七つのゆうべの星空に

つづれ しういち

第1話

「なあんだ、まだ雨ふってるなあ」


 バルコニー側のサッシを薄くあけて外を見て、俺はちょっと溜め息をついた。

 日曜日の午後の空は、どんよりと曇って暗く見える。そこからぬるい雫がぽつぽつと街全体に降りかかっている。濡れたコンクリートに包まれた建物がどれも全体的に濃い色になり、街は暗灰色に沈んでいる。


 今年の梅雨は異様に早くやってきた。天気予報担当のアナウンサーが「例年より三週間近くもはやい梅雨です」なんて言ってたのは、もうひと月も前のことだ。

 嬉しそうなのは、街のあちこちで咲いている色とりどりの紫陽花だけ。雨ふりって、基本的に気分が下がっちまうもんなあ。

 と、稽古をするには十分な広さと屋根つきのバルコニーから、佐竹が木刀を手に戻ってくるのが見えた。


「あ。もう稽古おわり?」

「ああ」

「シャワーのあと、コーヒー飲むよね? アイスにするけどいい?」

「ああ、ありがとう」


 家用の稽古着姿の佐竹は、相変わらずのやたらめったらいい姿勢で足音も立てずに廊下の奥へ向かう。シャワールームの扉が閉じたタイミングで、俺はコーヒーメーカーのスイッチをオンにした。

 これをこのあと、専用の機械で急冷してアイスコーヒーに仕上げる。コーヒーに氷を直接投入すると薄まっちゃうから、あらかじめコーヒーを氷にして入れておくなんて技もあるらしいけど、うちはこれだ。

 

 俺と佐竹が暮らすこの高級マンションは、もともとは佐竹一家が暮らしていた物件だ。俺が二十歳になったのを機に、互いの親の了承のもと、俺たちは一緒に暮らしはじめた。「俺が」って言うのはつまり、俺のほうが佐竹よりも誕生日が三か月ほどあとだからだ。

 上品で和風のデザインがそこここに施された、いかにも佐竹らしい住処すみか。いやまあ、和風の平屋建て一軒家のほうがはるかにここより似合うかなとは思うけどさ。それはこんな都会の真ん中ではなかなか難しいことだろうし。


 シャワーからあがってきた佐竹は、普段着のシャツとスウェットのパンツ姿だった。すでに見慣れた姿だけど、こいつが着るとスウェットって感じがしないのがいまだに不思議だ。まだ髪は濡れているけど、短いからすぐに乾いてしまう。

 お互い平日は大学やバイトで忙しい毎日だけど、朝と夜の食事、それから週末の時間は大切にするようにしている。


「教育実習、どうだったんだ」

 アイスコーヒーに口をつけながら、さりげなく佐竹が訊いてきた。こいつはアイスでもブラックのことが多い。

「あー。うん。大変だったけど、充実してたよ。充実しすぎなぐらいだったけどさ」


 俺は先日、ようやく出身中学での教育実習を終えた。今はいよいよ本格的に卒論のことを考える時期になっている。

 二週間の実習期間は、とにかくずっとバタバタしていた。最後の授業のための指導案も何回も書き直しになっちゃったし。本番は本当に緊張して、帰ってきたらもうぐったりだった。

 洋介が通っていたらあの中学での実習はなかっただろうと思うんだけど、幸いにも洋介はまだ小学六年生だ。というわけで、うまく母校に滑り込めた。


「中学生、困ったのもいたけど基本的に可愛かったし。俺なんか、イジられてばっかで担当の先生に『もうちょっとしっかりしてください』って言われまくりだったけどさ~」


 そうなんだよ。

 なんかアレな。若い教師っていうだけで、ちょっと派手系の女子はすぐに「彼女いるんですか~」って訊いてくるし。思わずしどろもどろになったら、わっと教室じゅうが楽しそうな笑いに包まれるし。

 いや、彼女はいねえよ。

 彼氏だったらいるけどな。

 って、まさか正直に答えるわけにもいかないし。

 教壇のところで赤くなったり青くなったりしている俺を、担当の先生が溜め息をつきながら横目で見ていた。思い出して、ちょっと身が縮んだようになる。

 本当は俺、二十八になるんだけどな、脳だけは。そう考えるとべつにそんなに若くもないのに、ほんと自分が情けなくなるっていうか。


(……それに)


 べつにいいじゃん。彼氏だってさ。

 そういうことが、もっと堂々と平気で言える世の中になるといいのになあ。

 それに佐竹は、はっきり言ってどこに出しても恥ずかしくない彼氏だし。

 文武両道なのはもちろん、なにより心根がまっすぐで人を決して裏切らないし。


「どうしたんだ」

「え、……ん?」


 いつのまにか黙り込んで自分の考えにふけりすぎていたらしい。佐竹が俺をじっと見つめている。いつもの真摯な視線だ。


「や、なんでもないよ。希望してんのは高校だけど、なんかこんなんでうまくやれんのかな~って、ちょっと思っちゃってさ」

「お前なら大丈夫だ」

「へ?」

 あまりにもさらっと言われて驚いた。

「……そ、そうかな」

「そうだ。お前はもっと、お前の良さと存在意義に気付くべきだと思う」

「えええ……」


 いや、そこまで言われるとかえってビビるわ。

 なんだか耳のあたりが熱くなってきたのを感じて、俺はそそくさと立ち上がった。キッチンのシンクでグラスを洗う。

 と、自分も飲み終わったグラスを持って佐竹が後ろにやってきた。

 先に俺の手にあるグラスをひょいと取り上げたのは、俺がそれを取り落とさないためだったんだと思う。


「ひょええっ!?」


 そして、それは大正解だった。

 佐竹は無造作にすいっと俺に顔を近づけたかと思ったら、いきなり首筋をちゅっと吸いやがったんだ。


「なっ……なにすっ……」


 首をおさえてわたわたやっている俺を、「同棲している恋人として当然のことをしただけだがなにか?」と言わんばかりの目で佐竹が見下ろしている。


「いい加減慣れろ。そして自覚しろ」

「はあ!?」


 なんだそれ、と叫ぼうとしたときだった。

 テーブルの上にある佐竹のスマホがぶるると鳴った。


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