第5話/巣立ちの日⑤
他のクラスメイトを追いかけるように駆け込んだ教室は、高揚した騒がしさに包まれていた。卒業式が終わった以上、残すはホームルームのみである。高校生活、最後のホームルームだ。
担任の
「詩織!」
俺が呼びかけたのは、
「やばばばばば!」
「『ば』の回数が多いな。何がそんなにヤバいんだ?」
「退場の時の投げキッス! ありゃあ、痺れたよ!」
「ただの
「爽哉らしいね。そこにシビれる、憧れるぅ!」
「ボタン……」
小さな呟きが
香奈の父、健太さんとは旧知の仲である。たまに電話が掛かってきて、一緒にご飯を食べに行く。あれは一年ほど前だったかな。健太さんの会社の手伝いをしたのだ。それからというもの、なにかにつけて誘ってくれる。健太さんの話は面白い。実年齢に反して若く、挑戦的だ。若輩の俺の話を引き出してくれる。
だからなのか、俺は香奈のことを妹のように感じている。香奈も俺に気を許してくれているのだろう。普段は猫を被った才女だが、気心が知れた仲間の前では本性を現す。社長令嬢たらんとする抑圧の裏返しかもしれないが、本来の気性は過分に荒々しい。最初こそ戸惑ったものの、他の人には見せない本当の姿を
「もうボタンを二つも取られたのね……」
俺の袖のほつれた糸を見ながら、冷たく香奈が囁いた。
「あっ! ホントだ! やばばばば!」
袖口を覗き込んだ詩織の腕が、素早く虚空を舞う。
「もーらいっ!」
次の瞬間には、右袖のボタンが無くなっていた。
「お前なぁ……。せめて、ください、くらい言えよ」
「ください」
悪びれる様子なく、詩織は言い放った。
「おい……こらっ……」
香奈のドスの利いた声が響いた。少し巻き舌が入っている。これは怒っている証拠だ。
「ごめんごめん、つい、ね……」
詩織は俺でなく、香奈のほうへ向きなおって謝った。
「勝手に取らないで!」
いつから俺のボタンの去就が香奈への許可制になったんだ。
「……で?」
恥ずかしそうにそっぽを向いた香奈は、
「で、私には?」
その小さな手のひらを広げて、差し出してくる。
「え、あぁ、もらってくれるの?」
俺は左腕の袖からボタンを毟り取った。香奈の切れ長の瞳をまっすぐに見つめ、ありがとう、と呟いてボタンを手に握らせる。
「こ、こちらこそ……」
消え入りそうな声で、ありがと、と囁いた。
「お揃いだねっ!」
静かな余韻をぶち壊すように、詩織の明るい声が響いた。
この時点で俺の両袖からは、全てのボタンが消えていた。
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