15年前と同じ部屋で

 朱莉の気持ちが落ち着くまで数分の時間を要した。

 立って歩けるようになると、和室で寝かせるためにパジャマに着替えてもらった。

 それから布団の中で横になった朱莉は、枕元に座る俺に向かって言った。


「このこと、ママには絶対言わないでね。心配かけちゃうから……」


「いいよ。秘密がどんどん増えていくな」


 風邪で赤く火照った顔に安堵の表情が浮かぶ。


「ねぇ、まだ昼だから眠くないよ」


「昔話でもしてやろうか? 桃太郎とか」


「私、太宰治の『人間失格』がいい」


「子供に人間失格を読み聞かせする奴がいるか」


「タイトルしか知らないから気になってたんだ。どうして失格になっちゃったの?」


「なんかルール違反でもしたんじゃないのか? 知らんけど」


「そっか、まるで貞治君みたいだね」


「え、俺そんなことしたっけ? 低く見積もっても失格寄りの合格だろ」


「それはどうかなぁ」


 今度は悪戯っぽく微笑んだ。体はともかく心の方は大分治まったようだ。


 一安心していると、婆ちゃんがお盆に載せられた小さな土鍋を持って和室に来て、朱莉の布団を挟んで俺の反対側に座った。お盆の上では実に旨そうな卵雑炊が湯気を立てている。小ねぎが散らされていて、真ん中に梅干しも載っている。俺の腹の虫まで鳴ってしまいそうだ。

 朱莉は体を起こし、婆ちゃんの卵雑炊に顔を近づけた。


「うわぁ、美味しそう」


 婆ちゃんはお盆を畳の上に置き、大きめのスプーンで卵雑炊を一口分掬った。


「ほら朱莉ちゃん、お口開けて」


 そう言ってスプーンを朱莉の口に近づける。しかし、朱莉は恥ずかしそうに抵抗した。


「自分で食べれるよ」


「いいからいいから」


「えぇ……」


 婆ちゃんに押し切られ、朱莉は卵雑炊を口にした。熱そうな米をゆっくりと咀嚼する。


「美味しい?」


「うん」


「良かった、いっぱい食べてね」


 婆ちゃんは二口目もスプーンで掬って食べさせた。かつてないほど生き生きしている。ひ孫の口に食べ物を入れるのが楽しくて仕方ないのだろう。朱莉が毎年正月に風邪を引けば婆ちゃんはかなり長生きするかもしれない。

 朱莉は成すがまま赤ん坊のようにお世話されていた。


「貞治君、じろじろ見ないで」


「写真、撮っていいすか?」


「絶対ダメ!」


 結局朱莉は小さな土鍋一杯分の卵雑炊を全て婆ちゃんの手によって食べさせられた。

 お腹一杯になるとまた布団に入り、寝息を立て始めた。俺と婆ちゃんは朱莉の寝顔を見届け、照明を消し和室の襖をそっと閉める。

 それから二人で卵雑炊を食べた。米と卵はふわっとしていて、かつお節の旨味が沁み込んでいる。月並みな言い方だが、優しい味わいだと思った。初めて作ってもらったのになぜだか懐かしい。



 朱莉は夕方頃に起きた。そのあとも外に出ることはなく、婆ちゃんの家でのんびりと過ごした。

 朱莉は婆ちゃんから、爺ちゃんの話を色々と聞いた。どれもこれもさして面白味のない話だ。自宅が火事になったり浮気されたりなんて刺激的なエピソードは一切ない。若い頃は犬を飼っていたとか、電車で出掛けただとか、花のお世話をしただとか――。でも、そういうなんてことない人生がもしかしたら一番幸せなのかもしれない。朱莉はもう泣き出すことはなく、どこにでもいる老夫婦の平凡な話を楽しそうに話を聞いていた。


 夜も婆ちゃんが作ってくれたご飯を食べた。そして昨日と同じ順番で風呂に入り、適当に眠くなってきたところで朱莉と和室に入った。照明を消し布団で横になると、朱莉が話しかけてきた。


「楽しかったね、お正月」


 そう言ってもらえると少しは安心できる。朱莉は風邪を引いたり泣き出してしまったりして、あまり楽しめなかったのではないかと思っていたから。


「ああ、明日は帰るだけだな」


「私を泊めてくれて、ありがとう」


「泊めたのは婆ちゃんだぞ」


 真っ暗な部屋の中で、俺たちの声だけが小さな灯りのように浮かんでは消えていく。


「でも、そうなるようにしてくれたのは貞治君でしょ?」


「さあ、どうだろうな」


 朱莉は小さく笑った。とぼけてみたのは無駄だったようだ。


「まだ帰りたくないね。私もっと泊まりたい」


「……永遠に?」


「それはちょっと困るかな。ママにも会いたいし」


「そうだな……」


 会話が途切れ、しばらくの間沈黙が続いた。もう寝てしまったのだろうかと思い隣を見てみると、朱莉もこちらを向いているのが薄っすらと見えた。その輪郭は、十五年前にこの部屋で一緒に泊まった千沙の顔を想起させた。


 それから俺はようやく思い出した。今回朱莉にも泊まってもらおうと思ったのは、千沙のことをママと呼ばなくなった理由を聞き出そうと思ったからだ。今が絶好のチャンスなのかもしれない。


 俺は再び口を開いた。しかし朱莉の方が一瞬早く、言葉を音に変えて響かせた。


「ねぇ」


「……なんだ?」


「私、貞治君みたいなパパが欲しい」


 静寂に向かってゆっくりと刺さっていくような声だった。心臓が鈍く疼いた。その言葉が単なる比喩ではなく、何らかの覚悟や決心をもって発せられたような気がしたからだ。


「やっぱり千沙に再婚してほしいのか?」


「もちろん、ママがその気になったらの話だよ」


「俺みたいな素敵な男はそういないけどな」


「私もそう思う」


 今の冗談は真に受けないでほしかった。子供の相手は難しい。


「そろそろ寝ろ」


「うん」


 この話題から逃げるように無理矢理会話を終わらせてしまう。訊かなきゃいけないことがあったのに。


「おやすみ」


「おやすみなさい」


 それっきり朱莉は喋らなくなり、俺もいつしか眠りに落ちた。



 翌日、昼ご飯を食べたあと身支度を済ませ、いつでも出発できるようにしておいた。

 千沙が午後二時過ぎに来て、俺と朱莉と婆ちゃんは玄関で出迎えた。


「おひさー」


 千沙は随分と能天気な挨拶をかました。二日前と同じ出で立ちだが、上機嫌で二日前より顔色が良くなっているように見えた。ちゃんと実家でリフレッシュできたようだ。


「一昨日会ったばかりだろ」


「ははは。朱莉、ひいお婆ちゃんちはどうだった?」


「楽しかった。初詣にも行ったよ」


「そうなんだ、良かったね」


「お土産買って来たから、あげる」


 朱莉は白夢神社で買ったお守りを千沙に差し出した。千沙は嬉しそうにそれを手に取った。


「ありがとう、何のお守り?」


「縁結びだよ」


「え、縁結び!?」


「うん」


 千沙がぎょっとしていたので俺はすかさずフォローした。


「俺らがここに泊まったときに千沙が縁結びのお守り買えなかったっていう話をしたら、朱莉が代わりに買ってくれたんだ。深く考えずに貰っとけ」


「あ、あぁ……」


 いきなり高校時代の話をされて戸惑っていたが、徐々に思い出したようだ。


「そんなこともあったなぁー。役に立つか分からないけど、ありがたく貰っとくよ」


 千沙はちょっと困ったように笑っていた。でも朱莉の顔は満足しているように見えた。


「それじゃあ、帰る準備はできてる?」


「うん」


「ああ、大丈夫だ」


 俺は後ろに立っている婆ちゃんの方を向いた。


「じゃあな、婆ちゃん。また来年」


「来年と言わず、いつでも来ていいんだよ」


「そうだな。こっちに来ることがあったら寄るよ」


 朱莉も俺に続いた。


「お婆ちゃん、泊めてくれてありがとう」


「こちらこそありがとう。お婆ちゃんもお守り大切にするね」


「うん!」


 最後は千沙だ。


「婆ちゃん、朱莉と貞治が世話になったね」


「いいんだよ。千沙ちゃんも大変だけど、いつでも頼ってね」


「うん、ありがとう。元気でね」


 俺が千沙の子供のような口ぶりをされているのが癪だが、大人なのでスルーしてやった。

 俺たちは別れの挨拶を交わし、婆ちゃんのマンションをあとにした。


 帰りの飛行機に乗る前、空港のロビーで千沙が言った。


「帰りも貞治が窓側に座る?」


「あ、私窓側に乗りたい」


 俺が答える前に朱莉が割って入った。


「うん、いいよ」


 千沙は朱莉に窓側のチケットを渡した。千沙が通路側、俺が二人の間の席に座ることになった。


 飛行機が離陸する瞬間、朱莉は楽しそうに窓の外側を眺めていた。どんな心境の変化か知らないが、俺の楽しみを理解してもらえたのは悪くない気分だ。

 だが喜んでいたのも束の間、離陸後、気が付くと朱莉は目を閉じていた。


「朱莉、寝ちゃった?」


 千沙が窓側の方を覗き込んで言った。


「そうみたいだ」


「へぇ、朱莉が飛行機の中で寝ちゃうなんて初めてかも」


「なんかいい夢でも見てんじゃないのか?」


 朱莉の寝顔は、冬眠に入ったばかりのリスのように穏やかだ。


「うん。朱莉、貞治が来てからちょっと変わったかも。明るくなったというか」


「やっぱりそう思う? まあ、千沙のことをママと呼ぶまではあの家に居てやるから安心しろ。約束だからな」


 そう言って千沙に笑いかけると、彼女は横から俺の顔をじっと見つめ、至近距離で目が合った。


「貞治もなんだかいい顔してるよ。朱莉と楽しい思い出作れたみたいだね」


「なんだ、焼き餅焼いてんのか?」


「え、焼き餅ってどっちに?」


 千沙は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。


「朱莉を俺に取られて妬いてんのかってことだよ」


「ああ、そっちか」


 そっちも何も、会話の流れとしてそれ以外の意味などない。

 何て返そうか考えていると、取り繕うように千沙が言った。


「そういえば婆ちゃんも朱莉にお守り貰ったみたいだけど、そっちは何のお守りだったの?」


「それも縁結びだよ。天国に行ったら爺ちゃんとまた会えるようにだってさ」


「そうなんだ……」


 この話には「私のパパは私とママのこと好きじゃなくなっちゃったけど」という背景があったが、敢えて省いた。それは千沙には言わなくてもいいことだ。

 俺は千沙から視線を逸らし、窓の外の景色を眺めた。


「爺ちゃん、その辺の雲の上にいるかもな」


「いや、天国そんな低くないでしょ……多分」


「年中接触事故が起きちまうな」


「ふふっ」


 周りの迷惑にならないように笑いを堪える千沙。

 飛行機はを目指し、青と白の世界を颯爽と羽ばたいていった。

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