第6話 野獣の心



 恋をしたり、仕事を頑張ったり、それから家庭を築いて——そんなことを考えていたはずだったのに、全てがままならなくなった。

 友人と遊ぶ気持ちも薄れ、一人でじっとしていることが増えた。

 いや、違う。

 安齋という男に支配され、一人でいても彼のことしか考えられないのだ。

 それはいい意味のことではない。

 職場に行けば、彼とは必ず顔を合わせなくてはいけないのだ。

 星野からは「安齋と吉田は仲良しになってよかったな」など声をかけられるが、そんなレベルの話ではないのだ。

 安齋との関係性を、職場で相談できるはずもなく。

 ただひたすら秘め事として、自分の中にしまっておくことくらいしかできない。


 ——まさか。男性と関係を持つなんて。


 友人にだって相談できない。

 家族にだってそうだ。

 もう迷路の中に迷い込んだように、日々鬱蒼とした時間を過ごしていたのだった。


 今朝まで虐げられていた躰のあちこちが痛む。

 安齋は、はっきり言って「野獣」だ。

 あれは、人間ではない。

 情事の最中の彼は、まるで獣のように荒々しく、常軌を逸していた。


 吉田の人生で、女性と付き合ったことは二度ほど。

 一度目は高校生時代。

 まだ男女の関係など、よく理解もしない、お遊びみたいなものだった。

 二度目は大学二年の頃。

 相手は二つ上の先輩だ。

 サークルで、吉田のことを可愛がってくれていた彼女は、とても大人で、終始リードしてもらっていたから、自分から率先してことを起こそう、などと考えたこともなかったのだ。

 

 すべて受け身。

 高校は、母親が喜ぶ学校を選んだ。

 大学は、自宅から通える無難なところ。

 市役所に入ったのだって、公務員であれば、皆から「親孝行ね」「いい息子さんだわ」と褒められると思ったからだ。

 平々凡々な人生を送る。

 それが吉田の目標であったというのに、このざまはなんだ?


 昨晩。

 安齋に噛まれた左腕が痛んだ。

 その痛みは、まるで吉田の中で自己主張しているみたいだった。

 離れているのに、彼がそこにいるかの如く。

 

 安齋の視線は鋭く、まるで肉食獣に魅入られた獲物みたいな感覚に陥るのに、何故か胸がざわついて、躰が熱くなるのだった。


「みんな~、ちょっと話があるんですよ」


 そんなある日。

 課長の水野谷が朝のミーティングで説明をした。


「明日から、本庁の監査委員事務局の職員が来ます。我々の仕事内容を見たいそうですよ。正式なものであれば監査委員が来るところですが、今回は、あくまでも簡易的なもの。まあ、上の気まぐれみたいなものです。なので、そう気張ることはないけれども、彼には積極的に協力をして欲しいんです」


 ——監査委員事務局の職員?


 吉田が入職してから、監査委員事務局からの職員派遣は初めての経験だった。

 しかし、星野たちは慣れている様子で「は~い」と返答した。


「大丈夫だよ。吉田。監査するほうもよ、報告書っていうもんがあるからさ。なんか指摘事項は作るんだよ。そう気張るな。別に指摘事項があったって、適当に直しときゃいいんだから。どうせ、正式じゃねーんだろ? ああだこうだは言えねえよ。差し詰め、おれらが目の届かないところにいるから、面白くねーんだよ」


「そうなん、ですか」


 辿々たどたどしい吉田の返答など、いつものことだと星野は続けた。


「いつもの日常業務を淡々とこなしていれば、問題ねえよ」


 星野はそう説明してくれる。


「吉田も仕事に慣れてきたところだし。今回の事務局の対応は吉田にお願いしようかな」


 ふと水野谷の言葉に、吉田は狼狽えた。


「お、おれですか」


「大丈夫だよ。今回、事務局からは、神野じんのくんって優しい人が派遣される予定だから。いいんじゃない? そう年も離れているわけじゃないし。気が合うかもね。たまには本庁職員と交流しておくのもいいことなのだよ」


「——でも」


「もし、自分で対応できないことがあったら、僕のところに来ればいいし。氏家さんでもいいですよ。


「一応、課長補佐だからな」


 最年長者の氏家はにこっと笑みを見せる。


「さて、仕事、仕事。仕事に戻りましょう~」


 水野谷の言葉に、職員たちは業務に戻る。

 不安を隠せない吉田は俯いていた。

 すると、星野が声をかけてくれた。


「ここのところ、お前元気ないじゃん。課長も気にしてくれているんだよ。ま~、いい息抜きだと思いなって」


「は、はい……」


 吉田はため息を吐きながら、安齋の席に視線を向けた。

 今日、彼は遅番だ。


 ——嫌なのに。本当は嫌なのに。逃げ出せないのはどういうことなんだろうか。


 繋がっている間に囁かれる言葉は、彼の本心なのかどうかわからない。


『お前が好きだぞ。吉田』 


 それはあの始まりの夜の言葉と一緒で、なんの感情もこもっていない、無機質な声色だった。


 ——おれのことなんて、好きじゃないんだ。ただ、面白がっているだけ。暇つぶしなんだ。きっと、飽きたら終わるだけなんだ。だから、飽きられるまで……待つの? なに、それ。


 思考回路はめちゃくちゃだ。

 安齋という男の本心など、吉田には伺い知る術はない。

 安齋はいつも表情を作っているようにしか見えない。

 本心からの表情など垣間見たことはないのだ。

 ここでは笑顔が相応。

 ここは困った表情が相応。

 そんな風に、状況を客観的に観察して、意図的に表情を作っているのだということがわかる。

 だから吉田に見せる顔が、本心と連動しているかどうかなんて、吉田にはわからないのだった。


 そう何度も心の中で繰り返す自分は、どういう気持ちなのかなんて、吉田には理解できるはずもなかった。



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