季節の分かれ目にあらわれる邪悪なもの

 俺が言葉を失っていると、浩司さんは親しみを込めた微笑みを浮かべた。


「久しぶりじゃないか、貞治君」


 千沙のかつての旦那。優しい人だった。血の繋がりはないけれど、親戚として、同じ福岡の住人として親身に接してくれた。千沙や朱莉にとっても良いパパだった。

 だがそれも過去の話だ。最後に会ったのは去年の夏か。その直後こいつの不倫が発覚し、千沙と離婚した。千沙と朱莉を裏切り、悲しみのどん底に突き落とした張本人だ。そう思うとはらわたが煮えくり返りそうになった。


「どうしてアンタがここに……?」


 気が付けばアンタ呼ばわりしていた。とてもじゃないが、さん付けで呼ぶ気にはなれない。


「そこの大通りを歩いていたら、偶然貞治君を見かけてね。久しぶりに話してみたいと思ってついて行ったんだ」


「へぇ……」


「君、家が火事になったんだろう? もしかしてここがそうなのかい?」


 なぜこいつがそのことを知っているのか。考えられる可能性は一つしかない。


「千沙に聞いたのか?」


 かつては、この人と話すときは敬語を使っていた。でももう意識することなくタメ口になった。


「ああ。基本的に連絡は取ってないんだけど、君のアパートが火事になって千沙の家に住み始めたことだけはなぜかちゃんと報告してきたんだ」


 千沙がどういうつもりでこいつに俺のことを報告したのかは分からない。ただ、こいつにはどうしても言っておきたいことがある。


「俺は、アンタが千沙と朱莉を裏切ったことを許すことができない。あいつらの家族でも恋人でもない俺に、何かを許す資格なんてないのかもしれないけど」


「……随分と僕に対する当たりがきつくなったね。昔はそんな感じじゃなかったのに」


 如月浩司は悪びれる様子もなく、薄く笑った。朗らかゆえに、底知れぬ不気味さすら感じられる。


「なんで、不倫なんかしたんだよ……」


 俺は絞り出すような声で言った。


「僕はどうしても抑えることができなかったんだ」


 浩司は一呼吸置き、静かに語り始めた。


「彼女は行きつけの居酒屋の店員だった。店に通ううちに顔を覚えられ、話をするようになった。本当になんてことのない人とのなんてことない出会いだったのに、やがて恋愛に発展した」


 語る声が徐々に熱を帯びていく。


「本当に震えたよ。想像できるかい? 妻や娘、社会的地位、財産、今まで血の滲むような努力をして積み上げてきたものを全て投げ打ってもいいと思えるほどの女性が、自分の前に現れたときの気持ちを……。まだそれほどまでに人を好きになれるということを!」


 浩司は自分の両の手のひらを見つめながら声を荒げた。


「何かを守る、誰かを育てる、そして何かを残す、僕の人生はもうそういうフェーズに入っていた。永遠の眠りに就く前の終わりなき冬、長い終活と言ってもいい。信じられなかったよ、そんな僕にあれほどの衝動が、情熱が、冒険が、自由がまたやって来るなんて! 自分が主人公のように生きられる日がまた来るなんて!」


 まるで演説のようだ。捲し立てるように喋り続けている。


「結婚したら自由はなくなると思っているだろう? かつては僕もそう思っていた。でもそうじゃなかったんだ。我々はによって自らの身を縛っていただけなんだ! 僕らは最初から最後までずっと自由だったんだよ。その気になれば、理由さえあれば、何だってできるんだ!」


 俺は浩司の話を黙って聞いていた。正直に言えば少し引き込まれそうになっていた。こいつは基本的には屑で自己中心的だが、それだけでは片付けられない何かが言葉に秘められている。共感できるだなんて死んでも思いたくないが、百パーセントまでは否定できない自分がどこかにいる。こいつの言う衝動がどれほどの体験なのか気になってしまう。同じ穴の狢というやつなのだろうか。


「言いたいことは分かったよ……」


 こいつの気持ちの問題に今更どうこう言っても仕方ない。他人にどうにかできるもんでもなさそうだ。


「だが少なくともアンタは、正当な離婚の手続きを済ませてからそいつと付き合うべきだった」


「僕だって自分からちゃんと話すつもりだったんだ。でも運悪く、先にバレてしまった」


 反省はしていないのだろう。浩司の口調はあっけらかんとしていた。


「朱莉の養育費だってちゃんと払ってるんだよ。僕は、僕の好きにさせてくれるなら、僕を彼女に集中させてくれるなら、お金なんていくらでも払うさ」


 千沙と朱莉のためではないってことかよ……。

 人はここまで変わってしまうものなのか。それともこいつは元々こういう人格で、他人にそれを悟られることなく生き続けてきたのだろうか。人間不信になりそうだ。

 呆然とする俺をよそに、浩司は続けた。


「それにしても、朱莉は本当に鬱陶しい子だったよ。いや、彼女と出会ってからそう感じるようになったんだけど」


「……なんだと?」


「朱莉と最後に二人で話したとき、つい言ってしまったよ。毎日パパ、パパって言ってきて苦痛だったって。明日からは朱莉にパパって言われなくなるから、とても嬉しいよって」


「は……?」


 自分の娘に何を言ってるんだ? 嬉しいって何だよ? 娘がパパって呼んで何が悪い? そりゃ言うだろ。本当に何なんだ、こいつは――。


 俺はその場面を想像してみた。朱莉は絶望しながら、最後までパパって呼んだに違いない。


 パパ、パパ、パパ、パパ、パパ。


「ママ――」


 連鎖的に、その言葉を思い出した。

 次の瞬間、俺の心臓が跳ね上がった。


だったのか……」


「……何がだい?」


 俺は浩司に詰め寄り、コートの胸倉を掴んだ。


「お前が朱莉に下らないこと言ったせいで! 朱莉は千沙をママって呼べなくなったのか! 千沙にまで見捨てられることを恐れて!」


 浩司は物怖じせずに俺の顔を正面から見据えた。


「一体何の話だい?」


「お前らが離婚したあと、朱莉は千沙のことをママと呼ばなくなったんだ。千沙はそれが自分のせいだと思い悩んでいた……」


 俺は浩司のコートから手を放し、力なく後ずさりした。

 浩司は掴まれていたコートの皺を直しながら言った。


「そんなことか。念のために言っておくけど、僕は彼女と出会う前までは、妻と娘を愛していた。だけど、それらが障害と感じてしまうほどに彼女の存在が圧倒的なものであった……ただそれだけのことだよ」


「それでもお前は、その人を諦めるべきだった。気持ちに折り合いをつけて家族との結婚生活を続けるべきだった」


 数分前の自分の発言を撤回する。正当な離婚の手続きを済ませてから付き合う――ではなく、やっぱり離婚なんかするべきじゃなかったんだ。朱莉がこんなに辛い目に遭うくらいなら。


「何言ってるんだい? そしたら君は千沙と一緒に暮らせなかったじゃないか」


「……え?」


 思いがけない言葉に、鼓動が再び強くなるのを感じた。


「良かったじゃないか、僕が不倫をして、そして君のアパートが放火されて。そのおかげで君は千沙や朱莉と一緒に楽しく暮らすことができたのだから」


「何を言ってるんだ……?」


「だって君、半年前に会ったときはなんだか生気がなかったよ。人生がつまらなかったんだろうか? でも今日会って驚いた。顔色も良くなったし、生きるエネルギーみたいなのが目を見るだけで感じられたよ。きっと充実した日々を送れているんだね」


 俺は息を吞み、言葉を失った。


 確かにそうだ。こいつが不倫をして千沙と離婚しなかったら、俺が千沙と一緒に暮らすことはなかった。こいつが不倫をして朱莉に酷い言葉を浴びせなかったら、俺が朱莉と一緒に暮らすことはなかった。そうだった。俺たち三人の楽しかった日々は、かけがえのない思い出は、千沙と朱莉の悲しみの上で成り立っているものだったんだ。あいつらと暮らせて良かったと思うことは、千沙が離婚して良かったと思うことと同義なんだ。


 二人の涙や葛藤を思い出したら、こいつが不倫して良かったなんて口が裂けても言えない。それに、俺は千沙が離婚して良かったなんて一度として思ったことはない。本当はこいつが女と出会わず、不倫をせず、千沙と朱莉と一緒に生きていくことが一番の幸せだったはずなんだ。俺なんかじゃなくて――。


 当たり前のことなのに、今更気付いた。そして一度そう思ってしまうと、今まで自分にとって大切だった日々が形を失くしてしまった。砂の城が崩れ去るように、鏡の世界が砕け散るように。


 もちろん離婚したこと自体は俺とは無関係だし、俺にはどうすることもできなかった。俺は千沙と朱莉に対して、俺ができる最善を尽くしただけなんだ。それは頭では分かっているんだ。


 俺が俯きながら押し黙っていると、浩司は優しく諭すように言った。


「誰が放火したのかは知らないけど、僕は結果的に君が千沙のもとへ来る形となって良かったと思っている」


 本当にこれで良かったのだろうか。このままあいつらと一緒に暮らすことが最善の未来なのだろうか。


「貞治君、今日は話せて良かったよ。できればこれからも千沙の力になってあげてくれ。彼女には誰かの存在が必要だ」


「千沙には朱莉がいる。必要なのは俺じゃない……」


「そうか、それも一つの生き方だよ」


 浩司は口元を微かに緩め、踵を返して去って行った。

 何も声をかけずに目で追っていると、ロープの囲いを越えて跡地から出て行き、住宅街の中に姿を消した。


 俺はその場に立ち尽くし、空を見上げた。

 自分が何を思えばいいのか分からなくなっていた。

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