第08話 邂逅8
「池上さん、ちょっとじっとしてて……」
僕は紙ナプキンを掴み彼女の口の周りを拭ってやった。
「ん……ありがと」
彼女は顎を突き出し大人しく口を拭わさせた。子供みたいだな。
「本当に美味しかった。もう、お腹いっぱい」と言ってお腹を擦る。
「満足した?」
「うん、でもまた食べたい」
「今度はマッパーじゃなくて普通のバーガーにしたら?」
「また大崎さんが残り食べてくれればいいじゃん。大崎さんだってマッパー1個じゃちょっと物足りないでしょ? ウィンウィンだよ?」
そう言って小首を傾げる。
そんな事言うと毎日バーガーコングに誘っちゃうぞ。
彼女と話していたらあっという間に時間が過ぎて閉店時間になっていた。
「そろそろ帰ろうか」
お名残り惜しいですが。
「うん……そだね」
彼女も随分浮かない顔をして言う。お互いリュックを背負い席を立った。
「明日は、1時から?」
「うん、1時から9時まで」
そんな事を話ながら店を出る。まあ、明日も合えるし。
「ほら、まだいっぱい人いるじゃん。東京って感じ」と嬉しそうに言う。
「そうだね」
「池上さん、土日もバイトに入るんでしょ? 遊ぶ暇がないけど大丈夫なの?」
少し気になった事があったので訊いてみた。
「うん、変に時間あるとお金使っちゃいそうだし、これでいいんだ」
そう言った彼女は少し寂しそうだった。
三宅さんから聞いた彼女のシフトを思い出していた。確か、休みは僕と同じ月曜日と木曜日。だけれど平日だから学校はある筈だ。土日は両方バイトに入るから、丸々一日休める日が無い。大丈夫なんだろうか。東京を案内しろとか言ってたけど、休みが無いんじゃ無理じゃないか。
やっぱり東京案内なんて社交辞令の一つだったのかも知れない。だけれど、一応尋ねてみる。
「東京の、案内は、どうする?」
「大崎さんの休みって何曜日?」
「月曜と木曜だけど」
「あ、わたしと同じなんだ」
「うん、マネージャーが僕に合わせたって言ってたけど」
「そうだったんだ。確かに日によって教育係が変わるのも嫌だもんなあ」
彼女は人差し指を顎に当てて少し考えていたけれど、
「木曜日は午後の講義が無いから午後からでもいいよね?」
「いいけど、半日じゃああまり回れないよ?」
彼女は承知の上だと言わんばかりに笑みを浮かべ、
「じゃあ何回も連れて行って下さいよ」とイタズラっぽく笑って言った。その笑顔を見て、
「はい」 喜んで! と後半は口に出さずに答えた。何回もなんて嬉しい。
「あ! そうだ! LINE教えてください」
彼女の申し出が信じられなかった。そりゃいつかは知りたかったけれど、彼女の方から申し出てくれるなんて夢みたいだ。僕も慌ててスマホを取り出しQRコードを表示させた。
彼女を友達登録するとすぐに通知が着た。見るとウサギのスタンプだけが届いていた。
「わたし結構メール好きなので頻繁にすると思います」とまた信じられない事を言う。
「うん、待ってる。僕もメールだともっと話せるかも」と答えた。
駅から北へ彼女と並んで歩いた。沼袋までは20分くらいだろうか。並んで歩くだけなのに心臓がうるさく音を立てる。心臓の音が内側から鼓膜を揺らした。
「わたしの教育、大崎さんで良かった」
彼女は時折僕の方に顔を向けながら言った。金曜日と言う事もあってか、外にはまだ沢山の人が歩いている。彼女はそれを目で追っている様だ。
彼女の言葉は当然嬉しい。だけれど、どこまで本気なのかはわからない。これも社交辞令の一つなのかも知れない。
「そ、そうなんだ」
「初めは無口で付き合いにくい人かなって思ったけど、マネージャーの言う通り良い人そうだし……」
「そうかな……」
「お昼も言ったけど、わたしあんまり慣れ慣れしい人苦手なんだ。まあ、東京って事で警戒しているってのもあるんだけど」
そう言って上目遣いで僕を見た。「あなたは大丈夫だよね?」と、そう言われている気がした。
たしかにここは東京だ。悪意のある人もそれなりにいるのだろうし僕だって東京の人間だ。だけど僕を信じて欲しい。
「大学って、高校と違ってクラスが無いから、特定の友達もなかなか出来ないんだよ」
僕は大学の事は解らないけれど、遠く山形から出てきた彼女が簡単に友達を作れない事は想像に難くない。
「でもバイトだと決まった人と長い時間過ごすから、バイト先の方が友達が作り易いのかもね」
だったら僕を友達の一人として受け入れて欲しい。
「あ、あの……僕で良かったら……その、友達に……」
うわー、めっちゃ恥ずかしい。顔が熱くなってきた。
「ほんとですか! 嬉しい!」
そう言って白い歯を見せた。しかし舞い上がるな、これも社交辞令かも知れない。
彼女のマンションには本当に20分程で着いた。「ここです」なんてマンションの前で指差して言うもんだから意図せずに彼女の家を知ってしまったけれど気にならないのだろうか。それにここからだと僕のアパートまでもそれ程離れていないんじゃないだろうか。嬉しい誤算だった。
「大崎さん、ありがとうございました。また明日もお願いします」
「うん、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
僕はそのまま更に北へ向かって歩き出した。時折振り返るも彼女は僕が見えなくなるまでそこに立っていた。
僕は歩きながらスマホを取り出しLINEを開き、友達リストの中から”あおい”と表示されている彼女を選んだ。写真の投稿などは無かったけれど、プロフィールの画像はどこかの海を写した物だった。僕はそれを見てずっとニヤついていた。
彼女のマンションから15分程で自宅に着く。シャワーを浴び、冷蔵庫からペットボトルの水を出しちゃぶ台の前に座ってノートパソコンを立ち上げた。グーグルマップで山形県の位置を調べる。随分と遠い。そのまま寒河江市を探しストリートビューで街並みを見てみる。本当にのどかな田舎と言う感じだ。
彼女の生まれ育った街と言うだけで何故だか心が温かくなりときめいてくる。きっと僕はこの街の事を好きになるだろう。いつかその空気を感じに一人旅でもしたくなってくる。
そのまま寒河江駅前のストリートビューも見てみた。駅前には人も殆ど見えず、さらに撮影された日は雲っていたのか、空は灰色の濃い雲に覆われてどんよりと薄暗く寂しさに拍車をかけていてどこか陰気臭い。
確かにここで生まれ育てば、若い女の子なら東京に憧れるのかも知れない。だけれど、僕の心には漠然とした不安が広がっていた。
彼女が東京に染まり、純情で純真な彼女がどんどん穢されていってしまわないだろうか。大学で東京育ちのイケメンに騙されて悲しい思いをしないだろうか。地元にいれば遭わなかったであろう色や誘いに惑わされ傷付かないだろうか。どんどん大人になり、僕とは違う世界の人になっていってしまわないだろうか。
彼女に出会えた事は嬉しいんだけれど、東京という街で出会った事が僕を不安にさせた。
どんな子供時代だったんだろう。どんな中学生だったんだろう。どんな女子高生だったんだろう。好きな人はいたんだろうか。付き合っていた人はいたんだろうか。そもそも今だって好きな人や付き合っている人がいるのかも知れない。そんな得体も知れない人の存在に何故か嫉妬した。
どんどん落ち込みそうだったので考えるのをやめた。
瞼に焼きつけた彼女の顔を思い浮かべた。決してとびきりの美人でもないしアイドル見たいに可愛い訳でもない。背も低いし髪だって頬までの黒髪のボブで中学生みたいだ。何故こんなにも心惹かれてしまったんだろう。
いつもなら観るアダルトビデオも見る気が起きなかった。健全な男子である僕が夜にアダルトビデオを見るなんて普通の事なんだろうと思うんだけれど、何故だか今日はそんな僕が少し嫌だったし、そんな僕が酷く恥ずかしく思えた。
今日は彼女に心を洗われたような気分だ。心にずっと漂っているじんわりとした温かい物が卑猥な気持ちを入り込ませない様に僕の心を包んでいた。
結局何もせずにベッドに入った。マナーモードにしていたスマホを見るとLINEの通知が来ていた。彼女からだ。心弾ませてトーク画面を開く。
『今日はご馳走様でした。明日もいっぱい教えてください。おやすみなさい♡』というメッセージの後にウサギが眠るスタンプが送られていた。
勘違いするな。最後の♡は「。」の代わりだと自分を戒めた。
僕も『おやすみなさい』と返信して眠りについた。
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