第24話 辛くても。



 欠けた月が空に座する、静かな夜。俺は今日も、筆を持って真っ白なキャンバスに向かっていた。


「…………」


 ……けれどどうしても、手が動いてくれない。もうとっくに死んだ筈の父親の怒鳴り声が聴こえてきて、胃の中のものが逆流する。


「……く、そっ」


 口元を押さえて、吐き気を耐える。全身から嫌な汗が噴き出して、足元が沈んでいくような不快な感覚にとらわれる。


「頑張ってください、なずなさん」


 そんな俺の姿を見て、蘇芳さんは子供のように純粋な瞳で笑う。



 絵を描いて欲しいと、彼女は言った。



 その為ならなんだってするし、どれだけ金を払ってもいい。彼女は本気で、そう言った。そこまでしていいと思えるほど、彼女は俺の絵に取り憑かれていた。



 ……けれど今の俺には、もう絵は描けない。



 真っ白なキャンバスを前にすると、忘れた筈の父親の怒鳴り声が聴こえてくる。辛いだけの過去が身体に絡みついて、手が動いてくれない



 だから俺は、言った。



「ごめん。やっぱり、無理だ。俺にはもう……絵は描けない」



 筆を置いて、逃げるように蘇芳さんの方に視線を向ける。……蘇芳さんは真っ直ぐに、俺だけを見つめていた。


「大丈夫ですわ。なずなさんになら、絶対に描けます。だって貴方には、誰にも負けない才能があるのですから」


 蘇芳さんの、いつもの言葉。俺が弱音を吐くと、彼女はいつも俺には才能があると言ってくれる。……でも、いくらおだてられても、俺にはもう……絵は描けない。


「そう言ってもらえるのは、素直に嬉しいよ。でも才能なんてものは、使わなけりゃ簡単に腐る。俺の才能は、もうとっくに腐ってるんだよ」


「それは、違いますわ。貴方の才能は、そんな凡百の才能ではありません。たかだか数年使わなかっただけで腐るほど、貴方の才能は簡単なものではないんです」


 ゆっくりと俺の方に近づいて来た蘇芳さんは、愛しむように俺の頬を撫でる。そしてそのまま、夢でも見ているかのような瞳で、楽しそうに言葉を続ける。


「実はわたくしも、絵を描いていましたの。お父様が昔から絵が好きな人で、家に先生を何人も招いて必死になって練習してました。自分で言うのもなんですが、わたくしにも結構……才能があったんです。いくつか賞を頂いて、将来を期待される程度には……」


「なら俺なんかに頼らず、自分で描けばいいじゃないか」


「ふふっ。確かにそれは、そうですわね。……でもわたくし、身の程は弁えているんです。わたくし程度の才能では、決して本物には敵わないと」


「……悪いけど、それは買いかぶりだよ」


「……ふふっ」


 そこで蘇芳さんの手が、俺の頬から離れる。そして彼女はその冷たい手を、長い舌で誘うように舐める。ゾッとするくらい、その仕草は色っぽかった。


「わたくしはね、絵を描くのも好きでしたけど、なにより見るのが大好きでした。余計な装飾をとっぱらった、言葉を超えた美しいだけの世界。そんな絵画がわたくしは大好きで、特に……貴方のお父さん。灰宮 欠慈の、大ファンでした」


「……!」


 灰宮 欠慈。その名前を聞いた瞬間、俺の心臓は痛みを叫ぶようにどくんと跳ねる。


「初めて彼の個展に行った時、衝撃を受けました。それこそ本当に……世界が変わるほどの衝撃を。……けれど灰宮 欠慈は、ある日を境に絵を描かなくなってしまった」


「だから俺に、その代わりをしろと? 悪いが、俺には……」


「ふふっ。分かっていて、言っているのでしょう? そうじゃありません。だってしばらくしてから、灰宮 欠慈はまた絵を描き始めたんですから」


 俺が置いた筆を、蘇芳さんが握る。


「……驚愕しました。こんな絵を、わたくしと同じ人間が描けるわけがない。そう思うくらい、後期の灰宮 欠慈の作品は図抜けていた。お父様に頼み、何枚もその絵を買い取って頂きました。忙しいお父様も、その絵を見る為だけの時間をわざわざ作るほど……その絵は美しかった」


「…………」


 胸が、痛い。褒めてもらっている筈なのに、どうしてか胸がズキズキと痛む。


「でもだからこそ、その灰宮 欠慈が事故で亡くなった聞いた時、世界の不条理を恨みました。他に死ぬべき人間はいくらでもいるのに、どうして彼が死ななければならないのか、と……」


「……あいつは、生きるべき人間じゃなかったよ」


「ふふっ、そうですわね。本当に、その通りです。……灰宮 欠慈の死から何年も経った後。わたくしは知りました。その息子が、わたくしと同じ高校に通っていると。そして、ちょっとした好奇心で調べてみれば、あの絵を描いていたのは灰宮 欠慈ではなく、貴方だった……!」


 蘇芳さんは、狂気に染まった瞳で俺を見る。それこそまるで俺が昔描いていた作品と同じように、深い狂気がその目に宿る。


「その事実を知った時、わたくしは絵を描くのを辞めました。だってわたくしの才能なんて、貴方と比べたらゴミみたいなものですから。天才と言われた灰宮 欠慈と比べても比較にならない才能が、貴方の中には眠っている。だからわたくしは、誰より貴方に絵を描いて欲しいんです……!」


 蘇芳さんは俺に、筆を差し出す。……でも俺は、それを受け取らない。


「……ごめん。それでも俺は、もう絵は描けない」


 そう言って、頭を下げた。……けれど蘇芳さんは少しも落胆することなく、楽しそうな笑い声を響かせる。


「なずなさん。貴方は父親……灰宮 欠慈から、酷い虐待を受けていた。その時の恐怖と絶望が、貴方の絵の顔料になった。そうですよね?」


「……なにが、言いたい」


「ふふっ。心配せずとも、わたくしに暴力は振えませんわ。そんな力も度胸も、わたくしにはありませんから。……でもその代わりに、こういうのはどうでしょう?」


 そう言って蘇芳さんは、背後の机に置かれたファイルから、1枚の紙を取り出す。


「……! どうしてお前が、それを持っているんだ!」


 それは、『先生』が最期に遺した詩の原稿だった。今の俺の唯一の宝物と言える、その原稿。あの家に置いてある筈のそれを、蘇芳さんは当たり前のように破ろうとする。


「辞めろ……!」


 そう叫び、蘇芳さんに掴みかかる。蘇芳さんはなんの抵抗もせず、そのまま後ろに倒れ込む。


「ふふっ、いい目をしてますわ。……ゾクゾクしてしまいます……!」


「……知るかよ、そんなこと。いいからそれを、返せ。もうお前と話すことは、なにもない!」


 こんな家、もう出て行ってやる。幸福だとか青臭いとか、そんなことはもう知らない。そんなもの、宝物を捨ててまで守るようなものじゃない。


「くふっ。逃しませんわよ……」


 そんな俺の心境を見透かしたように、蘇芳さんは笑う。底冷えするような暗い声で、彼女はただ笑う。


「さっきも言いましたけど、わたくしだけではなくお父様も、貴方の大ファンなんです」


「……だから、どうした」


「……ふふっ。。お父様は、そう言ってくれました」


「脅す、つもりか」


「はい。お金を使えば、あんな山小屋のような家を壊すのなんて簡単です。……それに、楽しい嫌がらせができますわ」


「お前……! 彼女たちは、関係ないだろう!」


「はい。あの姉妹は、なんの関係もありません。だからどうなったって、別に構わないではないですか」


「……くそっ!」


 一瞬、殺してやろうかと本気で思った。……でもそんなことをしても、意味はない。ここで彼女を殺しても、誰も幸せになんてなれない。


「さあ、筆を握ってください。この筆はもう、貴方のものですよ? なずなさん」


 俺が一度置いた筆を、蘇芳さんが差し出す。


「……描けばいいんだろ」


 強く歯を噛み締め、筆を受け取る。そしてそのまま立ち上がり、真っ白なキャンバスに向かう。


「ふふっ。やっぱり貴方は、痛みを耐えている時が1番美しい。その美しさが、あの絵を形作るのですね」


 そんな言葉を背中で聞きながら、昔のことを思い出す。……俺はどうやって、絵を描いていたのか。どんな絶望を、色に変えていたのか。ずっと目を逸らし続けていた過去に目を向けて……。



 なにかが、見えた気がした。



「…………」


 でもどうしても、手が動かない。背後からビリビリと、俺の最後の宝物が破かれていく音が聴こえる。……涙はもう、流れない。だって俺は、知っているから。



 人生は、明けない冬だ。



 きっと俺は、死ぬまで苦しみ続ける。この世界には、奇跡や魔法なんてありはしない。だから誰も俺を助けてくれないし、俺自身もまた誰も救えなかった。



「……ああ、そうだ。あの時も、同じことを思ったんだ」



 父親に、無理やり絵を描けと言われた時。俺は、願った。助けて欲しい、お願いしますって。大好きだったヒーローや信じていなかった神様に、本気で願った。



 でも誰も、俺を助けてくれなかった。



 どれだけ叫んでも、

 この声は、

 この痛みは、

 この苦しみは、



 誰にも、届くことはない。





 ……だからそれは、本当の魔法だった。






「──私の弟を虐めるな!」



 夜の闇を切り裂きながら、赤いヒーローが姿を現す。その時初めて、俺の長い冬に亀裂が入った。


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