第17話 小さな溝

 決して快適とは言えない道を馬車で遠出し、帰るとその日の視察で見聞きした内容を書面にまとめ、夜はセルジュと会議をする。

 アンジェリクは毎日クタクタになるまで働いた。

 連日、寝落ちである。


 四日目か五日目の朝、目を覚ますとベッドにセルジュの姿がなかった。

 きっとドラゴンのところへ行ったのだろうと考え、アンジェリクは特に気にしなかった。


「おはよう。ずいぶん早起きね」


 朝食の席でセルジュに言うと、隈のできた顔でうらめしそうにため息を吐かれた。


「アンジェリク。生殺しという言葉を知っているかい?」

「なんだか新鮮な食べ物を思い浮かべるわ」

「全然、違う!」


 寝不足でキレるくらいなら、もっとゆっくり寝ていればいいのにと思う。


 執事兼給仕係のエミールに「新婚なので仕方ありませんが、ほどほどにしないとお身体が持ちませんよ」と咎められ、セルジュは鬼のような形相でギロッとエミールを睨んだ。


 にこやかな表情の多いセルジュにしては珍しいことだ。

 朝は機嫌が悪いのか?

 低血圧か? 

 やはり肉が足りないのではないか? 

 相変わらずパンとスープだけの朝食を口に運びながら、アンジェリクは真剣に考えた。


 やはり肉を食べなくては。


 二週間ほどで一通り領地を回り終えた。

 土地ごとに、これなら育つのではないかと思う作物を選んで、種を配る準備に入る。最初は試しに蒔いてみるだけのつもりだったので、持ち込んだ種だけでは全然足りそうになかった。


 一度、ヴィニョアに行ってモンタン公爵家の農場から種を分けてもらおう。

 それから……。


 人手はあるのに畑が足りない地区では開墾を進めたい。

 開墾に手が回らないのは、それに従事すべき労働力が外に流れてしまうからだろう。

 一家の働き手は、開墾より先に出稼ぎでもなんでもして金を稼ぎ、家族を養わなくてはならない。出稼ぎに出るのと同等の賃金を得られるようにすれば、労働力は確保できるのではないか。


 種を買うにも、開墾する人々に手当てを出すにも、先立つものは一つ。


 お金だ。


 お金が必要だ。

 いい流れができてくれば、経済は勝手に回り始める。最初に投入するお金が、今は必要だと考えた。


「セルジュ、私、ヴィニョアに行きたいんだけど」


 数日前から図書室の住人になり、夜もカウチで寝ているセルジュに声をかけた。


「やっと視察が一段落したのに?」


 カウチに寝たままセルジュが聞いた。

 きっと、今日あたりはドラゴンと過ごしたいのだろうなと思った。


「もし忙しかったら、エミールを貸してくれる? そしたら、一人で行ってくるわ」


 アンジェリクは馬車を操ることができないので、誰かに御者の代わりをしてもらわねばならなかった。


 乗馬もだが、馬車の御し方も習わないと、ここで暮らすのは難しい。

 時間ができたら早々に教えてもらおうと考える。

 

「セルジュはドラゴンたちの世話があるでしょ?」

「ヴィニョアで、何をするつもり?」

「種を買いに行きたいの。あと、いらないものを売ってこようかと思って」

「いらないもの?」


 青い目がアンジェリクを見る。

 慎重に、次の言葉を選んだ。セルジュのプライドを傷つけてはいけない。


「ここに来る時に持ってきた、無駄にたくさんあるドレスを処分したいの」

「ドレスを……」


 セルジュはカウチから起き上がった。


「アンジェリク」 

「ドレスには流行があるの。ここで着る機会がないまま価値が失われるくらいなら、誰かに着てもらったほうがいいでしょ」


 今なら、最新流行のものばかりだ。

 アンジェリクは背が高いので、買う人に合わせてサイズの調整もしやすい。

 王都からの中古ドレスを扱うヴィニョアの店でも、アンジェリクのドレスほどのものはそうそう手に入らないだろう。

 きっと喜ばれるはずだ。


 それらのことを丁寧に説明した。

 セルジュは黙って聞いていた。


 ドレスを売ったお金で、種を買い、開墾をする人々への報奨金を賄うつもりだった。

 アンジェリクの考えはきっとセルジュもわかっている。


 これは投資だ。

 ここで使うお金は、将来何倍にもなって領地と伯爵家を潤す。

 着る機会のないドレスをクローゼットのこやしにしておくよりも、後になってアンジェリク自身にも恩恵をもたらす。犠牲などではない。


 どうか、おかしなプライドを盾に反対しないでほしい。


 アンジェリクの心配をよそに、セルジュはあっさり頷いた。


「好きにするといい」


 賢い人で良かったと思う。

 同時に、どこか距離を感じた気がして、アンジェリクは心配になった。


「セルジュ?」

「きみのやることに間違いはない。僕から言うことは、何もないよ」

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