1917 命をかけた伝令 ー20.2.18.

監督:サム・メンデス



「映画なのに視野狭窄!」

驚異の長回しスタイル。

もちろん「の、ように見える」というただし書き付きだが。

(見せるために、そらもうトリッキーな撮影や、エラ複雑な画像処理がなされていそうに思えてならない)

おかげで映画がいかに時間を操ること、シーンやカットによって成り立っているかを体験することができたと感じる。


抜きにして仕立てられた本作は、ハデさが記憶に残るようなショットがほとんどない。

ずっと主人公の傍らに付き添い続ける。主人公が見ている景色しか見せてもらえないせいだ。

この驚異的な視野狭窄!


もっと全体を見せてくれ!

違和感もあったわけで、最初はじれったくもあった。

だがむしろそれが臨場感を放ち始めたのは中盤あたりからか。

時間も、ここがどこかも、いま目の前で何が起きているのかも、一瞬わからなくなるリアルな「混乱」が、椅子に座っているだけだというのに襲い掛かってくる恐怖。

それも敵もろとも。

固定された視点に前フリも挟めないせいで、いきなり感が半端なく、これがとにかく生々しい。

ひたすら息詰まる。

客観的に見るのではなく、まさに体験する作品。

ひたすらそう感じる1本だった。


この大いなる実験的試みへは拍手を送りたい。

やり切ったスタッフにも演者のみなさんにも!

でもヘンに体力をもっていかれたし、なにげに音楽もいい仕事をしていたと思う。



日々過ごす中、時計で時間を確かめる以上、我々はちくいち時間を感じ取っていないと気づく。

だからといって過ぎたかどうだか分からないわけでもない以上、時間はかなり潜在意識の領域と関係しているのだろうな、と思ってみたり。

つまり時間を操るということは、意図せぬところから自身の内面を操る、操られる、に直結し、これほど魔法に掛けられたような気分に襲われることもないだろうと。

音楽も、映画も、おそらく小説も辛うじて、五分で、二時間で、三百ページで人生を語り上げるなら時間を操る芸術だ。

ただし難しいのは前述したとおり潜在意識の領域をいかに意識的に処理できるかで、面白味、退屈、の差が生じるのは、そこにも原因があるのではないかと考える。

本作は主人公の視点と、主人公の主観による時間の流れで構成されている。視点を強固に固定することで時間はリアルタイム(客観)で進行するしかないが、固定するからこそ体感(主観)時間という非リアリズムも混じる。

まさに視点となる個だけが認識す空間の再現が、本作の狙いだ。

逆に、かつて「24」という客観(絶対的)に流れる時間の中で、様々な視点からリアルタイムで進行するドラマがあった。バランスは明らかにリアルタイムでの進行における互いの絡みに重点が置かれ、主観時間は次点扱いとされている。

すなわちSFでなくとも時間の操り方で、作品の顔はこうも変わるのかと思う。

それら全てを再現することは不可能でも、小説の中に流れる時間の伸び縮み、主観と客観の切り替えはだからして、大事なテクニックのひとつであると、改めて実感する。

ついつい無意識にとじこめがちだからこそ、本作より改めて大事に気を配りたいなと思うばかりだった。

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