第79話 ──そして。



 木漏れ日のような、夢を見た。



「……っ」


 頭が痛い。身体が重い。息をするだけで内臓が破裂したような不快感が、全身を駆け回る。



 ……ああ、戻ってきた。



 幸せなだけの夢から目を覚ましたバカな人間は、重い瞼を開けた。灰宮 なずなは、この現実に帰ってきた。



「…………どうしてだ。どうして目を開けるのだ、なずな」



 空から声が響く。見上げる空に神がいる。彼女は怒りを通り越し呆れたように目を細め、漆黒の闇を従え俺を見下ろす。


「理解できん。意味が分からん。妾が守ってやると、言ったではないか。これからは妾がずっとそばにいてやると、約束したではないか。なのに……どうして。なのにどうしてお前は、そこにいるのだ! なずな……!」


「どうしてって……っ。痛っ」


 立ち上がろうとした瞬間、身体が軋む。まるでつい先ほどまで死んでいたかのように、身体が言うことを聞かない。まだ眠っていたいと、痛みを叫ぶ。……でも俺は、目を覚ました。幸せな夢より、辛い現実を選んだ。


 なら、いつまでも横になっているわけにはいかない。天に立つ神の相手をするなら、俺も精一杯、虚勢を張らないとカッコがつかない。


「……ごめん。ちょっとふらついた」


「そんなことはどうでもいい。それより答えろ! どうしてお前は、ここにいる!」


「それは俺より姉さんの方が、よく理解してる筈だ。……今の俺を生かしているのは、他の誰でもない。姉さんの想いなんだから」


「そんなことを言っているのではない! 例え立ち上がる力があったとしても、お前にはもう立ち上がる理由がない筈だ! ……何故だ。どうして理解しない! 妾はただ、お前に幸せになって欲しいだけなのに……!」


 胸が痛い。姉さんの叫びが、胸に刺さる。……姉さんは本当に、優しいヒトだ。彼女は誰より、俺のことを想ってくれている。



 ……でも、だからこそ俺は平然と言う。



「悪いけどさ、姉さん。俺にはまだ、果たしてない約束がある。見てない景色があるんだ。……大人になったらありがとうって言いたい人が、沢山いるんだよ。だから、ごめん姉さん。俺はまだ、眠るわけにはいかない」


「……馬鹿め。そんなことをして、なんになる? そんな形だけの幸せに浸って、なんの意味があるというのだ! ……なずな。優しいお前が生きるには、この世界は辛過ぎる。だからお願いだから、妾の言うことを聞いてくれ……!」


『夜』が震える。姉さんの愛が、闇を通して俺の心を揺らす。姉さんは嘘偽りなく俺の為に、この世界を滅ぼそうとしている。



 ……けれど、それでも俺は証明しなければならない。



「姉さん。悪いけど俺は、止まらない。……幸福より価値のある不幸っていうのを、俺はまだ知らない。だから俺は、まだ眠るわけにはいかないんだ」



「────」



 怒りに染まった姉さんの瞳から、色が抜ける。もうこれ以上の我が儘には付き合っていられないというように、姉さんの手が天へと伸びる。



 ──世界に、穴が空く。



「……お前が聞き分けのない子だというのは、よく分わかった。なにを言っても無駄だと、もう理解した。だから力尽くで、今度はより深い夢でお前を眠らせてやる」


 この世界には収まり切らない力。他とは規格が違う、超常なる異常。ただそこにあるだけで世界を終わらせる漆黒の魔剣が、天から俺を見下ろす。


「────」


 立っていられない。見ていられない。意識するだけで、心臓が破裂する。それ程までに、その剣が放つ威圧感は凄まじい。



 ついさっきまでの俺は、あんなのと斬り合っていたのか。



 死を形どったどころか、死の向こうにあるナニカ。脆弱で矮小な100年の時も生きられない人の死とは意味が違う、100万の時を生きる神を殺す天下無双の魔剣。



 死が、俺の心臓を掴んだ。



「先程までの威勢はどうした? なずな。それとも妾が、ここで手を抜くような甘ちゃんだと思っているのか? ……お前はつい先ほど、この剣と対等に斬り合った怪物だ。そんなお前を、軽く見るわけがなかろう」


「…………」


 その通りだ。その通り過ぎて、なにも言えない。


「…………どうした。本当に、諦めたのか? ……いい。多少の時間はくれてやる。全力をへし折らなければ、お前も諦めがつかないだろう。だからさっさと、先ほどの剣を出せ。お前の全てを、妾の全てで断ち切ってやる」


 姉さんが剣を構える。


「…………」


 けれど俺には、もうあの剣は出せない。俺にはもう、あの剣を握る手段がない。……そもそもあんなものに頼るつもりなんて、もうない。



 自身の腕に、視線を向ける。



 そこにはもう、藍色の腕輪がない。あの藍奈が死んだとは思えないけど、姉さんの漆黒の斬撃を受けた時、藍色の腕輪はどこかに消えてしまった。



 だから今の俺には、戦う力がない。



 ここにいるのは、灰宮 なずなただ1人。誰より勇敢な少女たちも。自分勝手で優しい女の子も。もうここにはいない。


「……どうした。本当にそのままでいいのか? なずな」


 姉さんは頭に血が上っているのか、俺の腕に腕輪がついていないことに気がつかない。気がついていないから、漆黒の剣を持って俺を見る。


「俺はこのままでいいんだよ、姉さん。俺には剣なんて、必要ない。そもそも俺には、魔法なんて使えないんだ」


 そう。俺は初めから、魔法少女なんかではない。俺はみんなのように魔法を使うことなんてできないし、剣を振るうこともできない。


 馬鹿だった。忘れていた。そんなことにも気がつかないほど、俺は力に酔っていた。いくら資格があろうが。どれだけの才能があろうと。俺の本質は、戦うものではない。灰宮 なずなは、みんなのようには戦えない。



 ──だから。



「ははっ」


 ふと、笑みが溢れる。状況はどうしようもないくらい、絶望的だ。月とすっぽんどころか、羽虫と太陽くらいの戦力差が俺たちの間にはある。


「……ああ。本当に、いい夜だ」


 しかしそれでも、俺は笑う。おかしくておかしくて、仕方がない。今までの人生の中で、今が1番楽しい。



「──なにを笑う、なずな」



 そんな俺を見て、訝しむように姉さんが言う。


「自分の馬鹿さ加減にだよ、姉さん。……随分と遠回りしたなって、今頃になって思うんだ」


「…………」


 俺の言葉の意味が分からないのか、姉さんはなにも言わない。なにも言わず、ゆっくりと剣を振り上げる。


「……もうなんでもいい。この一撃で、終わらせる。今度こそお前を、幸せは眠りに落としてやる」


「……っ」


 冷たい闇が吹き荒ぶ。黒い雪が街を染める。誰より優しい女の子が。誰より戦いを憎んだ少女が。世界を染め上げる想いを持って、俺に向かって剣を振るう。



「──はっ」



 死が迫るその最中。その一瞬。神ですら気がつかない、時が止まるような刹那。



 俺は言った。



「少しだけ分かったよ、母さん。長い努力と苦しみの先の景色がこれなら、確かに頑張る価値はあるのかもしれない」



 なにもない虚空へと手を伸ばす。冷たい夜へと手を伸ばす。俺の手に武器はなく、灰宮 なずなに戦う力はない。それはもう分かった。俺が勝てないことなんて、1000年前から知っている。



 だから俺は、灰宮 なずなの原点に手を伸ばす。




「──さて、1つ花でも咲かそうか」




 そう言って俺は、久しぶりに筆をとった。


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