人生最良の日は(「『星と花』に寄せて」完結編)
春の花が一番好きだと言うから、春に結婚式を挙げることにした。
二人で決めたこの日がようやく訪れたのだ。頭を下げて息を呑み祈るように殊勝な気持ちで待ち続けた日々はなんとも感慨深い時間だった。
午前中に軽く朝食を摂ってから、支度を整えて出発した。玄関を出て話すことは、段取りの確認や来てくれる人たちの反応の予想ばかりだ。甘い言葉など口にするのはさすがに照れくさい。気恥ずかしい雰囲気になることを避けて、まるで日常と変わらないように装いつつ普段より丁寧に会話を続けた。和希は確かめるように何度か俺の顔を見た。目が合うたびに時が止まるようであった。空は何の幸運だか隈なく快晴だった。俺はこの景色を撮っておくことに決めた。空だけ写そうとスマートフォンを構えたが、相応しい場所が中々見つからなかった。試行錯誤するうちに迎えのタクシーが見えた。和希の提案で、式場の前で二人並んで撮ってもらうことにした。会場へほぼ同時に到着した彼の兄が快く引き受けてくれた。スマートフォンのカメラの方を向いて和希と並んで立つと様々な考えが頭の中を駆け巡った。
外は少し肌寒かった。冷たくてほどよく張り詰めた空気が俺たちのハレの日を神聖なものにするのだ。本当に、あらゆることが、清らかで、光に満ちて、無類で、厳粛だ。
だんだんと鼓動が高鳴り、身体が固くなって手足をうまく動かせない。表情がぎこちなくなっているのが分かった。誰と話しても言葉がうまく出てこなくて、しどろもどろになってしまう。緊張を隠せなくてかっこ悪い。しかし今日は取り乱してもきっと理解してもらえるだろう。急にすごく照れくさくなったり、虚な不安に駆られたりして、全然落ち着くことができない。
会場には招待客が集まってきているようであったが、和希と俺はスタッフに連れられて控室へ通された。二人でスタッフに挨拶をしてから、支度を整えるために別々の部屋へ入った。一人になった途端、心に浮かぶことの観察そして感嘆に自分の意識が自然と集中したのを感じ取った。
昨年、互いの両親と兄弟に、一緒に住んでいるのはただのルームメイトではなく恋人なのだと告げることに決めた。家族に話した後、友人たちにも明かした。かなり驚かれたが、幸いにもみんな温かく自分たちの関係を受け入れてくれた。長い間難関だと考えていた最初の困難を無事に突破できたことが、和希と俺にとってどんなにありがたかったことか、いくら言葉を尽くしても伝えきれないだろう。以来周りからの扱いは変わった。中には勘づいていた人もいるようであったが。関係を公にできたことで、様々な場面で曖昧に濁したりごまかしたりする必要がなくなった。とても気楽になれた。解放された心の軽さは予想以上だった。やがて、自分たちは何も我慢する必要などないのだという結論に至った。
そして二人で、受け入れてくれた人たちを呼んで式を挙げることに決めた。男性同士だから、現在では法律の下で配偶者になることはできないけれど、周りの人に俺たちの関係がどういう特別なものなのか知ってもらえたら満足なのだ。困難も障壁もたくさんあって、何度も悩んだり方針転換したりしたが、二人で一つ一つ紐を結んでいって、とうとう結婚式まで辿り着いた。
儀式が始まる。深呼吸して合図を待った。直前に言葉は交わさなかった。扉が開いて、中から柔らかい風が吹いた。二人とも新郎だから、一緒に入場することになっている。赤いカーペットが敷かれたチャペルの中央をゆっくり進む。十字架と祭壇が視界の真ん中に構えている。両脇の煉瓦色のベンチが白を基調とした花とリボンで飾り付けられていて、起立した招待客が全員こちらを向いている。シャッターの白い光が降ってくる。和希の白いタキシードの足元が目に入る。どんな表情をしているのか気になる。気が付けば自分自身がとてつもなく緊張している。祭壇の前の立ち位置に着いた。
讃美歌の斉唱、聖書朗読と祈祷が形式的に行われた。非日常的な所作によって和希との結婚が仕上がっていくのかと思うと天に昇るような高揚感があった。
誓約のときがやってきた。男性同士用にアレンジされた問いかけに対して、取り決めの通り和希から答え、続いて俺が答えた(招待客は、この順番がくじ引きで決まったことを全員知っているだろう)。彼は俺と結婚してくれるのだと自分という存在の全てで理解した。感極まった。人生には純粋な全き幸福というものが存在するのだと知った。今、自分は完全に充足している。運命の祝福を感じる。俺の人生はここで一つの完成を見せたのだ。おそらく和希の人生もそうなのだろう。身体の一番奥から一滴の涙が溢れ出てきた。
ぎこちなくお互いの左手の薬指に指輪を嵌めた。それからそっとキスをした。
世界は調和し、愛は満ちた。和希は誰よりも美しい。
祝福してくれる人たちが気楽に過ごせるように、儀式の後は披露宴ではなくシンプルな食事会ということにした。段取りなどなく、ただおいしいものを味わってくれたらよいということに二人で決めたのだ。あらかじめそう周知しておいた。定番のコース料理が振舞われる予定だ。
しかし驚いたことに、友人たちがサプライズでの余興をしてもよいかと打診してきた。当然承諾した。彼らは三人で、定番の、しかし練習したであろうマジックを披露してくれた。黄色のフェルトのボールが瞬間移動して帽子の下から現れたり、スカーフの色が次々と変化したり、ハートのエースのトランプが空中浮遊の後赤いハート型のクッションに変わったりした。それは最後、
「慎也、和希さん、結婚おめでとう! これは自分たちからの気持ちです」
という祝福の言葉と共にプレゼントしてもらった。せっかくだから、会が終わるまで二人で順番に抱えていた。心の底から嬉しかった。
親戚や友人たちが一人一人御酌をしに来てくれた。その度に二人で頭を下げた。終わりの頃には酔った人たちからキスコールが上がって、赤面しながら応えた。
親戚への挨拶まで全て終えて、帰路に就く頃には日没も過ぎて夜になっていた。春の星は憧れの残滓のように細かく空に撒かれていた。動き回っていたせいか、朝感じた冷えはほとんど感じなかった。たくさんの祝福の言葉と美しい光景を胸に帰ってきた。二人きりになると緊張感が抜けた。身体が相当疲れている。荷物を簡単に片付けると、ソファーでだらりとしてしまった。きつく巻かれたオルゴールのネジが自由になった途端反対向きに回っていくように、目まぐるしい今日の一日が少しずつ頭の中に浮かんでくる。
浮かんでくる記憶と昨晩感じたプレッシャーを比べて、思わず
「無事終わって良かった」
と口から零れ落ちた。和希が返事をする。
「本当になあ」
少し語尾を伸ばしてから、続けて、
「なあ慎也」
と何か言うことをためらっているので、彼の方を向いて尋ねた。
「何だい?」
「何か……すごく、幸せだ」
「幸せだね。これからずっと、この幸せだけは続くんだ」
あのとき大学で声をかけて本当に良かった。ほんの少しの恥ずかしさを堪えて知り合いになり、そのまま進んでいった結果ここまで来られたのだから、人生というのは何があるか分からないものだ。不思議で、難しくて、ときに慈悲深い。
今日が人生最良の日であると言われても全く驚かない。しかしできれば最良の日は未来にあるのだと信じたい。贅沢だと自分でも思う。これだけの幸せを味わって、満足していないわけがない。だが俺は希望を持っていきたい。いつか来るかもしれない最良のときを信じて、日々を歩んでいきたいのだ。
結婚はゴールではないとよく言われる。式ではなく、これからの日々が本番なのだ。和希にはできる限り幸せになってもらいたいし、俺自身もそうでありたい。これまでと同じように互いに努力して関係と生活を維持していかなければならないと思う。だが心配などないと今日確信した。和希となら一生尊重し合い愛し合っていける。祭壇の前で分かった。彼と生きていく未来がはっきり見えたのだ。だから安心している。和希と一緒なら、何も恐れることなどない。
だからこうして二人で身体を寄せ合って、黙って同じ方向を向き、こんなに心穏やかにいられるのだ。誓いは固く、永遠だ。
了
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