第97話 小さな想い。



 柊 緑は、知らなかった。



 なずなが幼い頃の緑たちの後をつけていた頃。緑もまた、知らない筈の過去を見せられていた。


「ここは……」


 なずなに手を引かれて、音のないカフェから外に出た。なのに気づけばなずなの姿はなく、見たことのない夕暮れの河川敷に1人立っていた。


「なずな? どこにいるんですか? なずな!」


 そう声を上げるが、いくら待っても返事はない。不安と恐怖に、ズキリと胸が痛む。


「……こんなことで慌ててちゃダメです」


 大きく息を吐き、思考を落ち着ける。緑は幼い頃から『夜』や魔法と言った異常に関わってきた。だからこういう異常な状況に対する対応力は、なずなより緑の方が高い。


「大丈夫。魔法は使える。それになずななら、私なんていなくても……大丈夫です」


 小さな胸の痛みで、暗い不安を飲み込む。そしてそのまま、まずは今の状況を把握しようと、音のない河川敷を歩き出す。


「なんだか、懐かしい景色……」


 目の前に広がる河川敷は初めて見る場所だけど、昔みんなで遊び回った河川敷と似ている。だからこんな状況でも、緑の足取りに不安はない。ざっざっと冷たい土を踏みしめながら、茜に染まった世界を歩く。


「…………」


 この場所はついさっきまでいたカフェと同じように、音がない。静寂を通り越した完全なる無音の街に、規則正しい足音だけがただ響く。


「まるで世界が死んだみたい」


 どこまで行っても終わらない河川敷。歩いている筈なのに景色が変わらない、止まった世界。そんな頭が痛くなるような夕暮れを歩き続けていると、ふと音が響いた。


「……あれ?」


 小さな音が聴こえた気がして、足を止める。するとまたポチャンと、なにかが水の中に落ちたような音が響く。


「あ」


 そこで緑は、ようやくその姿を見つける。


「…………」


 一切の生気を感じられない、死人のような瞳。まだ小学生であろうに、世界の全てを諦観しきった真っ暗な雰囲気。そんな不幸を固めて作った人形のような少年は、死んだ瞳で淡々と川に石を投げる。


「あの子は……」


 その少年は、どこからどう見ても幼い頃のなずなだった。


 緑が知らない、地獄のような生活を送っていた頃のなずな。両親が死んでまだ『先生』とも出会っていない、1番孤独だった時間。その頃のなずなと目が合って、緑の心臓はドクンと跳ねる。


「────」


 どうして幼い頃のなずながいるのか。もしかしたらここは、過去の世界なのか。それとも或いは、なずなの頭の中を見てしまっているのか。



 さまざまな考えが緑の頭を駆け巡るが、今はその全てを飲み込む。


「なずな……ですよね?」


 緑はゆっくりと幼い頃のなずなに近づき、そう声をかける。


「…………」


 けれどその声が聞こえていないのか。それとも或いは、聞こえた上で無視しているのか。なずなは眉一つ動かさず、近くにあった石を目の前の川に投げ入れる。


「……だれ?」


 そして遠くを見つめたまま、そう言った。


「き、聞こえているんですか」


 この場所では自分は部外者で、だからここでは誰とも関わることはできない。そんな風に思い込んでいた緑は当たり前のように返事をしたなずなを見て、大きく目を見開く。


「自分から話しかけておいて、なんだよそれ」


「い、いえ。聞こえるとは思わなくて……」


「あっそ。……でも悪いけど、他所に行ってくれないか? 誰かと話す気分じゃないんだよ、今は」


 黒く染まった瞳が、緑を射抜く。


「……っ」


 緑はその瞳を恐れるように、一歩あとずさる。


 状況が理解できない。目の前の状況に脳みそが追いつかない。魔法や『夜』といった異常を見てきた緑でも、目の前の現実に圧倒される。それほどまでに、今の状況が理解できない。


「…………」


 ……いや、違う。緑はただ単に傷ついただけなのかもしれない。例え過去の……現実ではない世界であったとしても、なずなに拒絶されてしまった。



 その現実に、緑の胸がズキリと痛む。



「でも、今は……」


 そんな痛みなんて気にならないくらない、目の前のなずなが気になった。こんな悲しそうな顔をしたなずなを、放っておけなかった。



 例え過去でも嘘でも偽物でも、ここで逃げたくはなかった。



「私は、柊 緑と言います」


 精一杯の笑顔を浮かべて、なずなの隣に並ぶ。


「…………」


 けれどなずなはそんな緑を無視して、また川に石を投げ入れる。ポチャンと小さな音が、夕焼けに響く。


「私は……私は、貴方のことをもっと知りたいんです。だから、聞かせてくれませんか? 私の知らない貴方を」


「…………」


 いきなり会ったこともない年上の女の子にそんなことを言われても、普通は困るだけだろう。けれど緑は、そうすることが正しいと思った。そうしなければ、もう2度となずなが好きだと言えない気がした。



 ……けれどなずなは、冷めた目で小さく呟く。



「自分に胸も張れない奴に、話すことなんてなにもない」



「──っ」


 今の緑の悩みを見透かしたような言葉。思ってもみなかった反撃に、緑の手に力がこもる。


「目を見れば分かるよ。あんたは俺に優しくしたい。優しくして、弱い自分から目を逸らしたいんだ」


「…………」


 緑はなにも言えない。なずなは赤い空を見上げて、言葉を続ける。


「この世界は嘘ばかりだ。優しく笑う人も幸せそうな人も、みんなみんな俺を傷つける。俺が近づくだけで、綺麗だったものが簡単に壊れてしまう。……いい加減うんざりなんだよ、ほんと」


 吐き捨てるようにそう言うなずなの瞳は、最初と変わらず色がない。けれどどうしてか緑には、泣いているように見えた。


「私は、なにを……」


 泣くこともできないなずなの代わりに、緑の瞳から涙が溢れる。なんだか酷く、愚かに思えた。今までなにをやっていたんだろうって、急に自分が恥ずかしくなる。



 他の姉妹たちと違って、自分には華がない。



 その悩みに、嘘はない。今まで感じてきた胸の痛みは、全て本物だ。でも……こんなに傷ついているなずなを目の前にして、それでも自分はそんなことでウジウジと悩んでいるのだろうか?


 ……例えここが偽物の世界で、現実のなずなが1人ではないのだとしても。あの時……一面の花畑を前にした約束を、なずなが忘れてしまったのだとしても。



 ここで目を逸らしていい理由にはならない。



 ……だってこのなずなの孤独の原因の一旦は、緑にもあるのだから。


「私は、柊 緑と言います。貴方の名前を教えてくれませんか?」


 緑は真っ直ぐになずなの目を見て、そう告げる。


「……どうしてそこまで、俺に構う?」


 幼いなずなはそんな緑を見て、不審そうに眉をひそめる。


「そんなの決まってます」


 緑は笑う。真っ赤な夕焼けに頬を赤く染めて。まるで幼い少女のように。屈託のない声を上げて。今度こそ胸を張って、その言葉を口にした。




「──私は貴方が好きだから」



 白い呪いが動き出す。緑となずが、どうして過去を見せられているのか。何の意味があって、こうして過去と関わることになったのか。緑はまだ、なにも知らない。なずなはまだ、なにも分かっていない。



 そうしてここから、過去が色を変える。


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