1「紬」


 彼女は出会った時と同じように、一人で境内を訪れた。

 出会った時と同じように待ち人が来ないことを呟いて、しばらくしてから二匹を探して辺りを見渡す。

 彼女と出会ったのは二匹がまだ子供――あやかしへと転じてすぐという頃だった。まだまだ幼さの残る丸々とした身体で走り回る自分達は、正直言って怖いもの知らずだった。

 境内の周りは山に囲まれており、麓の街まで続く一本の石の階段は細く、そして険しい。境内と同じく自然に還ろうとしているその道のりは、見た目以上に草木に足を取られるのか、ここ数年は人間の往来もないと言われていた。

 人間という存在を他の野生動物達から聞いていた二匹は、初めて訪れた彼女にとても興味を惹かれた。二足歩行で歩く野生動物とはあまりにも違うその所作を、二匹は息を呑んで見上げたのだった。

 だが彼等の話とは違って、思ったよりもその人間は小さかった。二匹で『あれは多分“メス”で“子供”だ』と結論付けた。きっと力も弱そうだ。

 そう結論付けてしまえば、動物――あやかしと転じてはいても、その行動や見た目自体は野生動物と変わらなかった――としての警戒心を好奇心が勝ってしまう。茂みからまず鼻先だけを出して匂いを探る。麓の街から時たま流れる美味しそうな匂い。それを彼女から薄っすらと嗅ぎ取ってしまう。

 そうなればもう止まらない。心が弾んで小さな身体もそれに続く。潜んだ茂みを大きく揺らしてしまう。そんな獣の気配が消しきれるはずもなく、二匹は彼女に見つかってしまった。

 彼女は最初、二匹の登場に驚いていた。大きな黒い瞳が揺れ動き、動揺とも恐れとも取れる感情が見え隠れする。口元が引き攣ったのが微かにわかった。小さな悲鳴を飲み込んだようだ。

『まずいって。離れよう』

 慌てて幼馴染に向かってそう吠えるが、普段はじゃじゃ馬なその身体は、恐怖に竦んで動けなくなってしまっていた。か細い四肢が見ていて可哀想な程震えている。これでは動けそうにない。黄は慌てて茶々に走り寄る。首根っこを咥えて引き摺ると、ようやく茶々は我に返ったようだ。

『っやだ! もう、離してやっ』

 暴れ始めた茶々を無理やり引き摺り、彼女から距離を取る。もう少しで草木に紛れられるというところで、乱暴に暴れていた茶々の首が口から離れてしまった。

『キャンっ』

 なんとも愛らしい尻餅をつきながら、茶々が前方に転がる。彼女との距離は少しは離れたが、それでも何かあった時に護りきれる自信がある距離ではなかった。黄が慌てて視線を走らせると、彼女の揺れる瞳と目が合う。

『何してんねん! おいっ!』

 その瞳に何の回答も意思も見出せず、黄はとにかく茶々の救出に乗り出す。

 すると、茶々がすっくと立ちあがった。その顔は真っ直ぐに彼女を見詰めている。

『ちょっと……黙っててや。この子、なんかウチらに話があるみたいやで?』

 いつになく鋭く茶々がそう言った。ちなみに黄達の声は人間達には理解の出来ない鳴き声として伝わっているらしい。野生動物達が言っていた。

『は、話やと?』

 今の自分の感情のままで伝わるならば、きっと人間には唸り声にでも聞こえているだろうか。とにかく友好的に捉えられない黄は、茶々を護るように前に出る。体勢を低くして犬歯を剥き出しにし、彼女に対して威嚇体勢を取る。

『話し聞くんに唸り声上げるアホがどこにおんのっ!』

 いきなり茶々に背後から小突かれた。器用に前足で身体を叩かれ、そのせいで黄の緊張感も一気に緩んでしまった。

『痛ーっ』

『嘘やん、そんな痛ないやろ?』

『痛みどうこうやなくて、今のこの状況の問題やろがっ』

 途端に喧嘩をし始めた二匹のことを、彼女は不思議そうに見下ろしていた。しかしその口元に、次第に笑みが広がっていく。

「君らは仲良しさんなんやね。可愛ぇなぁ」

 鈴を転がしたような、繊細で清らかな声だった。不思議な魅力に満ちたその声に、黄は取っ組み合いの手を止めて、思わず彼女のことを見上げる。黄の下で犬歯を剥き出しにしていた茶々も、釣られるようにしてそれに倣った。

「今までじゃれ合ってたのに、おんなじ顔してこっち向くとか……」

 そこまで言って彼女は堪えきれなかったのか大笑いし始めた。目元に涙を浮かべながら「おっかしー」と言葉を零す。くの字に身体を折り曲げながら笑う人間の姿というのは滑稽で、その言葉の意味を理解出来ない黄も、なんだか楽しい気持ちになってしまった。

 笑顔は万国、いや生きとし生けるもの共通なのだ。ヒクヒクと自分の口元が震えているのがわかる。そんな黄の気持ちに気付いてか、茶々も笑顔で起き上がった。

「はぁ、はぁ……君らは、ここに住んでるん?」

 笑いが治まった彼女が人の言葉で話しかけても、黄達はその意味を理解出来ない。そのことぐらい彼女だってわかっているだろうに、その声は静かに言葉を紡いでいく。

「私はね、紬(つむぎ)って名前やねん。君らのお名前は?」

 彼女はそう言いながら自分の胸を指差し、「つ、む、ぎ」と意味を身振り手振りで伝えようとしてくれた。さすがにこれには黄達も言いたいことが理解出来、彼女には伝わらない声で『つむぎ』と二匹同時に返事をした。

 愛らしい鳴き声にでも聞こえたのか、彼女の目尻が下がる。真ん丸の頬っぺたが蕩けそうな笑顔だった。なんとなく美味しそう。

「君らは、野生やったら名前なんかないやんな? 私がつけたげるわ」

 彼女は二匹の近くに屈み込み、そのまん丸い瞳でじっくりと見詰めてくる。二匹の間をゆっくりと見比べ、「やっぱり毛色しか区別つかんなぁ」と頭を掻いた。

「よし! あんたは茶色いから『茶々』で、あんたは黄色いから『黄』や」

 二匹に贈る名前を指を差しながら伝える彼女の顔は、本当に輝かしい程の笑顔で。それから彼女は二匹に、この世に哀しみなんて存在しない、そんな勘違いをさせてくれるくらい楽しい時間を過ごさせてくれた。

 でも――

 そんな彼女からいつしか、笑顔が消え、叶うことのない絵馬を飾るようになった。それまでは毎週頻繁に遊びに来てくれていた少女は、その頃には人間で言うところの『お年頃』という年代に差し掛かっているようだった。

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