第51話 どうしても。



 蘇芳さんと別れた後。しばらく歩いて、近場の博物館までやって来た。


「実はあたし、博物館はじめてなんだ」


 チケットを渡して中に入ると、少しワクワクしたような目で橙華さんは言う。


「そうなんですか。俺は子供の頃、何回か来たことありますよ」


「ふふっ。なんかちょっと、意外だね」


「そうですか?」


「うん。だってなずなくん、美術の授業サボってたでしょ? だからこういうの、嫌いなんだと思ってた」


「いや、別に嫌いってわけじゃ……。というか、どうしてサボってたこと知ってるんですか?」


「えへへ。ないしょー」


 橙華さんは無邪気な顔で、ニヤリと笑う。その笑みはいつもの橙華さんと全く同じで、なんだか少し安心する。


「じゃあ、行きましょうか」


「うん。分からないことがあったら、教えてね?」


 そうしてゆっくりと、2人で展示物を見て回る。


 この展覧会は、『神』というテーマの元、絵画や彫刻、果ては神が使ったとされる神器まで、古今東西あらゆるものが並べられていた。


 辺りを見るにあまり盛況とは言えないようだが、独特な視点から集められた品々は、見ているだけで心躍る。


「…………」


 けれど俺の目的は、博物館を楽しむことではなく、橙華さんの悩みを知ることだ。だから思考だけを遠くへ飛ばし、橙華さんのことを考える。


 橙華さんは、確かめなきゃならないことがあると言った。けれど橙華さんはそれがなんなのか話すこともなく、偶然もらったチケットで博物館まで足を運んだ。



 そんな橙華さんの真意は、一体どこにあるのだろう?



 橙華さんの過去を知って、自身に催眠をかけているという秘密まで教えてもらった。けれど橙華さんが今、なにを考えているのか。それはまだ、全くと言っていいほど分かっていない。

 

「…………」


 そこでちらりと、橙華さんの方に視線を向ける。すると丁度、橙華さんはとある絵画の前で足を止める。


「……綺麗」


 まるで心がそのまま溢れたように、橙華さんはそう小さく呟く。


「────」


 けれど俺は、そんな言葉さえ言えないほどその絵に魅入ってしまった。


 その絵には、1人の少女が描かれていた。薄い灰色の髪をした、夜空の月がそのままヒトガタをとったような静かで美しい少女。


「いや、この子……」


 そこで、気がつく。この少女は、真白さんに案内された神社で眠っていた神だという少女と、そっくりだと。


「綺麗な絵だね」


 まるで現実に立ち返るように、橙華さんがそう告げる。


「……ですね」


 俺は夢現のまま、そう言葉を返す。


「なんかなずなくん、ぼーっとしてるね。……もしかして、こういう女の子がタイプなの?」


「いや、なんの話ですか。じゃなくて俺はただ……」


 1つ、気になることがあった。


「この博物館。神についての展覧会をしてるって、書いてありましたよね? でもこの絵のどこが、神なんでしょう?」


「確かに……」


 橙華さんはもう一度、その絵の方に視線を向ける。


 俺はこの子が、神であると知っている。……いや、そう聞かされた。でも真白さんは、あの子は何百年もあの場所で眠っていると言っていた筈だ。なら一体どこの誰がなんの目的で、こんなものを書いたのだろう?



 そしてどうしてこの少女が、神だと知っていたのだろうか?



「それは、タイトルをご覧になれば分かりますよ」


 背後から、そんな声が響く。


「ああ、すみません。いきなり声をお掛けして。私はこの博物館の館長をさせて頂いている、高原たかはらという者です」


 その人──高原さんは柔和な笑みを浮かべて、もうだいぶ薄くなってきた白髪の頭を軽く撫でる。そしてどこが誇るように、その絵を眺める。


「……タイトル。『神への贄』ですか。でもこの少女は、生贄には見えないですよ。……そもそも、タイトルを見なければ伝わらない絵というのは、あまりいい絵とは言えませんよ」


 どうしてかこの絵に……この美しい絵にあまりいい感情を抱けない俺は、そんな言葉を口にする。


「仰る通りです。……ですが、そのタイトルをご覧になってから、もう一度その絵をじっくりと見てみてください。そうすれば、この絵に込められた意味がはっきりと伝わる筈ですよ」


「…………」


 俺と橙華さんはなにかを確かめるように視線を合わせ、もう一度その絵に視線を向ける。


 すると──。


「……なるほど。生贄には、こっちってことですか」


 絵の中の少女が放っていた、身も凍るような美しさ。タイトルを見た後だと、その美しさの意味がガラリと変わる。



 この少女の美しさは、毒を持つキノコの美しさと同じだ。



 この絵を見ていると、まるで自分がこの神に捧げられる生贄になったような気にさせられる。この絵とタイトルには、そんな魔力が込められていた。


「この絵は、私がこの展覧会を開こうと思ったきっかけなんですよ。それ程この絵は美しく、なにより恐ろしい。この絵の持ち主である私の知人も、よく言っていました。……流石は、灰宮 欠慈だと」


「────」


 その言葉を聞いた瞬間、忘れていた遠い過去を思い出す。



『なずな。この子が今日から、お前の姉だ』



 聞いたことがない筈の、父親の言葉。愛玩具でも見るような、美しい少女の瞳。そして……冷たい冷たい夜の魔法。そんな記憶が、脳の奥をズキリと痛ませる。


「灰宮って、なずなくんと同じだね」


 なんでもないことのように、橙華さんは笑う。


「……灰宮 欠慈は、俺の父親なんですよ」


 だから俺は余計な記憶を振り払い、そう言葉を返す。


「へぇ、凄いね。じゃあなずなくんも──」



「なんと!」



 橙華さんの言葉を遮って、館長さんが声を荒げる。


「では貴方が、あの灰宮 なずなくんなのですか! 私、貴方の絵を何度も拝見させて頂きました! 貴方は実に、素晴らしい才能をお持ちだ! しばらくは絵を描いていないと聞きましたが、今は──」


「すみません。今はデート中なんで、また今度にしてください。……行きましょう? 橙華さん」


「あ、ちょっ、なずなくん?」


 困惑する橙華さんの手を引いて、早足に歩く。館長さんはまだなにか言っていたようだが、そんなことはどうでもいい。あまり過去のことを話されると、デートどころではなくなってしまう。


「……なずなくん、大丈夫?」


 不安そうに瞳を揺らして、橙華さんが俺の顔を覗き込む。


「すみません。いきなり引っ張ったりして」


「そんなのは別にいいよ。それよりなずなくん、その……お父さんとなにかあったの?」


「…………」


 一瞬、本当のことを言うかどうか迷ってしまう。けれど今さら、橙華さんに嘘をついても仕方ない。だから俺は正直に、口を開く。


「俺、父親に虐待されてたんですよ。それでちょっと、トラウマがあるんです」


「……そっか。……ごめんね? 辛いこと思い出させて」


「どうして橙華さんが、謝るんですか。……そもそも俺は強いですから、これくらいなんともないです。ただあの絵が……」


 ただあの絵が、を無理やり掘り起こしてきただけで。


「それより、橙華さん。今日1日は橙華さんに付き合うって約 約束でしたけど、少しだけわがままを言ってもいいですか?」


「……いいよ。そもそもあたしがわがまま言って、なずなくんに付き合ってもらってるんだもん。それになにより……あたしが確かめたいことは、なずなくんが側にいてくれるだけで充分なことだから」


 橙華さんはそう言って、笑う。その笑みはやっぱり、いつもの優しい橙華さんと同じだ。だから俺は肩から力を抜いて、その言葉を口にした。



「橙華さん。今から一緒に、絵を描きませんか?」


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