2「銀色」(2)


『……とにかく、払うか。多分、あんまり放っといてエエもんちゃうやろし』

 ふぅっと小さく溜め息をつきながら、岩がそう結論付けた。頼りになるその横顔は、黄から見ると少しばかり気だるげに見える。岩のその言葉に、残りの二羽は身構える。

『虫みたいなもんやろ? 氷、やんで』

『羽音は聞こえんから、なんか嫌な予感するんやけどなぁ』

 言うや否や翼を広げ空中に舞い上がる雷の隣で、氷はぼやきながら彼女の――いや、影の出方を確認している。血の気の多い雷が一気にその影に襲い掛かる様を、岩と氷が鋭く見詰める。

 同じ見詰めると言っても二羽の役割は大きく異なる。じっとそれこそ観察するように見据える岩に対して、氷はいつでもバックアップに動けるように待機しているというのが正しい。彼等はいつも何事にも“群れ”で行動する烏なのだ。

 岩を頭としたその完璧なる統率は、彼等の力を何倍にも引き上げている。あやかしという力を得た自分達だが、その妖なる力はまだまだ半人前も良いところだ。妖狐である黄や茶々は未だに満足に人を化かす程の変化は安定して出来ないし、烏の三羽も人間達の伝承として広まっているという“烏天狗”とは程遠い。

 どうやら自分達が特別なる力を受けた存在であろうと自覚した三羽は、ある時麓の街へと足を延ばして自分達の“立ち位置”や生き方とでも言うべきか、その存在のあり方を探しまわったらしい。

 黄達には内緒でいろいろと飛び回った三羽はその後、枯れ果てた神木の元へと戻ってきていた。そして、どうやら自分達が『あやかし』という存在へと昇華していたこと、それには『自らに関係のある命を差し出す』ことでしか至らないということがわかったというのだ。

 さすがに各地に伝わる伝承の存在まではわからず、具体的なあやかしというものの力がぼんやりとしたままの二匹と三羽の力が強大になるはずもなく。野生動物よりは遥かに鋭い感覚に高度な知能、そして連携を取れるということが、今の三羽の最大の力だった。

 雷がまるで羽虫を吹き飛ばすかのごとく、風を伴って彼女の頭があるであろう場所の上を羽ばたく。だが影はそれにはびくともせずに、その影の様子から今度は雷は、直接的にその鋭い爪が光る足を振るう。これには少しばかり影が蠢いた。効果有り、だろうか。

『俺もいくで!』

 様子見をしていた氷もそこに加勢する。身体の大きな彼の羽音に、影が黄から見てもたじろいだのがわかった。明らかに意思を持って、その銀色の塊は動いている。

『氷! 雷! 離れてっ!!』

 その時隣で茶々が叫んだ。鋭い張り詰めたようなその声に、氷と雷はすぐさま空へと舞い上がり距離を取る。バサバサと漆黒の羽根を撒き散らしながら空へと逃げる二羽の足先を、銀の塊が追う。

 不気味な動きで空に伸びるその影は、まるで生を欲する欲望に形を与えたかのように醜く歪んで見える。黄の手前で、岩は静かにそれを見詰めている。

 蠢く銀に、変化があった。

 ざくり。

 生々しいその異音が、鮮血を伴って黄の耳に響いた。茶々の瞳が丸く広がる様を横目で見ながら、黄はその光景を受け入れることすら出来ずに固まってしまった。

 銀の影が、彼女を貫いていた。まるで内部から無理やり開かれたように、ぽっかりと彼女の腹が裂け、そこから夥しい量の鮮血と――銀色の塊が零れ出ている。

『ギィエェエエ……』

 悍ましいその銀の塊は、得体の知れない生命になりきれていないその形を引き摺りながら、ぼとりと地面に落とされた。べちゃべちゃと血の塊を伴いながら、それは地面で弱弱しく鳴く。いや、泣いているように、黄には見えた。

 灰色の境内の石畳に、その朱がいやに際立つ。そこから空気が冷えていくような感覚があった。酷く耳障りなその声は、しばらくの後に途絶える。

『産み……落とされた?』

 一部始終を見据えていた岩が小さく呟く。だがその呟きは、続けて地に倒れた彼女のために、黄以外には聞こえなかったようだ。まるで糸が切れたように倒れ込む彼女に、茶々が悲痛な声を上げて縋りつく。

『紬! 紬っ!!』

 その言葉の意味が伝わらないのはわかっている。それでも茶々はやめようとしない。その気持ちは黄にも理解出来た。だけど、黄は彼女のように縋りつくという選択肢すら取れずにいた。

 目の前で人間が死にそうになっている。それはわかっている。でも、その原因も対応もわからないのだ。あまりに頭が混乱し過ぎて、黄は立ち竦むことしか出来ないでいた。

『出血が酷い! 病院連れていかねぇとまずいぞ!』

 上空から氷と雷が降りてくる。いつの間にか銀の塊は消えていた。まるで役目を終えたかのように掻き消えている。残り香のように酷く醜悪なその朱の塊だけが、どろりと存在感を放つ。

『……いったい、何が……っ?』

『今は“どうしてこうなったか”より、“どうしたら助かるか”やろ! このドアホ!!』

 譫言のように呟いた黄を、雷が鋭く叱咤する。そして倒れた彼女に縋りつく茶々を、その翼で抱き込んで『泣いててもどうしようもないんやから、茶々も落ち着こうな』と優しく、それでも極めて現実的に宥め始めた。

『この子、スマホ持ってへんのか? あったらそれで病院の車呼べるかもしれん。とにかく人間の力が必要や。探すぞ』

 岩がそう言って、彼女の服の隙間に嘴を突っ込んだ。境内から外に出たことのない黄には馴染みのないその単語に、烏達は抜群のコンビネーションで情報を整理してくれる。

『あの人間がみんな持ってる、光る板やな?』

『俺、あれに入ってる食べ物、食べれる思ってぶつかったことあるわ』

 合点のいった様子の二羽の傍で、黄だけでなく、なんとか落ち着いた茶々もわけがわからないという表情を浮かべている。

『とにかくお前らも板みたいな機械探せ。だいたいポケットとか隙間に入れとる。荷物持ってへんから多分服ん中や』

 岩にそう言われ、とにかく黄と茶々も捜索に加わることにした。境内に吹き入る風が、どんどん冷気を孕んでいく気がする。

 倒れた彼女に近づくと、むっと血の匂いに咽そうになった。今まで狩りで――命を繋ぐという意味では捕食は黄達にとって必要なものではないが、他の肉を食らうという行為は確かに、その身体に強い力を宿すために必要な行為であった――捕らえたモノ達とは全く違う、捕食者の匂いだった。

 草食動物と肉食に近い雑食の人間の血肉の香りが同じはずがなかった。その独特な“強きモノ”の血の匂いが、黄の奥底に宿る肉食獣としての本能を刺激してくる。どろどろと、蕩けるような濃厚な血肉。滴る鮮血に涎が出ることが止められない。獣の唸り声が喉元から零れ落ちる。そうだ、だから彼女は美味しそうだったのか。

「き、い……」

 その時、彼女の小さな声が耳に響いた。途端に邪な欲望が霧散する。鈴の転がるような涼やかなその声は、こんな状況においてもその場を清めるように響き渡る。

『紬っ!』

 くぅんと儚げな声を上げて、茶々が彼女の頬をぺろりと舐めた。うつ伏せに崩れた彼女を支えるかのように、その小さな身体全体で寄り添う。

「ちゃ、ちゃ……君らは、いつも……来てくれる、な……」

 彼女のか細い声に空気が混ざる。擦れたその声に急き立てられる。黄は衣服の隙間という隙間に鼻先を突っ込み、岩が言うところの『スマホ』なる板を探す。烏達は倒れた彼女の身体をひっくり返そうと奮闘している。どうやら『ポケット』という隙間は、服の前側に多いらしい。

 腰の辺りの隙間を探していると、鼻先が硬い感触に触れた。これかと口に咥えて引っ張り出す。硬い金属の感触を壊さないように気を付けて、その板を石畳の上にこつりと落とす。衝撃でか、その板の一面が光を放つ。

『それや! どっか押したらどっかに連絡出来るはずやねんけど、僕らやとどうやっても押せん。黄! お前の前足なら反応せんか?』

 慌てて近寄って来た岩が、嘴で器用にその板――スマホを黄に向けてくる。黄は恐る恐るスマホに向かって右前足を伸ばして、そっと触れた。するとスマホに浮かぶ表示がするりと変わる。闇夜に光を放つその画面には、人間の世界での『数字』というものが浮かんでいた。自然界には有り得ないその光源の強さに、黄は目がしぱしぱしてしまう。

『お前らにも教えたやろ? これは人間がモノとか時間を数えるために使う言葉や。んでこの機械はどうやら、“他人には使えんように鍵”してるみたいやな』

『鍵って、それやと俺達やと使えへんってこと?』

『これ多分、本人の指が鍵のやつやろ?』

 岩の言葉で狼狽する黄に、雷はそう言うと彼女の腕を足で掴み、バサバサと力強く羽ばたきながらこちらに引き摺って、そして最後は放り出した。

 ぐったりと力なく黄の隣に放り出された彼女の腕には、あまりにも生命の気配が感じられない。元より白い彼女の肌は、出血の影響か更に血の気が失せている気がする。

 雷の言わんとすることを理解して、黄は彼女の腕にスマホを咥えて近付ける。その反応のない指先を滑らせると、スマホの表示が一気に変わった。数字や色とりどりの四角い絵が並んだ画面になる。

『その端っこの四角押せ。猫が触っとったから黄でも反応するはずや』

 岩の指示に従って硬い板に前足を当てていく。だが――

『……あかん、押したらどっか繋がるわけちゃうんか……』

 さすがの岩でも人間の造り出したハイテク機械の構造まではわかっていないようで、ひやりとした板から暖かい人の声が流れることはなかった。

『紬……大丈夫なん?』

 涙声で茶々が縋りつく。宥めるために雷と氷が茶々に寄り添うのを目で追うと、倒れ伏した彼女の身体に視線が行き付く。すでに意識が朦朧としているのか、彼女からはもう微かな喘ぎしか聞こえてこない。あまりに現実離れした状況に、変に黄は冷静でいられていると思っていた。

 その時急に、岩の鋭い視線に気付いた。彼は倒れた人間になど興味はないかのように、じっと黄を見詰めていた。

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