第5話 焼身
ドーパミン文筆家ウィリアム(サッドネス)エネットは悩んでいた。
「ドーパミンが出ない……。儂は一体どうしたらいいんだ。これでは新作が書けないではないか」
自ら“ドーパミン文筆家”を自称するほど、彼は自身の溢れ出るドーパミンを武器に、突飛な幻想世界を原稿用紙にしたため、単行本をコンスタントに発行していた。
彼の描く世界観はまさにカオス。話の筋がどんどん飛躍し、最終的に無関係な単語のサラダに発展し、急転直下の伏線回収で、解れていた文章の束を筋のある物語に収めてしまう。彼の描く物語は、読者を混乱させつくして爽快な読後感を残すということで、コアなファンが多い。
突飛でカオスな物語にどんな意味が込められているのかを考察するマニアも多く、考察サイトやSNSでの意見交換が頻繁に行われていた。
御年七六歳。終戦後から頭角を現した彼は、今なお最前線で活動し続ける文豪であった。
が、しかし。彼は不定期に長期の休業を取ることがあった。
時々、自慢のドーパミンが出なくなって、ふさぎ込んでしまうのだ。
彼の状態を医学的に説明するなら、彼は統合失調症患者であった。陽性症状の時期にエネルギッシュに活動し、狂人と呼ばれるほど憑りつかれた様に執筆し続ける。しかし、その反動で陰性症状という虚無の時期を過ごさなければならなくなるのだ。
彼は今、突然訪れた陰性症状でふさぎ込んでしまい、苦悶していた。
「もう儂も老いぼれだ。今更いつ終わるともわからぬ陰性症状の時期を耐えて、復帰できるとは思えん。いっそこのまま死んでしまおうか。ドーパミン文筆家は引退だ」
陰性症状の時期は、彼のアイデンティティであるドーパミンが枯渇し、一切の精力的な活動が出来ない。それは彼自身の存在意義を揺るがす大事件なのだ。彼は陰性症状になるたびに引退宣言をして世間を震撼させてきた。またメディアが「今度こそ本物か」「辞める辞める詐欺ではないか」と騒ぎ始めるであろう。精神的に辛い時期であるときに、厳しい意見が彼のあずかり知らぬところで無責任に書き散らされるのは、彼にとっても辛いことだ。
「もう、今度こそ死のう。誰ぞ、儂を地獄に導いてくれぬか……」
夏の暑い日のことである。エルディは焼身自殺を企てようと、灯油のポリタンクを運んでいた。車のトランクに積み込み、一般人を装う。
彼は死ぬ前に必ず立ち寄るカフェの駐車場に車を停めた。万が一自殺が成功したら、死ぬ前に胃に入れておきたいコーヒーとフライドチキンがあった。彼は今日も、「今度こそ死ぬ」と決めて、お決まりのカフェにやってきたというわけだ。
カフェに入店し、カウンターでコーヒーとチキンを受け取ると、トレイを運び、空いている席を探した。しかし、店内は混雑していて、相席を勧められてしまった。店員に案内されて席を共にしたのは、厳つい髭の老人であった。
「相席失礼します」
「構わんよ」
覇気のない老人だった。どこか呆けているようで、虚ろな目でエルディのチキンを見つめている。
と、急に老人は鼻をひくひくさせ、何かの臭いを確かめだした。
「どうかしましたか?」
エルディが訊くと、「灯油の臭いがする」と老人は答えた。
エルディは内心ドキッとした。灯油を運んでいることがばれてしまう。
「何の臭いでしょうね?」
知らないふりをしたが、老人は気になるようだった。
「この夏場に灯油なんか、なんで臭うんだ?君か?君から臭いがする」
「そ、そうですか?」
老人の目が厳しくなった。
「自殺か?焼身自殺か?それとも放火か?」
エルディは驚いた拍子にコーヒーを誤嚥してしまった。気管にコーヒーが入り、激しく噎せた。
「大丈夫かね?」
「げほげほっ、……んなんで……ごほっ……判ったんですか」
「どっちだ?」
「……自殺です」
老人は目を伏せた。そして、ふうっと静かに長い溜め息を吐いた。
「運命なのかな。実は儂も死のうと考えていた」
「どうかなさったんですか?」
老人は薄く目を開けると、エルディに問うた。
「君はウィリアム・サッドネス・エネットを知っているか?ドーパミン文筆家と呼ばれた、キチガイの物書きだ」
エルディは目を輝かせた。聞き覚えがあるなんてものではない。エルディは彼の大ファンで、考察掲示板の住人である。彼は力強くうなずいた。
「大ファンです。あなたも彼のファンなんですか?」
「儂が、そのエネット本人だよ」
エルディは悲鳴をあげそうになり、慌てて口を押さえた。彼は有名人だ。もしかしたらお忍びのカフェかもしれない。爆発した興奮を落ち着かせて、エルディは声を潜めて話しかけた。
「大ファンです。作品は全部拝読しました。お会いできて光栄です。ああ、死ぬ前に人生の師匠にお会いできるなんて、僕の人生が報われます」
エルディは右手を差し出した。左手を添えられるように、左手もスタンバイさせておく。エネットは快く握手を受け入れた。
「実はな、儂も死のうと思って、このカフェで最後の晩餐をしようと思っていたのだ。このカフェのコーヒーは世界一だ。死ぬ前に必ず飲んでおきたい、至高の一杯だ」
「解ります。僕も先生のご本の中に登場するこのカフェが好きで、ここにやってきました」
「そうか。君にもここの美味さが解るか。儂の熱心なファンに会えて、儂も嬉しいよ」
エルディはおずおずと、彼に死の理由を聞いた。
「失礼でなければ、なぜ先生ほどの方が、自殺をお考えなのか、お聞きしてもいいですか?」
エネットはまた、ふーっと長い溜め息を吐いた。
「書けなくなったんだよ。自慢のドーパミンが出ない。儂ももう年だ。もう復活はないかもしれん」
エルディは顔をくしゃくしゃにゆがめてエネットを励まそうとした。しかし、エネットの決意は固いようだった。
「自殺志願者の儂のファンに、最期に会えたのは、何かの巡り会わせかもしれん。一緒に死んでくれるか、若いの」
エルディはエネットが顔の前で組んでいた手に両手を重ね、「僕でよろしければ、ぜひ」と、涙を流しながら頷いた。
エルディは車の後部座席にエネットを乗せ、指示された場所に車を走らせた。辿り着いたのはエネットの自宅。素晴らしい豪邸である。
「庭で火をつけよう。さあ、その灯油をこちらへ」
二人はお互いに灯油をかけた。エネットが胸ポケットからライターを出す。火をつけて地面になげうつと、たちまち足元から二人は炎に包まれた。
熱いという感情よりも先に、呼吸が出来ないことにエルディは驚いた。顔の周囲の酸素が燃焼しているのである。数刻遅れて感じたのは、熱さよりも激しい痛みであった。
(焼身もこんなに苦しいのか。でもこれなら確実に死ぬ。エネット先生と心中できるなら、この苦しみも報われるかもしれない)
高速のスライド写真のように、エルディの脳裏に今までの人生のワンシーンが流れてゆく。走馬灯というものだろうか。思えば恥ばかりかいていた人生だった。
目の前に、死女神のカフィンが現れた。
「本当にお前はこれでいいのか?このままだと確実に死ぬ。お前の人生はこれで本当に終わっていいのか?」
エルディは「エネット先生に立ち会ってもらえて、カフィンと結婚できるなら、このまま死んでもいいよ」と、強がりを言った。本当はいよいよ死が身に迫る恐怖で暴れたかった。全身の気が狂わんばかりの激痛と、呼吸困難で、死にたくない気持ちの方が強かった。
「そうか」
カフィンはそういうと、エルディの頭を掴み、彼を突き飛ばした。
エルディが次に感じたのは、種類の異なる激痛と、冷感と、水が大量に鼻と口から入ってくる感覚だった。
数刻遅れて、エルディは藻掻いた。
なぜ、水の中にいるんだ?
エルディの手が固いものに触れ、彼は水の中から脱出した。
一方、火だるまになったエネットの目の前にもカフィンが現れた。
「貴様はこのまま死にたいのか?本当に後悔しないのだな?」
エネットは藻掻いていた。全身に広がる激痛と、呼吸困難から逃れられない。
「死にたくない、まだ死にたくない!」
「しかし、火をつけたのは貴様、死を願ったのも貴様だ。今更死からは逃れられない」
エネットはカフィンの前に跪いた。
「儂は、死を受け入れても構わん。だが、あの青年のことは助けてやってくれ。彼にはまだ未来がある」
カフィンはフッと優しい顔になり、「よく解っているじゃないか」と言った。
するとエネットの視界がスパークした。赤い光から白い閃光に変わり、世界がまぶしい白に覆われると、暗転して眼前に広がったのは宇宙であった。
「これは、生の爆発だ!!超新星爆発だ!!命が燃え尽きるには、まだエネルギーが残っている!この生はまだこの先も燃焼するパワーを残しているのだ!!」
エネットはそう悟ると、手探りでエルディの頭を掴み、そばにあった池に突き落とした。そして自身も最後の力を振り絞って、水の中に飛び込んだ。
二人が炎に包まれて水の中に飛び込むまで、時間にして十秒もかかっていなかっただろう。だが、二人には一千万年も宇宙を放浪したような、長い時間に思われた。
激しい水の音を怪しんだ家政婦が庭に出てくると、池に落ちている主人と見知らぬ青年の姿を見止めた。家政婦は慌てて携帯電話で救急車を呼ぶと、ほどなく救急車から担架が運ばれてきて、二人は病院へ運ばれた。
「作家のウィリアム・エネット氏が焼身自殺未遂で病院へと運ばれました。現在、容体は予断を許さない状態ですが、意識はあるとのことです。彼と一緒に自殺を企てた人物は、エルディ・スミス・フィルキイという名の二十歳の青年で、警察は二人の容態の回復を待って、殺人未遂の罪で逮捕するとのことです」
報道各社はこぞって二人の自殺未遂について取り上げた。幸い二人は重傷ではあったが、命に別状はなかった。エルディとエネットを近い病室にしておくと、再び自殺する恐れがあるため、二人は別々の病院に運ばれ、集中治療室で治療された。エルディは、カフィンが結婚を受け入れたように思えたのに、なぜまだ生きているのか疑問で仕方がなかった。あの「そうか」にはどんな意味が込められていたのだろう。
二人の火傷が回復すると、二人は逮捕された。死の瞬間何かを悟ったエネットは、刑務所内で狂った様に執筆を開始したという。
「命の爆発だ!この命燃え尽きるまで、儂は執筆を止められぬのだ!!」
獄中から発行した彼の新刊は、彼の自殺未遂のニュースも後押しして、大ベストセラーになったという。
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