第80話 トラウマ

青白い顔をした矢野君は、

一息つくとまたお茶を少し啜った。


「ねえ、本当に大丈夫なの?」


矢野君は、そう尋ねる僕を見ると、

何かを考えてたようにして口を開いた。


「手……」


急に矢野君にそう言われ、


「へっ? 手?」


とちょっと困惑した。


「お前の手、ちょっと握ってもいいか?」


矢野君に急に尋ねられ、

僕は自分の手の平を目の前に広げて

閉じたり開いたりした。


「手って…… 僕のこの手?」


開いた手の平を矢野君の前に差し出すと、

矢野君は僕の手にそっと触れた。


そしてギュッと握り締めると、


「お前の手はあったかいな。

気持ち良い手だな」


そう言って深呼吸した。


「あ…… 僕の手……


そうだね、僕、基礎体温が高い方だから……


矢野君の手は少し冷んやりとしてるね。

僕に取っては、こっちの方が気持ちいいかも。


今日はちょっと暑い位だからこれくらいが丁度良いのかもね」


そう言って僕は反対の手の平を額に当てた。


「一応は陰になってるけど、ここは眩しすぎない?


本当に大丈夫?」


そう尋ねる僕に反するように、

彼は僕の手を更にギュッと握りしめると、

緊張したような面持ちになり、俯いた。


そして、


「俺な、咲耶とキスする度に具合が悪くなるんだ」


と下を向いたまま、

矢野君がぽつりとそう言った。


僕は聞き間違ったんじゃ無いかと思って、


「え? 今なんて言ったの?」


ともう一度聞き直してみた。  


「俺、咲耶に触れると……


いや、ハグではそうはならないな……


咲耶にキスをすると、

動悸や息切れがするんだ……


まるで体が咲耶の事を拒否してるみたいに……


俺さ、高校の最後らへんで記憶を失くしてるじゃないか?

その前の事はまだ思い出してないんだけど、

咲耶と再会したころの記憶はもう既に戻ってるんだ。


そしてこの咲耶に触れると気分が悪くなるって言うのは、

咲耶に再開した頃からなんだ。


だから今に始まった事じゃない……


最初は事故の後遺症かと思ったけど、

こういった症状は必ず、咲耶とキスをした時なんだ。


だから間違いない。

これは咲耶とキスをしたせいでこうなってるんだ。


と言う事は……


俺がまだ思い出していない頃に

何か咲耶とあったはずなんだ……」


僕は矢野君が言った言葉が信じられなくて、

矢野君の方を見て目を見広げた。


“それって……


僕がいるから?”


咄嗟にそう言う思いが僕の脳裏をよぎった。


僕は矢野君の劇的な告白にどう反応すれば良いのか分からなかった。


僕は目を閉じて風を感じた。


兎に角気持ちを抑えなければいけなかった。


その時の僕は、頭がぐちゃぐちゃで、

心臓はバクバクで、

次にどんな言葉が飛んでくるかでドギマギとしていた。


直射日光では無かったものの、

葉っぱの間から差し込む光は、

時折吹くそよ風とともに気持ちよかった。


僕は深呼吸すると、


「ねえ矢野君……?」


と尋ねた。


矢野君が僕の方を見てくれると、


「矢野君は僕の事好き?」


そう尋ねた。


矢野君は思いもしなかった僕の質問に、

逆に今度は矢野君の方が目を白黒させて僕の方を見た。


「ねえ、矢野君は僕の事好き?」


僕は再度矢野君にそう尋ねた。


彼は答えに困ったような顔をすると、


「お前はもしかして俺の事が好きなのか?」


と逆にそう尋ねられた。


僕は小さくフフッと笑うと、


「矢野君はずるいね。


今は僕が質問してるんだよ。


ねえ、矢野君は僕の事好き?」


3度目の質問をした。


矢野君も今度はちゃんと答えてくれた。


「好きと言うか……


ハッキリ言っても良いのか?」


矢野君がそう尋ねたので、

僕はコクリと頷いた。


「正直に言うと、

お前の事は自分の中ではまだ知らない人なんだ。


どうやってもお前の事だけ思い出せない……


思い出せたらもっと違った答えが出せたのかもしれないけど、

俺にとってお前は本当に行きずりに助けてもらった

親切な人……と言う感覚しかない……」


まあ、矢野君に僕の記憶がないので、

そう言われる事はなんとなく分かっていた。


でも実際に彼の口から事実を聞くのは

想像よりも辛いものがあった。


それでも僕は、平常心を装って、


「じゃあ、咲耶さんの事は?


彼の事はどう思っているの?


前の様に変わらずに愛してる?」


そう尋ねると、矢野君は両手で顔を覆い被せた。


そして口に手を持っていくと、

真剣な顔つきをして、


「愛してる……、


咲耶は俺の半身だ。


この気持ちは何があっても永遠に変わらない!」


と言った後続けて、


「今朝までは……そう思っていた」


と付け足した。


「そう思っていた? どう言う意味?」


矢野君の答えは、

僕の想像とは違った。


僕は矢野君は咲耶さんの事を愛していると断言すると思っていた。


それが


“愛してると思っていた”?


僕は戸惑った様にして矢野君を見た。


「なあ、俺はお前とどれ位仲が良かったんだ?


いろんな事が話せる仲だったのか?


お前をあの泉に連れて行ったと言う事は、

よっぽどお前の事を信頼していた証拠だよな?


俺は何か咲耶との事をお前に言わなかったのか?」


縋る様にして僕の事を見た。


僕はそんな矢野君をただ黙ったままで見ていた。


「俺な、あれから少しずつ記憶が戻って来てるんだ。


でも未だ断片的で……


色々とピースをつなげていくと、

今の俺の状況とは辻褄が合わないんだ!」


僕は矢野君を見ると、


「でも僕の事は思い出してないんでしょう?」


と尋ねた。


矢野君は目を伏せると、


「スマン……」


と一言言った。


「ねえ、謎解きだよ。


どうして僕の事だけ思い出せないんだと思う?」


そう尋ねると、矢野君は頭を捻っていた。


「僕の事だけ思い出せないって事はさ、

きっと理由があるんだよ……


そうだね…… 例えば……」


「例えば?」


矢野君が僕の言葉に聞き入った。


「例えば、僕が矢野君の信頼を裏切ったとか……


大喧嘩したとか……


本当は矢野君は僕の事が大嫌いで、

思い出したくもないくらいに憎んでいるとか……」


僕がそう言うと、矢野君は僕を真剣な眼差しで見つめると、


「今のお前を見ると、

絶対お前の事が嫌いで忘れている訳ではないと思う。


少なくとも、お前を憎んでいたとかは絶対ないはずだ」


「フフ〜ン…… 何故絶対って言い切れるの?


現に矢野君は僕だけ思い出してないんだよ?


僕に対するトラウマがあるからでしょ?」


そう言うと、矢野君は僕の手を取って、


「それだけは断じて無い!


ほら、もしかすると、


お前だけ思い出せないのはトラウマとかではなく、


本当はお前の事を愛しすぎて、

お前を失いたく無い恐怖から、

お前の事を忘れてるって事もあるかも……」


そう言いかけて、僕と矢野君はお互い驚いて見つめあった。



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