第5話/巣立ちの日⑤

 他のクラスメイトを追いかけるように駆け込んだ教室は、高揚した騒がしさに包まれていた。卒業式が終わった以上、残すはホームルームのみである。高校生活、最後のホームルームだ。


 担任の小畑おばた教諭は、まだ講堂から戻っていないようだった。何か準備でもしているのか、はたまたクラスメイトへ語らいの時間を与えているのか。最近は試験やら面接やらで、全員が教室に揃うことは絶えて久しい。最後に与えられた貴重な時間を大切にしよう。


「詩織!」


 俺が呼びかけたのは、小澤詩織おざわしおり。紅茶色の髪を緩やかにウェーブさせた前下まえさがりボブが、けだるげな印象を放っている。着崩した制服と相まってだらしなく見えそうなものだが、詩織の場合は違う。猫のような大きな瞳と引き締まった顎のラインの高貴さが、粗雑なレイヤーと絶妙なバランスで共存している。そして、屈託のない笑顔。流行に敏感で、ファッションや美容、そして音楽に詳しい。だが、そこに敷居の高さを感じさせない。誰にでも気軽に話しかけるし、誰とでも打ち解ける。攻守両立のコミュニケーションお化けと言っていい。我がクラスが誇る、最強ムードメーカーなのだ。


 所謂いわゆる、スクールカーストで言うと最上位なのだが、詩織はそこから敢えて降りてきた。一年生の時に犯した失敗が未だに尾を引いている。しかし、詩織はその失敗を悪く捉えてはいない。むしろ、良かったとさえ思っている節がある。汚点を受け入れた自分を卑屈だとは思っていない。汚れたものを取り込んだからこそ、清くいられるのだと言外に語っている。だからこそ、あれだけ心の底から笑えるのだ。


「やばばばばば!」

 相好そうごうを崩したまま、椅子の背もたれに器用に腰掛けていた詩織が振り向いた。


「『ば』の回数が多いな。何がそんなにヤバいんだ?」


「退場の時の投げキッス! ありゃあ、痺れたよ!」


「ただのファンサービスファンサだ」


「爽哉らしいね。そこにシビれる、憧れるぅ!」


「ボタン……」

 小さな呟きがれ聞こえてくる。詩織の陰からひょっこり顔を見せたのは、自席に姿勢よく収まっていた本八幡香奈もとやわたかなだった。今も二人で話していたのであろう、詩織の幼馴染であり、親友である。ミディアムの黒髪にシャギーを入れて、軽く内側にカールさせてある。分けた前髪から覗かせる狭い額が愛らしい。香奈は身長こそ中学生のようだが、立てば芍薬しゃくやく、座れば牡丹、歩く姿は百合の花、を地でいっている。それは家庭環境に裏打ちされたものだろう。父親は地元の大手健康器具メーカー、『ウェルネスエストグループ』の経営者で、薬局や福祉施設などを手広く運営している。この高齢者社会にあって実績を伸ばし続けている実業家だ。グループのロゴマークを街中でよく見かけるが、その度に香奈の顔を思い出す。


 香奈の父、健太さんとは旧知の仲である。たまに電話が掛かってきて、一緒にご飯を食べに行く。あれは一年ほど前だったかな。健太さんの会社の手伝いをしたのだ。それからというもの、なにかにつけて誘ってくれる。健太さんの話は面白い。実年齢に反して若く、挑戦的だ。若輩の俺の話を引き出してくれる。さえぎらずに聞いてくれる。そしてポツリと、面白いことか、心に響くことのどちらかを言ってくれる。人生の先輩であり、歳の離れたお兄さんのような存在だ。


 だからなのか、俺は香奈のことを妹のように感じている。香奈も俺に気を許してくれているのだろう。普段は猫を被った才女だが、気心が知れた仲間の前では本性を現す。社長令嬢たらんとする抑圧の裏返しかもしれないが、本来の気性は過分に荒々しい。最初こそ戸惑ったものの、他の人には見せない本当の姿をあらわにしてくれるのは素直に嬉しいものだ。そんな二面性のある妖しさが香奈の魅力であると言ってもいい。


「もうボタンを二つも取られたのね……」

 俺の袖のほつれた糸を見ながら、冷たく香奈が囁いた。


「あっ! ホントだ! やばばばば!」

 袖口を覗き込んだ詩織の腕が、素早く虚空を舞う。


「もーらいっ!」

 次の瞬間には、右袖のボタンが無くなっていた。


「お前なぁ……。せめて、ください、くらい言えよ」


「ください」

 悪びれる様子なく、詩織は言い放った。


「おい……こらっ……」

 香奈のドスの利いた声が響いた。少し巻き舌が入っている。これは怒っている証拠だ。


「ごめんごめん、つい、ね……」

 詩織は俺でなく、香奈のほうへ向きなおって謝った。


「勝手に取らないで!」

 いつから俺のボタンの去就が香奈への許可制になったんだ。


「……で?」

 恥ずかしそうにそっぽを向いた香奈は、

「で、私には?」

 その小さな手のひらを広げて、差し出してくる。


「え、あぁ、もらってくれるの?」

 俺は左腕の袖からボタンを毟り取った。香奈の切れ長の瞳をまっすぐに見つめ、ありがとう、と呟いてボタンを手に握らせる。


「こ、こちらこそ……」

 消え入りそうな声で、ありがと、と囁いた。


「お揃いだねっ!」

 静かな余韻をぶち壊すように、詩織の明るい声が響いた。


 この時点で俺の両袖からは、全てのボタンが消えていた。

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