夜々の短編集

夜々

外の世界


「家の外は危険がいっぱいよ」


 母さんはいつもそう言っている。

 だからボクはいつも家の中でいた。一度って玄関の扉を開けて外に出たことがない。

 家の中でやることは沢山ある。

 昔……何年も前、外が平和だった時代に書かれた本を読んだり、昔作られたDVDを見たり、母さんに言われて勉強したり。ああ、あと窓を見ることもある。


「よしっ、できた」 


 今日の分の勉強を済ませ、ボクは立ち上がって歩き始めた。

 目指す先はリビングに一つだけある大きな窓。そこから見える景色は今日も変わらない。

 薄暗い様でともすれば真っ暗なようにも見える外の世界。ぼわっと淡い光が偶に舞っては消えていく光景はずっと見てると吸い込まれそうな錯覚に見舞われてしまう。

 ボクはその不思議な感覚が嫌ではなくむしろ好きだ。もし叶うなら一度良いから外に出てみたい。

 本当に外の世界は危険なのかな? 危険って何が危険なんだろう? そんな疑問が頭の中をぐるぐると回る。


つかさ! また窓なんか見てたの!?」


 不意に後ろから大きな声がボクを叩いた。

 ビクッと身体が大きく震える。怖くて怖くて振り向きたくなくて。だけど振り向かないともっと怒られるんじゃないかって思ってしまって。結局ビクビクとボクは緩慢な動きで怒鳴り上げた人の方へと身体を向ける。


「何度も言ってるじゃない窓なんて見ちゃダメだって!」


 結局怒られた。

 

「ご、ごめんなさい……母さん」


 直ぐにボクは謝る。だけど母さんは許してくれそうにない。

 母さんが開いた右手を上に上げたのが見えた次の瞬間パンッ! と乾いた音と共に頬に熱感が走った。見えていた景色が横にブレ、頬へとじんわり痛みが広がっていく。

 叩かれたと気付くのに相当な時間がかかった。

 もの凄く痛くて泣いちゃダメだ、泣いちゃダメだって思っても目頭が熱くなってグニャリと視界が歪む。

 

「……っ! ごめん、ごめんね司。私、司が外の世界の悪魔に連れていかれるんじゃって。だから急にカッとなって……」

「うん、うん。大丈夫……ボクは大丈夫だから」

「ごめん、ごめんね司……」

「苦しいよ母さん」


 ごめんね、ごめんねと何度も謝りながら母さんはボクをギュッと抱きしめた。

 それがとても暖かくて次第に頬の痛みが霞んでいく。

 凄く長い時間ボクを抱きしめていた母さんがようやく離れてくれる。母さんも泣いてたのかな。よく見ると目が腫れていた。


「あなたは私の大切な子。だから危ない目にあって欲しくないの。賢い司ならわかってくれるわよね」

「……うん」

「ありがとう。それじゃご飯しましょう。司も作るの手伝ってくれる?」

「もちろんだよ」 

 

 キッチンに向かう母の背中にボクは続いた。



*******



 いつもよりほんの少しだけ早く起きた朝。

 眠気眼を擦りながら寝室とリビングを隔てるドアを開けると母さんが一人で朝ご飯を食べていた。


「あら、司。今日は早起きね」

「ん……なんか暑くて」

「よく見ると顔が汗でびっしょりよ。寝苦しかったのね」


 言って母さんは洗面所から持ってきたタオルでボクの顔を包み、汗を拭ってくれる。


「あとは自分で拭けるわね? 少し待ってて、これから朝ご飯作るから」

「うん、ボクちょっと顔洗ってくる」


  母さんはまだ自分が食べ終わってもないのに台所に行き、ボクの朝ご飯の支度を始めてくれた。その間にボクも洗面所で顔を洗ったり服を着替えたりしておく。

 リビングに戻ってくるとテーブルにはボク用のトーストとハムエッグ、飲み物に牛乳がグラスに継がれていた。まだ完全には目が覚めてないのか欠伸を噛み殺しながら席に着く。

 

「いただきます」


 手を合わせて一言。ボクは朝ご飯を食べ始めた。

 間もなくして母さんも席に着いて一緒に朝ご飯を食べる。けど母さんのお皿にはもうほとんど何もなくて、会話する暇もなく母さんは自分のお皿とグラスを下げる 


「それじゃ母さんは外に出てくるけど、いつも通り勉強していてね」

「わかったよ」

「良い? 何があっても外に出ちゃダメだからね。外は危険がいっぱいなんだから」

「うん」

「帰ってくるの夕方くらいになりそうだから、はいコレお弁当」


 とテーブルの上にお弁当箱が置かれる。

 透明な蓋を覗いてみると卵焼きとか大きなハンバーグなどボクの好きな物ばかりで、今から食べたくなってくる。う、野菜も沢山見えた……。

 

「お野菜もしっかり食べてね」


 にっこりと笑った母さんに釘を刺され、ボクは苦笑いを返すことしかできなかった。


「それじゃ行って来るわね」

「行ってらっしゃい母さ――」

「っ! ここで良いから司はしっかりご飯食べなさい」


 母さんを見送ろうと、テーブルから離れ玄関に向かうボクは母さんの手に肩を掴まれ止められてた。その力があまりに強く、少しだけ顔がくしゃってなってしまう。

 

「う、うん。わかった……行ってらっしゃい」

「ええ、行ってきます」


 結局ボクはリビングと玄関を繋ぐドアの前からでしか、母さんを見送ることになった。



******* 



 母さん言われていた今日の分の勉強はお昼までに片づいてしまった。

 壁に掛けられている時計を見ると針は12時前。少し早いかなと、思いながらボクは母さんが用意してくれていたお弁当を食べることにした。

 リビング……いや、家の中にいるのはボク一人。

 いつもと変わらない日常だ。

 箸とお弁当箱が擦れ合う音以外は何もしない。

 お弁当箱の中身がほとんど食べきってしまい残すは野菜だけ。頑張れば一口で食べきれるはず。だけどその勇気が湧いてこない。それにお腹も膨れてきた……。


「…………ふぅ。ちょっと休憩」


 野菜と睨めっこすること数十秒。ボクは一度息を吐いてお弁当箱から目を逸らした。

 視線の行き場は自然と窓へと吸い込まれ行く。

 この前叱られたばかりだというのに、あの窓はどうもボクの気を惹いて仕方がない。

 ボクは立ち上がると吸い込まれるように窓へと身を寄せた。

 相変わらず窓から見える景色は真っ暗。いつもとちょっと違うことと言えば、窓に触ってしまった手が焼けたんじゃないかと思うほど、熱かったことくらい。

 慌てて洗面所で手を冷やす。

 

「なんであんなに熱かったんだろう。あんなにも……」


 冷たそうなのに。

 あの暗くて何もない窓からの眺めはいつもボクに冷たくて寂しい印象を与える。

 だけどさっき触れた時に感じた熱さはボクが抱いていたそれらとはまるで違うもので。それがどうしても頭の中から離れない。

 リビングへと戻ってきたボクは目は再び窓に向う。

 窓の外にある危険がいっぱいの世界では今、母さんが必死な思いをしてボクたちが生きるために必要な食べ物だとか、服だとか、あと勉強道具なんかを集めに出かけている。

 子どものボクじゃ危険から自分を守れない。だからボクは家で母さんの帰りを待っていなくちゃいけない。


「――――危険ってなんだろう?」


 ぽつりと頭に浮かんだことが口から零れ落ちた。

 きっと思っているだけだったら何もなかっただろうに。つい出して自分の言葉が耳元で何度も何度も反響する。

 危険だから外に出ちゃダメ。じゃあ危険が危険じゃなくなったら……ボクが大人になったら外に出てもいいの? それはいつから?

 次から次に押し寄せる疑問は止まることを知らなかった。

 母さんは大人だから危険はない。あったとしてもボクよりは安全なのかもしれない。

 けど……なんで母さんはあんな格好で外の世界に出かけちゃったんだろう。

 思い起こされるのはほんの数時間前。ボクの朝ご飯とお弁当を用意してくれた時の母さんは白いブラウスと茶色の長いスカートを着ていた。

 一度も外に出た事のないボクには危険がどんなものかわからない。

 暗いかもしれない。

 寒いかもしれない。

 怖い生き物が沢山いるかもしれない。

 いずれにせよ母さんの服装はボクにあれだけ注意するのに対して不用心な気がした。

 

「…………」


 ゴクリ……と、口の中に溜まった唾を飲みこむ。

 

「母さん、まだ帰ってこないよね」


 ボクは誰に言うでもない確認の言葉を呟いた。

 壁に掛けられた時計をもう一度見やる。夕方に帰ってくるという時の母さんはいつも6時くらいに帰って来ている。

 きっとボクが何をしていようと母さんが気付くことはない。

 ――例えば、こっそり外の世界に見に行ったとしても。



*******


 それからのボクの行動は早かった。

 大嫌いな野菜を食べることなんて外の世界を見たいという気持ちに比べたら、なんてことない。

 勢いよく頬張った野菜をめいいっぱいのお茶で飲み下し、空になったお弁当箱を台所で洗うなりボクは玄関に続くドアの前に立った。

 今まで母さんが頑なにボクに通らせてくれなかったドアノブへと手をかける。緊張と外を見てみたいワクワクで心臓がうるさい。

 この先はまだ廊下だ。緊張する必要なんてない。

 無理矢理自分に言い聞かせてボクは廊下へと出る。

 明かりが一切ない廊下は暗かった。電気をつけるために自然と壁のスイッチへと伸びた手をボクは止めた。

 これから外に出るのに電気付けても消す人がいないじゃないか。 

 ボクは仕方なく暗い廊下のまま玄関へと歩を進めた。

 然程長くない廊下を抜けるとボクの手は思いのほか簡単に玄関のドアノブへと掛かった。

 だけどそこでまるで凍り付いてしまったかのように動きが固まる。

 怖い怖い怖い怖い怖い怖い――――。

 『外に出ちゃダメ』。

 母さんとの約束を破ってしまうこと。もし取り返しのつかないことになったら……。

 そんな不安が頭の中を過ぎる。


「大丈夫……大丈夫。危なかったら直ぐに閉めればいいんだから」

 

 それでもボクの好奇心は不安に勝った。

 さっきと同じく、けどそれ以上に自分を奮い立たせるために言い訳を言葉にする。

 

「よしっ!」

 

 決意を固めドアノブを回して初めて外へと続くドアを開いた。

 

「……っ!?」

 

 真っ先に感じたのは強烈な光。

 飛び込んできた真っ白な光が無防備だったボクの目を射抜く。


「ま、眩しい……」


 眩しさのあまりボクは身体を丸めて目を細めた。

 次第に視界が回復してからもう一度、今度は注意しながら徐々に目を開ける。

 すると目の前には初めてみる世界が広がっていた。

 立ち並ぶ建物や列を作って並ぶ木。少し遠くの方にはブオンブオンとしきり音を立てて走る色んな色をしたクルマ。なにより――果ての無い蒼い空。

 

「凄い……凄い……アレもあっちにある物も本とかDVDで見たことあるものばかりだ」


 しばらく「凄い」とか「わああ」なんていう意味のない言葉しかボクの口からは出てなかった。

 だけどその興奮が治まって徐々に落ち着いてくる。

 そして胸中にある思いが湧いてきた。

 

 ――危険なんて何もなかったんだ。


 ずっと家の中から見てきた真っ暗な景色はどこにもなく、見ているだけで胸がワクワクするような景色が広がっていた。

 ボクの足は自然と外の世界へと踏み出す。

 まずは何を見て回ろうかな。

 コーエン、ガッコウ、オミセ—―――。

 今まで本とかでしか知ることができなかった場所や物の名前が頭の中を駆け巡る。


「まずはどこに行こうかな」


 期待を胸にボクは外の世界の散策へと乗り出した。

 

 *******


 ボクが家の前に着いた時にはもう蒼かった空は茜色に染まっていて。遠くの方では影のように暗い色をした空がさらに茜色の空を覆いつくそうと伸びていた。

 その暗さがどう言葉にしていいか分からない迫力を帯びていて、ボクはそそくさと家の中へと入った。

 

「ふぅ」


 ドアを閉めたら急に腰が抜けた。

 初めてこんないも歩いたからかな、それとも色んなものを見て聞いて心臓がバクバクしすぎたからかな。どっと疲れが押し寄せてきた。

 疲れてしんどくて、今にも横になってフカフカのベッドで眠りたい気分。

 だけど、それ以上に楽しかったって気持ちが強い。

 ふと思い出しただけで笑いが込み上げてきた。

 何もかもが初めての経験だった。瞼を閉じればすぐにさっきまでの夢のような出来事が思い起こされる。

 だけどいつまでも思い出に浸っているわけにはいかないんだ。今日のことは誰にも言えないし、言っちゃいけないボクだけの秘密の冒険。母さんが帰ってくる前に早くリビングに戻って、いつものボクに戻ろう。

 

「…………え?」


 ふとボクはおかしなことに気づいた。

 廊下の灯りが付いている。

 外に出る前に消し忘れた? そんなことはない。

 ほんの数時間前、暗い廊下から眩しいほど輝く世界に飛び出たことをボクは鮮明に覚えている。


「なんで?」


 ううん、本当は分かってる。

 口から零れた疑問の答えは出ている。

 ボクは出かける時とは異なり、灯りのついた廊下を恐る恐る歩いてリビングへと向かった。


「司」


 予想通りリビングには既に母さんがいて、静かな声でボクの名前を呼んだ。

 ビクッとボクの肩が震える。


「司、あなた外に行ったのね」

「えと……」

「行ったのね?」

「……っ」

 

 一瞬でも誤魔化そうとしたことに後悔。

 念押しの2言目で問答無用に頷かされる。


「……行った。母さんとの約束破って外に出たのはごめんなさい。だ、だけど外に危険なんてなかったよ!」


 たしかにもの凄いクルマにぶつかったりとか危ないものもあった。けど全部が全部危ないわけじゃない。むしろヒトとクルマの道が湧けられてたり危なくないようにする仕組みが沢山あった。

 本やDVD、それに家の窓から見える景色だけじゃ絶対に知ることのできなかったことがあったんだ。

 ボクが今日、この数時間の間で感じたことを知ってほしい。

 できることならばこれからも外の世界のことを知りたい。

 その思いの丈を伝えようと口を開き――。


「司、あなたも……あなたも、あの人のように私を見捨てて外に行くの……」

「母さん?」


 様子がおかしい。

 直感的にそう感じた。だけど言葉にすることはできなかった。

 言葉で上手く説明できないけど、今母さんに反抗するのはダメだって心が……本能が警鐘を鳴らしている。

 

「ダメよ。ダメ絶対。そんなことあってはならないんだから!」


 母さんの金切り声が部屋中に響き渡る。


「私の司。私の……私だけの可愛い司。何も知らない純粋無垢なまますっと私を見て、私だけを頼ってくれる司」


 ゆらりと幽鬼の如く母さんが立ち上がった。

 重い足取りでゆっくりとボクの方へと歩いてくる。その手には鈍く光る鋭利な刃物。

 足が竦んでボクは動けなかった。


「そうね、司は何にも悪くない。悪いのは司の言うことを聞かずに勝手に動いたその足だもの……」


 そう言った母さんが包丁を持った腕を振り上げた姿がボクにはスローモーションのように見えた。


「――――もうどこにも行っちゃ駄目よ。私の可愛い司」

 

 

 

 

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