第33話 王都へ

 初めてアンジェリクに麦の穂を見せてくれた時、父は言った。


『アンジェリク、これは宝石よりもずっと価値のあるものなんだよ』


 小さかったアンジェリクには、その時はまだ、よくわからなかった。

 きらきらした母の髪飾りのほうがいいもののように思えた。


『こうして立派な麦に育つまでには、たくさんの手間がかかっている。たくさんの汗が流されている。苦労して作ってくれたものだ。尊い食料だ。人は食べなくては生きていけない。命をつなぐのは、この小さな麦穂なんだよ』


 そんな言葉から父の領主教育は始まった。


 広大な公爵領の、全ての民の暮らしを守るために、学ばなけれなならないことは多かった。

 どんな時も、父はアンジェリクの疑問を大事にした。

 なぜ、と聞くたびに、その理由を教えてくれたり、時には自分で考えるように促したりしながら、領主として人々のために働けよう導いてくれた。


 全部、父から教わったのだ。全部……。


 ガタガタと震える身体を無理に押さえ、アンジェリクは顔を上げた。


 行かなくては……。


 叔父のダニオに公爵家の権限を渡してはいけない。

 小さな領地さえ満足に治められず、領民を苦しめている叔父に、アンジェリクの民を渡してはいけない。


 自分の民だ。自分が守るはずだった民なのだ。

 今はブールの領主セルジュ・ボルテールの妻だが、それがモンタン公爵領の人々を見捨てる理由にはならない。


 フランシーヌとクロードが立派な領主に育つまで、アンジェリクが公爵領を守らなくては……。


「馬車を……」

「いけません、奥様!」

「セロー夫人……、支度を手伝って」

「嫌です」

 

 嫌です、と繰り返してセロー夫人は顔を伏せた。

 涙がぱたぱた床に落ちる。もう一度、嫌ですと繰り返した声は涙で聞き取れなかった。


「ポリーヌ」

 

 ビクリと震えた幼い少女を不憫に思う。

 こんなことを頼むのは酷だ。それでも……。


「アンジェリク、その身体でブールの街道を馬車で走るのは、無理だ」

「セルジュ……」

「ラッセに飛んでもらおう」

「だめよ」


 ラッセは今、サリと交代で卵を抱いている。


「ラッセがどんなに速く飛べても、王都まで行ってすぐに帰れるかはわからないのよ。その間、サリはどうなるの? サリが疲れてしまったら、卵はどうなるの?」

「ラッセなら、一日あれば王都まで往復できる。きみを送り届けた後、ラッセはすぐに帰らせる」


 自分で帰れる。朝から夕方までだ、とセルジュは言った。

 ラッセにとっては疲労もそこまで大きくないはずだと。


 それでも、万が一ラッセが戻れなかったらと思うと、不安だった。


「ラッセと……、サリに会ってから、決めさせて」


 ドラゴン厩舎に行くと、何かを察知したかのようにラッセが立ち上がっていた。

 卵はサリが抱いている。その近くにはブランカがいた。


「ラッセ、王都まで飛んでほしい」


 セルジュが言うと、ラッセはグルルと鼻を鳴らした。


「サリ、一人で大丈夫か?」

「卵……、抱いていられる?」


 セルジュとアンジェリクの言葉がわかるかのように、サリが頭を上下に動かした。

 ブランカがサリのお腹を鼻でつついた。

 サリがゆっくり卵からどいて、ブランカと替わる。


「昨日から、たまにこうやってサリの真似をしたがるんです。なかなか役に立ってるようですよ」


 エサの肉を運んできたエリクが笑って言った。エリクたちは、まだフクロウ便のことを知らない。


「エリク、これから王都までラッセで飛ぶ。サリと卵を頼めるな」

「何かありましたか」

「アンジェリクが、王都に急用だ。ラッセは先に帰すつもりだが、僕とアンジェリクはしばらく戻れない。詳しいことはエミールに聞いてくれ」


 着替えてくるので鞍の準備を頼むと行って厩舎を出る。


「ブランカが役に立つそうだ。アンジェリク、ラッセで行っていいね?」

「ええ」


 ドラゴンに乗るのは初めてだ。

 正直、少し怖いけれど、悪路を馬車で行くより、身重のアンジェリクにははるかに安全であることはわかる。

 それに、セルジュと一緒だから大丈夫だ。


 ドラゴンで王都に飛ぶと聞いたセロー夫人は、まだいやいやをしていたが、ポリーヌが進んで支度を手伝ってくれた。

 乗馬服の上にセルジュのライディングコートを着込み、毛布を重ねて厩舎に向かった。


 お願い、とラッセの背を叩いて鞍の上に乗った。

 セルジュに抱かれる形で場所を整え、革紐で各所を固定する。


 アンジェリクのために姿勢を低くしていたラッセが立ち上がる。

 高い。

 

 厩舎を出ると、すぐにラッセは翼を広げた。


 気づいた時には空の高みにいた。

 冷気が頬を打つ。


 セルジュとともに、アンジェリクは一路王都へと向かった。

 

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