10「境内」(3)


 焼け焦げた大翼を広げたその影は、二羽の烏だ。大きな身体のオス烏がまるで仁王立ちのように炎の前に立ち塞がり、その後ろで小柄なメス烏が黄とその下の茶々の身体を優しく包むように羽根を広げていた。

 少し甘い香りがするのは、メス烏がゴミの中から気に入って奪ってきた人工の液体の香りか。漆黒のその身体では、火傷の跡がわからない。わかりたくなんて、ない。

 ぐらりと氷の身体が前のめりに倒れる。どさりと響いたその音に、雷の嘴が微かに動く。

『……ほんまあんたらは私らがいな、何も出来んねんから……』

『……雷、なんで……?』

 その大翼に強く強く抱き締められたまま、護られたまま黄は言葉を絞り出す。それは疑問というにはあまりにも弱弱しく、口から零れ落ちた否定の意味合いがほとんどだった。

――なんで雷が? なんで氷が? なんで俺は護られてるままなんや?

 黄の下で茶々の呼吸が荒くなる。黄ですら信じられない光景に、彼女の心はパニックになっている。

『……雷、身体……大丈夫、なん?』

 現実を受け入れられない頭がそんな言葉を彼女に吐かせるのか。しかし目が捉えたその傷が、鼻が捉えたその血肉の香りが、彼女の心に働きかける。その愛くるしい瞳に大粒の涙が溢れ出す。

『……私は、あんたらの……お姉さんやで』

 雷はそう言っていつものように笑おうとして、ゲホッと血の塊をその口から吐き出した。べちょりと石畳に吐き出されたその朱の濃度に、黄は頭の中が急激に冷えていくのを感じた。

『……どうせあんたら、あの死体……食っても……いいひんのやろ? だからそんなに……アホ面晒してられん、ねん』

 話すことすら苦しいのだろう。ゲホゲホと咳き込み朱を撒き散らす。しかしその口元にはいつも通りの悪い笑みが貼り付けられたまま。

『俺達は、雷に……岩達に真実を話してもらいたいからここに来た。あの人間の死体は俺達のために死んだモンじゃない。だから俺達が食ったらあかん!』

『……正解、やわ』

 小さく呟いた嘴の上の緑は、酷くくすんでいて。黄がそれに気付いた時には、雷の身体から力が抜けていた。黄の身体に寄り掛かった烏の身体は、漆黒の羽毛ごと焼け爛れていて、今こうして息をして言葉を発しているのが不思議な程だった。

 呼吸が止まりそうな程空気が熱せられているというのに、しかし境内はどこも燃えることもなく。ただ悪意の抜けた狐火が、辺りをあてもなく彷徨うように漂っている。

『雷っ! 雷っ!』

 茶々が流れる涙もそのままに、漆黒の身体に縋りつく。包み込んでいた大翼が崩れて、黄の視界の先が鮮明になる。倒れた大きなその背中が、奇跡的に動いた。

『氷っ!』

 雷のことを茶々に任せて、黄はその翼を飛び越え氷の元へと向かう。前のめりに倒れたその身体には、背面には火傷の跡こそないものの、黄達が到着するまでに受けたのであろう傷が所々でじゅくじゅくと、その存在を主張していた。

『……あー、黄……大丈夫、やったか?』

 いつもの穏やかな笑みを湛える兄貴分は、その姿以外はいつも通りで。

『氷……俺らを、庇って……』

 縋りつく黄に、氷は微笑んだ。いつも通りの優しい声。

『俺は……お前らにはそのままでいて欲しいから、だから……死体を食うのは俺らだけで正解や』

 でも、続けられたその言葉には、いつもの穏やかさの中に確かな決意を感じさせた。雷も、氷も。二羽の意思は、それ即ち三羽の意思だ。三羽の頭はどこにいる?

『氷、雷……ようやってくれた』

 烏の頭が石畳に降り立つ。音もなく降り立つその姿に、妖狐は唸り声を上げ、二匹の半人前達は声を上げることすら出来ない。

『……さすがに死ぬかと、思ったわ……』

『……妖術なんて、初めて見たからな、反応……遅れてもた……』

 岩の労いに、二羽はそれでも薄く笑って答える。そこにあるのはいつもの笑みで、しかし二羽が起き上がることはない。

 岩はいつもの岩だった。いつもの岩は空間の支配者。つまりそれは、今この時すらも。支配者は悠然と歩き、そして妖狐の前でひたと足を止める。忙しなく飛び回ることもせず、歩き、その金色の瞳で巨大なる妖狐を睨み据える。

『よくもまぁ、あんだけの妖術かましてくれたな? 僕の兄弟達が虫の息や。しかも自分には絶対火ぃつけへんようにする徹底ぶりや。ほんまに、お前はロクなことせんのぉ?』

 普段よりも幾分低い声でそう告げる烏の言葉に、反応したのは――茶々だった。

『なぁ、岩? さっきからずっと気になっててん……“兄貴”とか“兄弟”とか……いったい何を言ってるん?』

――あ、それ……俺も変に、感じて……た?

 後ろを振り返ると雷の身体から離れた茶々が、おぼつかない足取りで立ち上がっていた。ふるふると震える身体で、それでも茶々のその前足にはぎゅっと力が込められている。

 薄気味悪い沈黙に、疑問を投げ掛けた茶々自身が一番不安げに見えた。妖狐に動きはない。そう、妖狐には。

『雷も氷もお前らには甘いからかなわんわ。僕の計画、ほとんど丸潰れやないか……』

 そう言ってさもおかしそうに笑う岩の姿に、思わず黄は茶々を護るように彼女の前に立ち塞がっていた。闇夜を支配する漆黒の大翼が広げられ、その鋭利な嘴から笑い声がケタケタと響く。

『……岩、教えてくれ。いったい、何やねん?』

 黄の言葉は自分自身への問い掛けでもあった。いったい何に、違和感を感じているのだろうか。それがわからない黄は、目の前の烏に問うことしか出来ない。烏は笑う。その口元は、嘲笑だった。

『教えるもなにも……言葉通りや。僕も氷も雷も……三羽とも一匹のオスに孕まされた、腹違いの兄弟や』

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