5「家の主」(3)


 男の言葉に黄は反射的に上空を見上げる。そこに二羽の姿はない。黄の反応に満足してか、男はあの笑みを隠すこともなく言葉を続ける。あまり広くはない道路を、冷たい風が吹き抜ける。月明りはいつの間にか薄い雲に隠されていた。

「君、妖狐やろ? それなら同じあやかしのあの烏共も知ってるわな? いや、あいつらに言われてここに来たんやろ? 『娘を助けたいなら家族を呼んで来い』て」

 男の背後から大きな影がむくりと顔を出す。玄関の扉を窮屈そうに潜り抜けたその影は、巨大な銀色の狐だった。血に飢えたように赤い瞳がギラギラと揺れている。血の混ざった涎がぼたぼたと道路に落ちて、どす黒い染みを作り出す。

 ここまでの経緯を言い当てられて、黄の頭の中にはあの烏達への違和感が加速していく。

 何故岩だけあそこに残った? 何故雷は妊婦ばかりが殺されていると詳しく知っていた? 何故氷は――いや、彼はいつも通りだったか。

『オジサン……全部教えて。なんで紬にあんなことをしたん? なんで岩達のことを知ってるん?』

 黄に抱えられた茶々が静かに聞いた。その声の悲痛な響きに、思わず黄は彼女を抱く手に力を込める。小さく震える彼女を抱き留めて、大丈夫だよと今度は黄が心を伝える番だった。

「岩……あいつら、そんな人間みたいに名前付けてもらってるんか。アホらしい。どこまでいってもあやかしはあやかし。人間にはなれへんってのにな……」

 溜め息のような息を吐く男に、黄は苛立ちを隠せない。このままでは紬の命が心配だ。どうやらこの男は、父親だというのに彼女の命のことは心配していないように思える。いくらあの賢い烏が一緒にいたとしても、消えゆこうとしている命を繋ぎ止められるとは思えなかった。

「オッサン! 頼むから紬を助けてくれ! 早く“びょーいん”の車を呼んでくれ!」

「見てくれは人間そのものまで化けれるのに、スマホは使えんか。やっぱ頭は狐のままやねんなぁ」

 焦りから言葉を遮りそう叫ぶ黄に、男はこれはおかしいと笑い始める。酷く耳障りな声だった。しかしその笑い声はいきなり、ぴたりと止まる。

 男の後ろで、大きな唸り声が響いたからだ。目をぎらつかせた巨大な狐――いや、この妖力は間違いなく妖狐だ。たくさんの血を浴び啜ることで妖力を高め、それに伴って身体も大きくなっていったのだろう。銀色の体毛からも間違いない。この姿までになると恐らく、妖力に疎い人間の目には見えなくなっているに違いない。

 ぼたぼたと涎が零れ落ち、それが男の頭に掛かった。妖狐は男の頭の上で、その大きな口を開いていた。てっきり手懐けていると思っていた黄は目を丸くしてしまう。

「っ、オッサン!」

 黄が叫ぶより一瞬早く、上空から黒い影が二つ飛翔する。大きい方の影が妖狐の顔面にぶつかってその勢いを殺し、小さい方は男を黄の隣まで突き飛ばした。

 影は二羽の烏だった。妖狐の反撃をするりと躱しながら、氷がぶわりと上空へまた身を翻す。男を突き飛ばした雷は、仰向けに転がった男の胸の上に足をつける。そして嘴を男の耳元に近づけた。

『オッサン、はよ“あの子”助けたりや。アレに食い殺されるんが願いちゃうやろ』

 それはそれは静かに言った。普段のおちゃらけた態度なんて全く鳴りを潜めた、小さな小さなその声は、おそらく氷や妖狐までには届いていない。

 文字通り自らの上で“仁王立ち”して“見下して”くるメス烏に、男は心底不愉快だという表情を隠さずに、しかしやはり静かに返した。

「……お前達がついていれば死ぬことはないやろ。この“身体”やと上手く動けん。ヨメに運ばせるから先に行っとけ」

『今しがたそのヨメに殺されかけとったやん』

「男と女にはいろいろあるんや」

『それを烏に言われてもなぁ』

 くっくと喉の奥で笑う烏の姿に、黄の中で今までの違和感が重なる。その深い緑の瞳が、大きな妖狐とその周りをけん制するように飛び回る氷に向けられる。

『雷っ!』

 黄の腕から茶々が飛び出す。信頼しているお姉さん烏に向かって、ぴょんぴょん飛び跳ねながら声を発する。早く早くとせがむように。

『早くっ! はよしな、つむ――』

 一際大きな羽音が彼女の声を遮った。一羽の烏から出たにしては大き過ぎる羽音を伴い、小柄なメス烏が中空へと飛び上がる。

『もう、大丈夫やで。このオッサンがあの子を助けれるから』

『なんでそんなん、雷がわかるん!?』

 訳が分からないと首をぶんぶん振りながら叫ぶ茶々に、雷はあくまで静かに告げる。

『それは、兄貴……岩から聞いてや。私は関与せんって最初に言ったやろ。ほんまやったら私、このクソ親父の顔も見たかないんやわ』

 彼女の言葉が静寂を引き連れる。

『そんなん言わんと、お願いやから早く紬を――』

『雷っ! 離れえっ!!』

 静まり返った空間に響く茶々の悲痛な声に、突然氷が大声を被せる。だが、双眸にいっぱいの涙を湛えた彼女の言葉を遮ることは出来なかった。

『――早く紬を助けて!! そうしなあんな寒い神社で、死んでまう!! 紬が死んでまうんやで!!』

 凍てついた空気を、その声は確かに貫いた。一瞬の静寂が、重苦しく圧し掛かる。違和感と共に。メス烏がやけに耳障りな羽音を立てて飛び上がる。

 雷が一瞬前までいた場所に、轟音と共に巨大な爪が叩き込まれた。彼女の代わりに道路に転がっていた男の肩が大きく裂ける。

「っぐ……」

 人並の痛みを感じるのか、男は小さく呻き歯を食いしばった。ざくりと切り裂かれた男の肩から、銀色の羽虫が零れ出る。見慣れた朱は、どこにも見当たらない。

 攻撃を外した妖狐の爪が、ぐったりとした男の身体を掴む。巨大な前足で器用に男を抱えると、ぽいと空中に放り投げる。まるで重さも感じられない枯れ木のようなその身体は、抵抗することもなく引っ掛かるように妖狐の背に背負われた。

 そして妖狐は道路を一直線に駆け出した。あまりの出来事に黄は反応出来ないでいると、上空から雷がするりと降りてきた。一瞬こちらに目をやって、それから焦りを隠さない口調で告げる。

『最悪や。私らは岩の援護に向かうから、あんたらはあんたらで神社まで来ぃや。氷、さっきは悪いな』

『雷、大丈夫やったか? 俺が注意引ききれんかった。悪いんはこっちやわ』

 烏達のやり取りにはきっと、黄達が知らないことが含まれている。それをしっかりと確信しているというのに、黄は頭が混乱していて上手く問い質せない。

『……あのオジサンは、何やったん?』

 ぺたんと道路に尻尾を下ろして、茶々が力なくそう聞いた。普段なら爛々と輝くその瞳を、烏達に向けることはしない。静かに羽ばたく二羽の烏は、そんな彼女の姿をそっと見下ろしている。

「茶々……行こか」

 答えることのない二羽に背を向けて、黄は茶々の小さな身体を抱こうとして、変化が解けかかっていることに唐突に気付いた。制限時間が間もない時に訪れる、あの独特な頭痛がしていることに、今の今まで気付かなかった。それ程までに、頭が混乱しているのだ。

 だが、混乱はしていても、確実に言えることがある。黄はすっと目を瞑り、変化を解いた。途端に小さな狐の身体が空中に放り出される。難なく道路に着地を決めて、黄は茶々の身体に鼻先を押し当てて歩くように促した。

『俺らは俺らで神社に来いって言ってるし、さっさと行こ』

 烏達は“答え”をくれることはない。それだけははっきりしていた。黄の言葉に茶々も頷き、二匹は神社への一本道を駆け出す。

 背後に二羽のやたら静かな羽ばたきを感じながら、二匹は振り返らずに駆け抜けた。

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