん、どうかなってる?」
「ほっぺが青黒くなってます」
「凍傷にでもなったかな。ちょっと痒いくらいだから、すぐ治るわ」
無傷とはいかなかったらしい。でも言う通り、それ以外はなんともなさそう。僕は彼女に抱き着き、無事を喜んだ。
「ごめんなさい」
「ええ? なんで謝るのよ」
問われても、うまく答えられない。だからまた、ごめんなさいと繰り返すしか無かった。アーシェさんは困った風に笑って、頭を撫でてくれる。
「分かった。あたしたちの家に帰ろうか。でも、もう一つだけ済ませてからね」
僕の手を握り、魔女はすらと立つ。凛と表情を引き締め、奥に座るザビネさんを睨んだ。
「ねえ。この町で起きてる事件、その男がやったことね」
ギルさんは膝枕の格好で硬直している。意識はあるようだけど、どうもザビネさんの前ではまともに口が聞けないようだ。
だから「さあ?」と答えたのは、ザビネさん。
「私はギルを取り戻せたから、もういいの。あなたにも指輪をあげたし、言いがかりに答える理由は無いでしょ?」
ブラウンの髪を手櫛で漉きながら、反対の手はギルさんの背を叩く。子どもを寝かしつけるように、ザビネさんは目を合わそうとしない。
「そう? それならあたしは、衛兵の詰め所に行くだけよ。小麦ギルドの中で、攫われた女たちが死体になってるって。質問に答えてくれたら、そんな手間をかけずに済むんだけど」
事件とはなんのことかと思えば、エトさんの心配していた話らしい。察するに、掻き消えた女性たちがその被害者ということだ。
いや察するもなにも、我ながら気付くのが遅いけれど。
「質問って?」
幾拍か、少しの考える時間があった。ザビネさんは動作をそのまま、声の調子も変えずに答えた。思惑に乗る、と。
「大したことじゃないわ。ギルに飲ませた薬がなにか知らないけど、あたしのことを教えた誰かに貰ったんでしょう? それは誰」
「さあ、汚らしい布を纏った男としか答えられないわね。昨日の夜、雨の中で私に声をかけてきたの」
ザビネさんが言うには、第一声から「この薬をやろう」だったそうだ。妙に涸れた声で、見知った顔でも無かったと。
「何歳くらい? 背丈は?」
「三十くらいじゃないかしら。背は私とそれほど変わらないけど、具合いが悪そうだったわ」
「と言うと?」
「顔が真っ青だったのよ。絵の具の水でもかぶったみたいに」
雨の中。そんな人と話すのは不気味な気がする。しかしザビネさんは男の言う薬の効果に興味津々で、それどころでなかったと言った。
「飲ませるのは二回。一回目で仮死状態に、二回目で目覚める。そのとき相手は、私以外のことを考えられなくなるって」
「そうなってないみたいだけど」
僕にも分かる。ギルさんの目に浮かぶのは、怯えだ。彼もそれなりの体格をして、腕力ではザビネさんに勝ち目はないはず。
それをどうすれば、ああまでなるのか。知りたくもないほどの有り様と言えた。
「そう? 偽物だったのはムカつくけど、もういいわ。あんたたちさえ居なくなれば、私とギルは二人きりだもの」
「そうね」
「だから用が終わったなら、さっさと消えてほしいの。お願い」
ギルさんに向けた甘ったるい声のまま、ザビネさんは失せろと言った。アーシェさんも逆らうつもりは無いらしく、返事さえ省略した。
「さあ、帰りましょう」
「あれ。薬を渡した男はいいんですか」
「ちょっと捜したくらいで見つかりもしないでしょ。こうやって面倒が起きるから、町に来たくないのよね」
そのまま僕たちは町を出た。アーシェさんはぶつぶつと、ずっと文句を言い続ける。僕はこの日、とうとう求婚し損ねた。
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