第3話

 僕はベッドからフローリングに下りて、あたりをきょろきょろと見まわした。

 机の上から見るよりも高くて、本棚の上から見るよりも低い視界。すごく不思議な気分だ。


 僕はうきうきしながら階段を駆け下りて玄関に向かった。

 早速、窓の外の世界を見に行こうと思ったんだ。


 玄関までやってくるとヒトの僕のための靴が現れた。


「肉球の代わりだよ」


 って、猫の悪魔は言った。

 猫の肉球には靴一足分以上の価値があるんだって。


 僕は靴を履いて玄関ドアに手を伸ばした。

 猫の手じゃあ、猫パンチを食らわせるくらいしかできなかったけど、ヒトの指ならすんなりとカギをまわせる。ドアノブを下げて、ドアを押し開けることもなんなくできちゃう。


 僕ってば、すごい!


 わくわくしながら玄関ドアを開けて外に出た。

 窓ガラス越しに見ていた世界。

 いろんなにおいがした。いろんな音がした。急に心臓がドキドキしてきた。

 僕は首をすくめてあたりを見まわした。


 そういえばミキちゃんの弟のタクくんは大泣きして外から帰ってくることがある。ランドセルを背負ったまま、びーびーと泣いて、ママに抱き付いたまま離れなくなるのだ。

 僕を追いかけ回す暴れん坊のタクくんが泣いて帰ってくるなんて……よくよく考えると外の世界って怖いところなのかもしれない。

 気を付けなくちゃ!


 くんくんと鼻を鳴らして警戒していると、僕の後ろでガチャン! と、大きな音がした。

 あとになって落ち着いて考えたら、ただの玄関が閉まる音。何度も、何度も、ミキちゃんたちを玄関で見送るときに聞いた音だったのに……。


 そのときの僕は大きな音にびっくりして走り出して――そこからはどこをどう走ったのか覚えてない。


 猛スピードで走っていく車。カンカンカン……と、うるさい踏み切り。ヒトにぶつかったら大きな声で怒鳴られた。

 音がうるさくて耳をふさいでしゃがみ込んだら、みんなが僕のことをにらみつけてきた。

 どれもこれも初めて見るものばかり、聞くものばかり。


 みんなみんな、くさい。

 みんなみんな、うるさい。

 みんなみんな、怖い。


 早くうちに帰りたくて。猫の僕に戻りたくて。ミキちゃんのにおいがするベッドにもぐりこみたくて。

 あちこち走り回っているうちに気が付いたら、どこか暗くて湿っぽいところにもぐりこんでいた。


 耳を澄ませるとピーヒャラと祭りばやしの音が聞こえてきた。ドコドコと太鼓の音や、ヒトの声もたくさん。

 暗がりの中、僕は震えながら丸くなっていた。


 と、――。


「ユキちゃん!」


 聞き覚えのある声に僕はパッと顔をあげた。


「ユキちゃん、出ておいで! ……ユキちゃん!」


 やっぱりミキちゃんの声だ!


 うれしくて暗がりから飛び出すと、


「きゃ……! あ……す、すみません!」


 ミキちゃんは強張った顔で後ずさった。

 あちこち走り回っているあいだ、みんなが僕のことをにらみつけてきた。ミキちゃんまで……どうしてそんな顔をするの?

 タクくんみたいに泣き出しそうになったけど、困り顔のミキちゃんを見ていて思い出した。


 そうか。今の僕はヒトの姿だから、ミキちゃんには僕が誰なのかわからないんだ。僕が猫のユキだってわからないんだ。


 ミキちゃんは小さく頭を下げると、くるりと僕に背中を向けた。

 このままだと置いていかれちゃう。


「ま、待って……!」


 僕はあわてて話しかけた。


 もう、うちまでの帰り道もわかんない。このままミキちゃんに置いてかれたら、ずっとずっと一人ぼっちになっちゃう。

 それが怖くて、僕は一生懸命に考えた。


 ミキちゃんを怖がらせないようにするにはどうしたらいいんだろう。

 初対面のヒトに話しかけるときってどんな風にしたらいいんだろう。

 猫の僕なら駆け寄って、足にすりすりってするんだけど……たぶん、きっと、初対面のヒトにやっちゃダメだよね。


 困って空を見上げると、すっかり夜になっていた。丸い月が浮かんでいて、星がきらきらと光ってる。

 空はミキちゃんの部屋から見るのと変わらないんだ。

 ちょっとだけ、ほっとした。


「なに、してるの……?」


 ほっとしたら、ちゃんと言葉が出てきた。

 ミキちゃんは少し迷ったあと、スマホを差し出した。


「飼ってる猫が逃げちゃって、探してたんです。あの……この子、見ませんでしたか?」


 スマホの画面をのぞきこむと僕が映っていた。足を大きく開いてお腹を毛づくろいしている僕。


 やめて。見せるならもっとカッコいい写真にして。

 あるでしょ。出窓で外を見張ってるときとか、キリッとした顔してるでしょ。


「オスの黒猫でユキちゃんって言うんです。すごく甘えん坊で、臆病で、猫なのに運動神経の悪い子で……大きな音がすると驚いて、テーブルや階段からよく転げ落ちるんです」


 やめて。話すならもっとカッコいい話にして。

 あるでしょ。ほら……えっと、ほら……パッと思い浮かばないけど、なんかあるでしょ!


 僕は両手で顔を隠したくなるのを必死に我慢した。


「ユキちゃん、花火の大きな音が大嫌いなんです。もうすぐ花火が始まっちゃうのに……」


 大粒の涙が今にもこぼれ落ちそうだ。ミキちゃんを見下ろして、僕はおろおろ、うろうろした。


 ミキちゃんは浴衣姿だった。今日はお友達と花火大会に行くんだってうれしそうに話してた。

 きっと僕がいなくなったってママから電話があったんだ。それで浴衣のまま探しに来てくれたんだ。


 どうしよう。こんなに心配するなんて考えてなかった。

 どうしよう。猫の姿に戻れるかな。


 ……戻りたいな。


 ふと空を見あげると猫の悪魔がふよふよと宙に浮いていた。


「願いを叶えてやろう、代償はお前の命一つだ」


 僕はこくりとうなずいた。


「ごめんなさい、引き止めちゃって……他のところを探してみます!」


「ちょっと待って!」


 走って行こうとするミキちゃんを僕はあわてて呼び止めた。


「家の近くを探してみよう。僕も手伝うから!」


 ***


 あとから君に言われた。

 ところで神社の縁側の下でなにしてたの? って。

 どうやら僕は神社の縁側の下にもぐりこんでいたらしい。


 すっかり帰り道がわからなくなっていた僕は、君に家の近くまで案内してもらって。

 君に気付かれないように茂みの中に飛び込んで、猫に戻って。

 茂みから飛び出すと君の腕の中に飛び込んだ。


 その瞬間、花火が始まった。


 花火の大きな音に驚いて、僕は君の腕に爪を立ててしがみついた。


「ユキちゃんは花火の大きな音、嫌いだもんね」


 君に背中をなでられながら僕は無事に家に戻った。


 これで僕のヒト体験はおしまい。


 そう思ってたのに……猫の悪魔は思ったよりも太っ腹だった。

 違うかな。いいかげんなだけかな、きっと。


 猫に戻ったら二度とヒトにはなれないと思っていたのに――自由自在!

 僕はヒトにも猫にもなれるようになったんだ。

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