another 第十三話 病死

 エルディはその後、懸命に働き、デライラと結婚した。

 やがて子供が手がかからないほど大きくなったころに、事業が成功して巨万の富を築いた。

 かつて文豪との心中未遂や、有名パティシエの殺人未遂事件で世間を賑わせたことなど、もう過去のことだ。誰もその事件について覚えている者はいない。

 現在のエルディはその道の専門家として、コメンテーターとしてテレビに出演するような有名人である。

 子供が事業を引き継ぎ、孫も生まれた。悠々自適の余生がこれから始まろうかという頃、エルディは胃に不調を覚えた。テレビ出演に引っ張りだこでなかなか病院に行く時間が取れずにいたある日、エルディは吐血した。

 その様子を見たマネージャーがすべての予定をキャンセルし、エルディに診察を受ける時間を作った。

 医師から告げられた病名は、末期の胃癌であった。

 「もう手の施しようがないほど癌が進行しています。胃を切除するか、治療を諦めるかの二択しか道はありません」

 「そう、ですか……」

 エルディはふうと一つ溜め息をつくと、ある決断をした。

 「それならば、治療を諦めて、できるだけ余生を楽しく過ごそうと思います。もう私もこんな老いぼれだ。今更長生きしようなんて思いません」

 「そうですか……。まあ、楽しく生きているうちに癌が治癒したケースもあります。あまりに苦しい場合は、入院して痛み止めを打つこともできますよ。辛いときはまた、来院してください」

 「ありがとうございます」

 エルディが自宅に帰ると、懐かしい姿を見つけた。顔の白骨化がだいぶ進行し以前の美しさが見る影もないが、忘れもしない、死女神のカフィンである。カフィンは静かに、エルディに死期を告げた。

 「医師から告げられたのだな。お前の命は十分育った。いよいよ、その命刈り取ることにする」

 「カフィン!!」

 エルディは感極まって涙を滲ませながらカフィンに抱き着いた。

 「お、おい!私は死神なんだぞ。再会を喜ぶ奴があるか」

 「喜ぶさ!君を忘れたことなんてただの一度もない!ずっと会いたかった、愛しのカフィン!」

 エルディは体を離し、彼女のその愛しい顔を撫でた。

 「ずいぶん白骨化が進んだね。でも、相変わらず美しい。僕にとっては今も昔も、変わらず魅力的だよ」

 「いい加減にしろ……。そしてだ、貴様の死期だが、あと三カ月だ。三カ月の間に身辺整理をするんだな」

 エルディは自分の死期を親切に教えてくれるカフィンに、素直に感謝した。

 「僕の寿命は三か月か……。きっとあっという間なんだろうな。解ったよ。三カ月の間にできる限りのことをしよう。三カ月後にはカフィンのところに行けるんだね?」

 「ああ。三か月後、また来るさ」

 エルディはカフィンを抱きしめると、その白骨化した頬に口づけした。

 「待ってるよ。僕の生き様、見守っててね」


 エルディは記者会見を開き、末期の胃癌であること、治療を諦め、ゆっくり余生を過ごすことを発表した。世間は日夜エルディの功績をたたえる番組を放送し、特別番組にゲスト出演したエルディは、医療チームをそばに待機させた状態で今若者たちに伝えたい教訓などを語った。

 視聴率は驚異の三四%をたたき出し、多くの人々の目にその最後の姿を焼き付けた。

 テレビ出演の仕事がひと段落つくと、今度は事業の引継ぎである。息子に全てのノウハウを伝え、隠し金庫の在り処や加入保険情報、銀行の暗証番号などすべてを伝え、死んだら二人の子とデライラに相続すると宣言した。息子と娘は静かに父の遺言を聞いた。そしてエルディは遺言の内容を記した遺言状を息子に手渡した。

 さあ、あとは死期が来るのを待つばかりである。死期まで残り一ヵ月になると、胃の痛みが無視できなくなり、癌も全身に転移し始め、いよいよ入院することになった。

 痛みを散らすためにモルヒネが投与され、点滴で生命を繋ぐしかない状態になった。死期が近づいたエルディが最期に願ったのは、「文豪・ウィリアム・エネットの小説に出てくるコーヒーとフライドチキンが食べたい」だった。

 その訴えを聞いた娘は、あのカフェでコーヒーとフライドチキンをテイクアウトし、チキンを食べやすいようにほぐして、病床のエルディに差し出した。

 エルディの横にはカフィンがいた。神妙な面持ちで見つめるカフィンを横目で窺うと、カフィンは小さくこくりと頷いた。エルディは久しぶりのグルメに舌鼓を打った。やはり死ぬ前に食べておきたい味だ。こうして死ぬ前に再び味わえるとは、なんと幸運なのだろう。エルディは涙をぬぐいながらコーヒーとチキンを胃に流し込んだ。

 もう思い残すことは何もない。死期が判っていると、こうも覚悟が据わるものなのか。若いころあんなに死にたくてたまらなかったのが悪い夢のようだ。エルディは朦朧とした意識の中で、自分の命の灯火が消える日を、指折り数えて待った。


 「四月六日午前〇時三七分十三秒。ご臨終です」

 医師は時計を確認し、エルディの死亡を言い渡した。デライラはすうっと気を失いその場に倒れ、隣のベッドに寝かされた。いよいよこの瞬間が来て、緊張の糸が切れたのだろう。娘は驚いてデライラに泣きついた。息子は父の手を握り、涙をこらえて歯を食いしばり、上を向いて涙が流れないように耐えた。

  エルディの告別式は盛大に執り行われた。遺影のエルディは、実に幸せそうに微笑んでいたという。

 ある一人の死にたがりの男は、精一杯魂を育て、懸命に生き、三カ月の闘病の末静かにその人生の幕を閉じた。人一倍死の恐怖を体感し、人一倍命の尊さを実感し、人一倍死神を愛した。この物語は、そんな男の伝説である。


 「めでたし、めでたし、か」

 水盤に映し出された自分の死に様を見て、エルディはフウッとため息をついた。

 「本来はこういう死に様が予定されていたのだ。私はこの映像を見て貴様を担当することになった」

 一緒に水盤を見つめていたカフィンが、エルディにそう説明する。

 エルディは晴れて死神になった。首の周りの肉が壊死し、黒ずんでいるほかは、特別変わった姿をしていない、黒いスーツを着た老人の姿だ。死神になったエルディに、カフィンは予定されていた運命を見せた。そして、天寿を全うする素晴らしさを説くつもりだった。

 「それを、貴様は……!本当にお騒がせな奴だよ」

 エルディは頭をポリポリ掻いて、はにかんだ。

 「いやあ、死にたくてたまらなかったんだよ。待ちきれなくてね。三カ月も身辺整理するなんて、僕らしくないなあ」

 「しかし、天寿を全うしたお前はお気に入りのカフェの最後の晩餐を味わうことができたのだぞ」

 しかしエルディはチチチと舌を鳴らして人差し指を振った。

 「大丈夫。僕も指輪と花束とタキシードを買いそろえる間にカフェに立ち寄って最後の晩餐してきたから。そこは譲れないこだわりだからね。もちろん済ませたよ」

 カフィンは胸を張るエルディを見てあんぐりと口を開けて呆れた。死に様のこだわりに関してはエルディのほうが一枚上手であったようだ。

 「……と、ともかくだ、貴様のように死に急ぐ奴は我々にとって仕事を増やす厄介な人間だということは覚えておけ。天寿を全うすれば難しいことは何もしないで、ただ手を引いて連れてくるだけでよかったのだ」

 「そうだねえ。僕の担当する人は、面倒な人じゃないといいねえ」

 まったく他人事のように言うエルディに、カフィンはほとほと呆れてしまう。死神の大変さが解っていないようだ。それならば、上層部もそれなりの対応を願う。

 すると、水盤に骸骨人間の顔が映し出された。

 「エルディ。早速仕事だ。この水盤に飛び込め。道中ターゲットについて説明する」

 エルディは飛び上がって喜んだ。死神としての初仕事である。

 「わ!早速僕に初仕事だ!じゃあカフィン、行ってくるよ!」

 「ああ。へまはするなよ」

 エルディは水盤に足をかけて飛び降りた。

 真っ暗い世界だった。上下の区別もつかない真っ暗い世界で、落下する重力を感じながらエルディは落ちていった。

 『ターゲットはエミリー。十六歳。飛び降り自殺しようとしている。未遂で食い止めろ』

 「え、えええええ?!いきなり自殺志願者?!なんてこった!僕が説得するの?」

 すると足元から光が差し込み、ビルの屋上に落下してゆく。着地した地点には、一人の少女がいた。

 その少女は黒く染めた腰までの直毛に、ヘーゼルの瞳をしたそばかす少女で、全身真っ黒のゴシックファッションに身を包んでいた。お世辞にもあまり可愛いと言えない垢ぬけない顔だちをしており、目の下はクマで黒ずんでいて、見るからに病んでいそうな顔をしている。

 少女はビルのフェンスから下を覗き込んでいた。

 「お嬢さん。僕は死神のエルディ。初めまして。自殺をご希望のようだね。悪いことは言わない。死ぬのは諦めなさい」

 すると少女は驚いて二メートルほど後方に飛び退った。

 「うわああああ!!!びっくりした!!」

 驚いたのはエルディもである。こんなに派手に驚く人など見たことがない。エルディは努めて優しい口調で、「死ぬのはやめなさい。ね?」と説得した。

 「貴方が……死神……」

 少女は声色も可愛らしいものではなかった。痰が絡んだようなくぐもった声で、中性的というほど低い。口先だけを動かしてぼそぼそ喋るため、何と発音しているか聞き取りにくい。非常に根暗そうな印象の少女である。

 「じゃあ、私、死ぬんですか?」

 「死ねないよ。全身を強く打って意識不明になって、命だけ助かって植物人間になる。死ぬよりひどい目に遭うよ。飛び降りるのはやめなさい」

 少女は残念そうに、「はあ」とため息をついた。

 「死神なら、私を殺してくださいよ。できるんでしょう?今すぐに」

 「死神は殺せない。死にそうな人の前に現れて、手を引くだけさ。君が後悔しないように、アドバイスをしようと思って現れたんだ」

 エルディはうつむくエミリーの肩に手を置き、顎をくっと持ち上げて目線を合わせた。

 「僕も生前は何度も死のうとした。生きるのは辛いことだらけだよ。でもね、君にも、君に死なれるとショックな人が居るんだ。その人は君の自殺を止められなかったことを一生後悔するだろう。君も、無限に広がる可能性を何もかも捨ててしまって本当に後悔しないのかい?生きていれば幸せになる可能性もあるし、愛してくれる人に巡り合い、愛に気付くこともある。そんな未来を、今だけの感情ですべて捨ててしまうのはもったいないと思わないか?生きなさい、エミリー。今はまだ死ぬべきときじゃない。今死を思いとどまることで、君は幸せになる可能性を手にすることができるんだよ」

 エミリーは虚ろに濁っていた生気のない目を大きく見開き、エルディの説得に心動かされたようだ。

 「私が……愛される……未来……?」

 「君を愛してくれる人は、ほら、身近にいるだろう?君はもっと愛されるべきだ」

 そのセリフを、エミリーは自分に都合のいい方向へ解釈してしまった。

 「貴方、名前なんて言いましたっけ」

 「僕?エルディだよ。死神のエルディ」

 エルディが名乗ると、少女・エミリーは背筋を伸ばしてエルディに向き直った。

 「それってエルディさんが私を愛してくれるってことですよね?」

 「え?僕?」

 「私は愛されるべきってことは……エルディさんは私のことを愛してくれてるってことで間違いないですよね?」

 「え?ちょっと待って。どういうことかわからない……」

 エミリーはガバッとエルディを抱きしめた。

 「私、人に愛されたの初めてです。嬉しい……!エルディさん。私、ゴシッカーだから、死神とお付き合いするの夢だったんです。そして本物の死神に、愛を説かれたら……もう、私エルディさんのことしか考えられない」

 「待って待って待って!どうしてそうなるの?」

 「私を地獄に連れてってください!」

 「カフィーン!!助けて―――――!!!なんか大変な展開になっちゃったよ―――!!!」

 その様子を見ていたカフィンはクックッと笑い、「お似合いじゃないか。付き合ってやればいい。自分の過去を思い出すだろう?」とからかった。エルディはその後、何度もエミリーに呼び出されて彼女と実に長い付き合いをすることになる。

 END.

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