第3話/巣立ちの日③

「校歌斉唱!」

 他人の感傷なんて置いてけぼりで、進行係のアナウンスが粛々と響き渡る。


 俺は校歌を歌えなかった。歌ってしまうと、感情がせきを切って止まらなくなると思ったからだ。亮介は感情を爆発させるように、音程を外しつつも泣きながら歌っていた。その姿を心から羨ましいと思った。


「卒業生、退場!」


 俺の身体を駆け巡った万感の想いは昇華して、ようやく落ち着いてきた。席を立ちあがると、ゆっくりとした足取りで、退場口へと向かう。在校生が座る席へと差し掛かった時、突然、一年生の女子が立ち上がった。


「あ! あのっ!」


 その大声は退場の音楽もかき消す程だった。つかつかと足早に俺の眼前まで詰め寄ると、紅潮した顔をまっすぐに突き出して、最初以上に大きな声で叫んだ。


爽哉そうや先輩! ボタン……ボタンをください!」


 退場の行進を止めるわけにはいかない。俺は、ブレザーの袖のボタンを引きちぎると、彼女の手に握らせた。周囲からワァと歓声が上がる。


「わ、私も!」

 次々と女生徒が立ち上がる。


「こらっ! 在校生は席を立つな!」

 教師の怒号が響いた。立ち上がった女生徒がオロオロと、教師と俺の顔を交互に見回す。


「卒業生も立ち止まらないように! 行きなさい!」

 俺は立ち上がった女生徒に手をひらひらと振って、ごめんねと口を動かした。そのまま手を口元へあて、サービスのつもりで虚空にキスを投げた。今度は保護者席を含めて、キャーと黄色い嬌声きょうせいが上がる。


「こら! 余計なことはするな!」

 またも怒号が響き渡る。俺は苦笑いしつつ、歩を進めた。


 退場口である玄関からは春の明るい光が差し込んでいる。思わず目を細め、顔をしかめた。


 自分で言うのもなんだが、俺はモテる。なんせ顔がいい。スタイルもいい。街を歩けば、上は老婆から、下は幼児まで、異性はみな振り返る。それに性格もいいと自負しておこう。声をかけられると、邪険にはしない。スマホには顔も覚えていない女性の連絡先が数えきれない程にあふれている。ただのイケメンではない。光るものがあるのだろう。

 幼い頃から、芸能事務所のスカウトが続いているし、テレビで取り上げられたこともある。しかし、俺は芸能の道へ進むつもりはない。そういうと、母はいつも残念そうな顔をするが、現状に満足してしまっていることが一番の原因だろう。敢えて波乱な人生に飛び込もうとは思っていないのだ。


「相変わらず、モテモテだねぇ」

 渡り廊下へと向かう俺に後ろから、にやけた声を掛けてきたのは、千絵だった。


 艶めく濡羽色ぬればいろの髪をうなじの少し上で一本に束ねた、理想的なポニーテールが揺れている。手足はすらりと長く、色白のきめ細やかな肌が髪色との対比でより際立っていた。いつ見ても美しい。後光が差して見える。この十七年間毎日、顔を合わせているが、見飽きるということがない。それは、純粋で素直な彼女が放つ感情の豊かさがそうさせているのだろうと、最近になって気づかされた。


 家が隣同士の幼馴染で、親同士も仲がいい。思春期真っ盛りの中学生の頃は、喧嘩をすることもあった。俺がモテすぎるのが原因で、千絵がたびたび嫉妬していたのだ。しかし、高校に入ってからはその反省を活かしたのか、出しゃばりすぎず、皆が嫌な思いをしないように立ち回ってくれた。そのおかげで、俺は妙なコンプレックスを抱くことなく、清く楽しいハーレム学園生活を満喫することができた。本当に感謝している。

 その恩に応えるためにも一層、受験勉強に勤しんだ。千絵と同じ大学に入るために。大学へ入ったら、ゆっくり二人で楽しいキャンパスライフを過ごそう。そして、卒業したら、すぐに結婚しよう。そんな誓いを立てていた。


「お熱いことで」

 振り返った亮介が、白けた声を向けてくる。


「俺なんてなぁ、寂しい高校生活だったよ……。爽哉のおこぼれに預かれるかと期待してたのに、何もないんだもんなぁ。ホント、期待外れもいいとこだよ」


「お前は打算で俺と付き合ってたのか?」

 ただの売り言葉だとはわかっていた。


「いやいや、そんな事はありゃーせんよ。お前は本当にいい奴だった。祭りみたいに楽しい高校生活だったよ……」

 手で顔を覆った亮介は、かすかに泣いているようだった。


「泣くなよ、大学に入っても、たまには帰ってくるからさ。また遊ぼうぜ」


「あぁ……そうだな。お前とは滅茶苦茶、遊んだからなぁ。上京するなんて、寂しくなるよ……。結局、学園の七不思議を解き明かせなかったのが、心残りだな」


 七不思議の最後の一つ……。


「あった、あった。なんだっけ? 文化祭の時、調べたヤツな。あれはキツかったぜ」

 放課後の屋上で合わせ鏡を、無言で三時間も監視させられたっけ。


「なんだったっけ、な。もう忘れちまったよ。他の七不思議はだいたい、ネタが割れたんだがなぁ。あとは後輩に託すしかない……」


 その時、卒業生の行列をさかのぼるように一人の小柄な少女が前から歩いてきた。皆、物珍しそうに振り返る。生徒会長だ。可愛い。口々に声が上がる。在校生では唯一、胸元に花のコサージュを挿したその少女が、俺の目の前で立ち止まった。

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