第19話 愛のお肉

 馬車を降り、とぼとぼと城に戻ったアンジェリクは、夫人用のクローゼットに置いてある小さなチェストに手紙をしまった。

 ドレスが減ってすっきりした衣装掛けに掛かるひらひらのナイトドレスに目を留め、その道の教育係ブリアン夫人を思い浮かべた。

 彼女に会いたいと思う日が来るとは想像もしていなかった。


 興味がないことをおざなりにするのはアンジェリクの悪い癖だ。

 学園で起きた事件についてもそうだったし、ブリアン夫人の話だってもっとよく聞いておけばよかった。

 手紙だって、もらって初めて、そのよさに気づく。


 自分は頭でっかちなばかりで、心に潤いがないのだと思った。


 今朝、出かける前にセルジュが言った言葉を思い出すと、心がざわざわし始めた。


『好きにしたらいい』

『きみのやることに間違いはない。僕から言うことは、何もないよ』


 同じ言葉を、以前エルネストからも言われた。

 ひどく投げやりな調子で。

 まるでアンジェリクを突き放すように。


 エルネストの言い方とは違うけれど、似たようなことをアンジェリクはよく言われる。

 屋敷の者たちや領民たちは言うまでもなく、学園の友人たちやシャルロット、妹たちや、父でさえ、アンジェリクのすることや考えに異を唱えることはないのだ。

 アンジェリクの思う通りにすればいいと言う。


『アンジェリクは頭がいい』

『働き者でよく気が付く』

『知恵が回る』

『仕事が早くて、的確だ』

 

 父の右腕として成果を上げ、一目置かれ始めた頃、アンジェリクは、どこか人を見下すところが、自分にはあるのではないかと不安になった。

 能率や合理性ばかりを優先して、無駄なものを切り捨てすぎているのではないかと。

 

 無駄の一つも許せないような考え方は優しくない。

 よくないことだと思い、気を付けていた。


 なのに、いつの間にかまた、自分がつまらないと思うこと、重要ではないと思うことを後回しにしていた。


 ほかの人にとっては大事なことかもしれないのに。


 靴に釘を入れられたことも、服にインクを付けられたことも。

 ブリアン夫人が一生懸命教えてくれた、夜の夫婦の営みについても。

 ただ元気だと一言知らせるだけの手紙も。 


 大事なことだ。

 ブリアン夫人が教えてくれたことは、セルジュとアンジェリクにとって、領地の運営と同じくらい大事なことだった。


 なのにアンジェリクはちゃんと向き合うこともしないで、仕事で疲れたからといって勝手に寝てしまっていた。


「どうしよう……」


 城には相談できる人がいない。

 男性に話せることではないし、女性は今のところセロー夫人しかいない。

 セロー夫人は優しくてとても話しやすい人だし、ほかのことなら迷わず相談しただろう。

 けれど、夫を亡くして寂しい思いをしている人に、聞くことではないと思った。


 しゅんとうなだれて歩いていると、厩舎から戻ってきたセルジュが「どうしたの?」と駆け寄ってきた。


「アンジェリク、どこか怪我でもしたの?」

「怪我? いいえ。大丈夫よ?」

「じゃあ、何か悪いものでも食べた?」


 もう一度「いいえ」と首を振る。


「どうして?」

「きみが元気がないなんて、初めてだから」


 アンジェリクはつい苦笑してしまった。

 

(私って、どれだけ強いと思われてるのかしら?)


 けれど、セルジュは眉を寄せてアンジェリクを覗き込んできた。

 とても心配そうに。


「本当に、どこか辛いところはない?」


 毎日たくさん働いても、ぐっすり眠れば元気になるアンジェリクを、セルジュはいつも頼もしく思っていたという。

 けれど、さすがに無理をさせすぎたと、アンジェリクの肩を抱き寄せて髪を撫でた。


「一度、ゆっくり休んで」


 優しく言われて、気持ちが安らいだ。


「なんでもないの。ちょっと考え事をしてただけ」

「お腹が痛いわけでも、ないんだね?」

「ええ」


 よかった、と言ったセルジュはにこりと笑って、アンジェリクを見下ろした。

 青い目がきらきらしている。やっぱり美形だわと思う。


「アンジェリクのために、今日はいいものを用意したんだ。きっと元気が出るよ」

「いいもの? 何?」

「とてもいいもの。おいで」


 セルジュに手を引かれて食堂に入った。

 くんと鼻が勝手に動いた。


 ああ、いい匂い……。

 香ばしくてジューシーで……。


「この匂いは……」

「きみの大好きなものだ」

「お肉! お肉なの?」


 料理人のドニと執事兼給仕係兼御者にもなったエミールが、セルジュに負けないくらいにこにこしながらアンジェリクを待っていた。


「ヴィニョアのモンタン農場に行くって言ってたから、エミールに言って肉を買ってきてもらったんだ」

「でも、お金が……」

「そのくらいはなんとかなる。今まで食べさせてやれなくて、ごめん」


 こつんとアンジェリクの額に、セルジュが額をくっつけた。

 長い睫毛をそっと伏せる。


「きみに愛想を尽かされても、当然だ」

「えっ? 私、別に……」

「ドラゴンにばかり肉を食べさせて、妻であるきみにはパンとスープしか出せなかった」

「セルジュ、そんなこと……」


 だけどね、とセルジュは続ける。


「言い訳をするようだけど、サリとラッセにあげている肉は硬くて人間には食べられないんだ。このあたりでディナーに出せるような肉を扱う店はないし……。それも、僕が領地をほったらかしにしてたせいなんだけど……」


 ドラゴンに夢中で領主の務めをないがしろにしていた。

 そのせいでアンジェリクに肉を食べさせてやれずに、本当に悪かったとセルジュは謝った。


「セルジュ……」


 アンジェリクの目からポロリと涙が零れた。

 セルジュが慌てる。

 かがみこんできた夫に、アンジェリクはぎゅっとしがみついた。


(嫌われたわけじゃなかったのね……)


「アンジェリク、泣くほど嬉しかったの?」

「ええ」


 アンジェリクは精いっぱい大きく頷いた。

 ドニとエミールが顔を見合わせて何かコソコソ言っていた。肉がどうとかと……。


「やはり、肉でしたか」

「肉でしたな」


 そんなやり取りが聞こえた。

 セルジュがそっと涙を拭ってくれる。


「アンジェリク、ふがいない夫でごめんね」

「私こそ、自分の言いたいことばっかり言って、セルジュの気持ちを考えられなくて、ごめんなさい……」


 領地のことにばかり夢中になっていた。

 セルジュがドラゴンにばかり夢中になっていると責める資格はない。


 夫婦になったのに、相手をないがしろにするという意味では、アンジェリクのほうが悪い。

 セルジュはいつも、アンジェリクを大切にしようとしてくれていたのに。

 アンジェリクが怒ってからは、アンジェリクに負けないくらい、領地の運営にも一生懸命になっていたのに。


「アンジェリク……」


 セルジュが優しくアンジェリクを抱きしめる。


「きみのやっていることは正しいよ。何も意見を言う隙がないくらい、すばらしい」

『きみのやることに間違いはない。僕から言うことは、何もないよ』


「これからも、きみの思う通りに、いろんなことをやってみてほしい」

『好きにしたらいい』


「きみを信頼している。僕の妻になってくれて、ありがとう」


 ありがとう、アンジェリク。

 セルジュは優しく繰り返し、香ばしく焼いた厚い肉の前にアンジェリクを座らせた。

 背後からつむじにキスを落とし、「愛しているよ」と囁く。


「愛しているよ、アンジェリク。たくさん食べて元気を出して。頼もしくて可愛い、僕の大切な奥さん」



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