人魚と水槽で踊る

春海水亭

むんとした熱気だけを残して、日はとうの昔に沈んでしまいました。

それでも、夜が奇妙に明るいのは、今日がお祭りの日だからです。

様々な屋台の明かりが地上に輝く星の群れのように、夜を照らします。

人の光が夜をどこへやらと追いやってしまって、

空は暗いのに、地上は昼間のように明るいのです。

薄ぼんやりと明るい夜闇の中で、満月は所在なげにしています。


纏わりつく熱気を振り払うように、仁くんが人混みの中を駆け抜けていきます。

仁くんは田舎から出てきた十二歳の児童学従者で、

朝から夕方は教導院で勉学を学び、夕方から夜まで工場で働いています。

成績が悪いわけではありませんが、特別に良いというわけでもないので、

師恩金を納めるためには、どうしても働かなければなりません。


それでも、お祭りの時だけは工場長が、

仁くんに二千圓にせんえんばかり握らせて「遊んでこい」と言ってくれます。

それで、仁くんは犬のように喜んで人混みの中をはしゃぎ駆けるのです。


大人たちは善くしてくれますが、それでも工場の仕事は大変なものです。

機械の内側に入り込んで、

螺子を締めたり緩めたりするのは子供にしか出来ないからで、

大人は誰も手伝ってはくれないからです。

しかも、子供が中に入ったまま、誰かがうっかり、機械を組み立ててしまうと、

ぐちゅと潰されて死んでしまうし、機械だって駄目になってしまいます。


(毎日がお祭りならば良いのになぁ)

お祭りの時だけは、仕事のことを忘れることが出来ます。

それも、二千圓という大金まで使うことが出来るのです。

仁くんにとって、これ以上とない幸福の日でした。


水果飴すいかあめやーい、水果飴やーい、水果飴やーい」

特徴的なだみ声で売られる水果飴の、涼しげな青色。


「いぇー揚芋あげいもいかがー」

バチバチと小気味の良い音を立て、目の前で揚げられる小丸芋。


「さあ、坊っちゃん嬢ちゃん寄っといで、九運籤くうんじだよ。

 九つの運勢の中から一番良いのが引けたら、

 ぬいぐるみでもぶりき人形でもなんでも持っていって良いよ、

 さぁさぁ楽しいよぉ、寄っといで」

「さあ、旦那方。

 荒らしたての墓から持ってきた埋めたてほやほやの遺品だよ。

 なぁに、黙ってりゃあわかりやせん。

 嫁さんに贈り物の一つもしてやるのが男の甲斐性ってもんだ。

 宝石あるよ、指輪あるよ、金も銀もあるよ、花束あるよ」


少し妖しげな屋台の誘惑もすり抜けて、仁くんが真っ先に向かったのは、

神社の広い境内の隅っこに、ひっそりと立てられている見世物小屋です。

入場料は大人が一千圓、子供が五百圓です。

看板には様々な見世物の名前と姿が書かれています、

遠い国からやって来たという全身が白い獅子。

肉や骨が無くて、中に空気が詰まっているぽよんぽよんと舞台を跳ねる風船女。

腰のあたりから磯巾着いそぎんちゃくみたいに幾本もの腕が生えている磯巾着男。

どれだけおどろおどろしく期待を煽って、

薄暗い芝居小屋の妖しさで誤魔化したとしても、

結局は全身に塗料を塗った動物であったり、

ただただ太っている女性が丈夫な舞台で飛び跳ねるだけだったり、

人形を復数繋ぎ合わせた作りものであったり、

というものに過ぎないというのは子供の仁くんにだってわかります。


それでも、仁くんや、それより大きい大人たちが見世物小屋に足を運ぶのは、

その見世物小屋にたった一人、本物がいるということを知っているからです。


見世物小屋の客席は一つの塊のように、みっしりと人で埋まっていて、

夏の暑さによるものだけではない、むわりとした熱気が有りました。

全ての視線が矢のように舞台を射抜き、

これから出てくるものを決して見逃さないぞ、と殺意にも似た感情があるようです。


「さぁさぁ皆様お待ちかね」

司会者の言葉と共に、

赤い幕に覆われた車輪のついた箱のようなものが舞台の中央に運ばれてきます。

司会者の男よりも高く、芝居小屋の天井よりは低いぐらいの高さで、

畳が四枚ほどの広さがあるようです。


「生まれは北か、南の海か、いいや元は人間だ。

 生まれつき足の無かった少女を医者が不憫に思って、魚の尾っぽを付けたのです!

 ところが手術が上手く行き過ぎて、もう陸の上じゃあ生きられない!

 それを私が買い取って、海の代わりに北から南、陸を運んで、えいこらさ。

 故郷を離れて、次の街、旅から旅する人魚姫。

 さぁさぁ、見逃しちゃあいけませんよ。

 目をそらしちゃあ一生の損になってしまいます!

 本物の人魚!せらの登場です!!」


司会者が言葉巧みに期待を煽り、箱を覆う赤い幕を取り払いました。

それは硝子製の巨大な水槽でした。

隙間なく水が詰まっていて、入ったらひんやりとして気持ちが良さそうです。

いや、外の熱を受けて、じんわりと温かくなってしまったのかもしれません。


しかし、仁くんも他の客もそんなことを気にする余裕はありません。

濡烏の美しい髪が、ぶわっと水中に広がりました。

黒目がちの潤んだ瞳が、こちらに目をやります。

陶磁器のような白い滑らかな肌をした少女が、水槽の中にいました。

仁くんが母親以外の女の乳房というものを見たのは初めてのことです。

やんわりと膨らんでいて、その先端がほんのりと桜色に染まっていました。

腰から下は、鮮やかな銀の鱗に覆われ、一番先に魚の尾がありました。

完璧な美を持つ少女の下半身には人間のものは一切無いのです。

それが、余計に少女を美しく思わせました。


舞台の水槽は、仁くんには世界で一番大きいもののように思われましたが、

それでも人魚が泳ぐには狭いようです。

しかし、微笑みをたたえた人魚の少女は動ける範囲で動き回り、

客に手を振りました。


客も人魚に手を振り返したり、歓声を上げたり、

舞台におひねりを投げたりで忙しそうにしています。


「さぁ、さぁ、

 よろしければ誰か人魚と手を繋いでみたいという方はいらっしゃいませんか」

司会者が客を見回し、煽り立てるような声で言いました。

黒子が高い梯子を用意し、水槽の天井に掛けます。


客の皆が我こそは、と声を上げ、仁くんも負けじと声を張り上げました。

人魚が仁くんを指差しました。

「よしじゃあ、お坊ちゃん。君だ、梯子を伝って天井に上がりなさい」

司会者が客席から仁くんを連れ出して、舞台に上げます。

仁くんは夢見るような心地で梯子を上ります。

先導する黒子が、人一人が通れるぐらいの天井の蓋を開きます。

人魚がそこから手を伸ばします。

しっとりと濡れた、美しく白い手でした。


仁くんはふと、この美しい人魚を引っ張り上げたいような心持ちになりました。

大人ほどではありませんが、日々成長をしていて、だいぶ力がついたはずです。

美しい人魚を水槽から出して、そして――どうしたいのかはわかりません。

それでも、一緒にどこか素敵な場所に行きたいと思いました。


仁くんが人魚の白く美しい手を握りしめます。

それと同時に、強い衝撃が走って、仁くんの身体が天井の穴を潜って、

水槽の中に引きずり込まれてしまいました。


ひんやりとした心地よい感触に全身が包まれます。

それでも、人魚と握った手だけは柔らかく、奇妙に温かいのです。

きゃらきゃらと、人魚が笑っています。

仁くんも笑い返そうとしましたが、

呼吸が出来なくて、空気を求めるのに必死でした。


人魚は、仁くんの唇に口をつけて、ふうと息を吹き込みました。

僅かに漏れた息が泡になって、水面に立ち昇りました。

人魚はそのまま仁くんを抱き寄せ、仁くんはそれに抗いませんでした。

まるで陰陽を描いた二人の胎児のように、二人は水中でくるくると回ります。


「なんで僕を呼んだの」

口づけをしながら、仁くんは言いました。

「一目惚れ」

口づけをしながら、人魚が返します。

ねぇ、私のこと好き。と人魚が尋ねました。

好きだよ、と仁くんが返します。


見世物に予め組み込まれていたかのように、

二人は口づけをしながら、水中で一つの生き物のようにくるくると回りました。

それはまるで踊るようでした。

二人は水の中で幾つものの言葉をかわしました。

言葉にならなかったものは泡になって水面に立ち昇ります。

二人は百の言葉と千の泡を交わしました。


永遠にも思われるような時間でしたが、

終わってしまえば、永遠は一瞬に変わりました。

人魚がゆっくりと水面に上がり、天井から仁くんを出しました。

黒子に引き上げられて、仁くんはずぶ濡れの身体で空気のある世界に戻ります。

人魚が硝子細工の透明な壁面に顔を寄せ、何事かを言いました。

言葉は泡になって、水面に立ち昇り、

聴覚では何を言っているのかわかりませんでした。

ただ、視覚では人魚の口の形が「あいにいくよ」になっていたのが、

仁くんにはわかりました。

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