望月 「6月」はStrawberryMoon.
液晶には「渚」の文字が浮かんでいる。僕の人生で「渚」と言う名の人はあの人しかいない。しかし、この非常用とも言える携帯の番号を渚に教えただろうか?いや、教えたからこそ、この携帯にも渚の電話番号が登録されていて、こうやって液晶に表示される。僕は狼狽えながらも電話を取ることにした。全く理由が分からないけれど。
あんな美しい人から電話がかかってくる・・・勧誘か?ア〇ウェイとかマルチとか。絵を買ってくれとか壺かもしれない。
「はい」僕は電話に出る時は名乗らない。「もしもし」も間抜けっぽくて好きじゃないので「はい」とだけ言う。相手は一瞬息を呑んだようだ。緊張感を孕む声音で訊ねてくる。
「あ、あの、この携帯は安元洋二さんの番号ですか?」聞き覚えのある、やや低めだが女性らしい声が僕の名前を呼ぶ。「はあ、安元ですけど」「あ、渚です!憶えてますか?」忘れるはずがないのだが、縁があるとは思っていない。渚は緊張しながら、僕は警戒しながら電話を続ける。「憶えてるよ。○○中央病院で会ったよね」「良かったぁ・・・」と急に緊張の糸が切れたように甘い声に変わる。甘いと言っても迫力はあるのだが。「メール、読んでないんですか?」と訊かれた。僕は携帯を2台解約したので、そっちに入ったメールは確認のしようが無い。僕は今でもこのことを悔やんでいるのだ。「大事な話」だったであろうことは、この時の電話で分かった。僕がメールを読んでいない、もう読めないと言うことに落胆激しかったからだ。それでも渚は健気であった。「電話しても通じないし、安元さんが”非常用だけど”と教えてくれたこの番号にかけるの、凄く怖かったんですよぉ」と、いやもうなんでこの人が「食い気味」に突っ込んでくるのか理解不能・・・
「どうかしたの?」
「んー、特に無いんですけど、また会えないかなって思って」
「飯でも食いに行く?」
「いいんですかっ?私、日曜日が空いてるんですけど」
「日曜日?うん、昼頃なら空いてるけど」
「じゃ、日曜日で」
「何が食べたい?」
僕は端から奢る気であったので、ここでフランス料理とか懐石と言われたら、謝ってサイゼリアに変更してもらうつもりであった。相手がいくら美しい渚さんでも、財布の事情が許さない。
「あ、私、吉野家の生姜焼き定食でいいですっ!」
「いいよー、待ち合わせはどうする?」
そう言えば、僕は渚の住んでる町を知らない。喫煙所で話したことと言えば、好きなアニメとか、パチンコのエヴァンゲリオンの話。あとは初音ミク。渚は「モンスターハンター」と言うゲームが好きなようなので、その話をずっと聞いたりしていた。とにかく、渚が僕に話しかけてくれるだけで嬉しかったのだ。
「私、○○市なんです。でもそっちまで行きます」
「いや、それだと大変だろ。どこか中間の場所でもいいよ」
「ダメです。安元さんは脚が悪いんだから」
「治ったよ。今はもう仕事をしてるし、元気だよ」
「でも、そっちまで行きたいんです」
渚の住む街は、電車に乗って1時間近くかかるほど遠かった。乗り換えしないと行けないのだ。そんなに遠い街に住む人が、なぜ僕の住む街の病院に入院していたのか分からなかったが、その病院は実は実績のある病院だったことをのちに知った。
当時はまだLINEも無い。連絡手段と言えば、直電かメールであった。そのメールを読みそこなったのは正直痛いが、渚はまだ僕に興味があるらしい。壺かラッセンか、家庭用洗剤かどうかは分からないが、「食事」くらいなら大丈夫だろう。
あ、デートに着ていく服が無い(火の玉ストレート)いや、コレが「デート」なのかも分からないし、あまりオシャレをしていくのも変な話だ。水曜日か木曜日だったので、服を買いに行く時間はあるが、わざわざ服を買っても「1回会ってさようなら」の可能性が高い。僕はクローゼットの中身を全部出して洋服の品定めを始めた。当時住んでいたアパートは狭くて、作り付けのクローゼットだけが収納場所だったのだ。本当に狭いアパートだった。どうにか日曜日に着ていく服を見繕って、洗濯機に放り込んだ。僕は警備員とかトラック運転手みたいな現場仕事が多かったので、アイロンがけするような服は持っていない。コレを書いている今でも同じだ。作業服さえあれば事足りる。洗濯を終えたら、皺を丁寧に伸ばしてハンガーにかけて干した。「渚に会う」と言うだけで僕の脳内は混乱を極めた。服は決まった。では、財布にいくら入れて行けばいいのだろう?吉野家で1200円使うとして、僕の交通費と渚の交通費。流石にこれだけ年齢差があれば、経済的負担はこっち持ちがスジであると思った。僕が42歳、渚は21歳。この年齢差が僕を臆病にしていた理由だ。年齢差がきっちり2倍である。渚が産まれた頃には、僕はバイクを乗り回し、実家の親に疎まれながら遊んでいた。僕が峠で膝を路面に擦っていた頃、渚はまだ精子と卵子だった・・・
社長のところで夜勤をしつつ、日曜日を一日千秋の思いで待った。本当に理由なんかどうでも良かった、またあの人に会えると言うだけで世界が輝いて見えたほどだ。あと、社長に3万円借りた。前借はしない主義であるが、流石に2~3万円は財布に入れておきたい。使う予定は無いから、何もなければ借りたお金はそのまま返すつもりだった。社長は金を貸してくれと言った僕をしげしげと見ながら「女か?」と訊いてきた。勘のいいガキは嫌いだよ。僕が頷くと、社長は3万でいいのかとか、車も貸そうかと言いだした。まるで息子に初のカノジョが出来た父親のようである。車は魅力的だった。密室になるから重宝することは、若い頃に経験済みだ。しかし、脚に不安が残り、しかも社長の車は高級車である。今でも大事に乗っている。そろそろ買い替えればいいのにと思う。
先日、工場の休憩室で社長が中古車情報誌を読んでいた。どうせ社有車にするので、予算は青天井である。レクサスぐらいは買えるだろう。僕と暇な営業さんは中古車情報誌を隅々まで読む勢いで候補車を決めて進言した。「しゃちょー、フェラーリのいいのが出てるっ!」「馬鹿野郎、どこの世界に社有車でフェラーリを買う工場があるんだ」(笑)
いや、税務署に突っ込まれないように、営業さんがたまに使えばいいじゃないですか?かっこいいですよ、真っ赤なフェラーリで乗り付けてくる営業さんが「せめて単価を20銭上げてください」って懇願するのは。
そして、社長は今でも古い日産車に乗っている・・・
待ち合わせは日曜日の12:00だった。一応「飯を食う」と言う目的があるので、12:00に待ち合わせて、喫茶店でランチタイムをやり過ごそうと言う計画だ。本当に日曜日の繁華街の飯屋は混雑で、おちおち話も出来ない。そう、ランチタイムの吉野家はさながら戦場なのである。殺気立った店員さんに怒鳴るように「並みに卵っ!」と注文する客もいれば、内気なのか、支払いも出来ずに10分は放置される客もいて、日曜日が来るたびに「先週の死者」の数が「☆マーク」で店内掲示される。その数が偶数か奇数かで、ブックメーカーが大儲けしていたのが平成と言う時代の象徴だ。
待ち合わせ場所は駅の改札前。必ず約束の10分前には行くようにしている。改札の前で忠犬ハチ公の気持ちになっていた。多分、渚と待ち合わせをした男たちはみな、同じ気持ちになっただろう。コレは間違いであったが、少なくとも僕は忠犬ハチ公だった。待ち合わせの時間まであと数分。僕は「待ち合わせに遅れてきて平気な顔の女性」は大嫌いで、必ず振ってきたが、その日は1時間でも2時間でも待つ気であった。ハチ公だから当たり前だ。ポケットの携帯がブルっと震えた。待ち合わせ時間直前に鳴る電話・・・嫌な予感しかしない。「今日はごめんっ!」と言う文面が鮮やかに脳裏に浮かぶ。そうだよね、こんなおっさんに会いたいだなんて、きっと食あたりか、高熱でもあったんだね・・・
僕はメールを開いた。
「ベックスにおります (^^)」
うわっ、可愛い過ぎる。10分前に着いた僕よりも前に到着して、コーヒーを飲みながら待っているなんて、この待ち合わせは人生で最高の待ち合わせだ。もうどうすればいいのか分からないくらい可愛い。僕は改札正面にある「ベックス」に早足で飛び込んだ。奥の方になんだか美しい人がいて、相変わらず近くに人はいない。きっとなんちゃらフィールドを使っているのだろう。僕と目があった瞬間、渚もハチ公の目になって手を振ってきた。「こっち、こっちっ!」いやもうソレは分かっておりますが、先に飲み物を買わせてくれないかな?僕はレジに並んで、アイスコーヒーを注文した。ストローは使わない主義だ。トレイに乗せるまでも無く、グラスを掴んで渚のいる席に向かう。手前の方にいた若い男がびっくりしたように僕を見る。「まさか、奥にいるあの野獣と待ち合わせか?」と言う感じであろう。本当に渚は普通の人間とはDNAレベルで「違う」と思わせる子であった。調べたわけではないけど。
「安元さんは時間通りに来るんですね」当たり前田のクラッカーである。しかも相手がこの人だ、前夜から予約して待てと言われたらそうする。男のうち、80%がそう答えるだろう。「私、結構すっぽかされたり、1時間待ちとかしてるんですよー」とニコニコ笑っている。すごく上機嫌だ。「安元さんはもう通院はしてないんですか?」と訊かれたので、今は鎮痛剤だけを近所の整形外科で処方してもらっていると答えた。僕も渚に訊いてみた「谷口さんはどうなの?」と。まだ喫煙所での面会を除けば初めての逢瀬だ。「渚さん」とは呼べない。「私?あー、知らないんだ。治っちゃえばもう通院もしないでいいんです。あと、安元さんが毎週通院してきていたから良かったぁ」何ででしょう?そう言えばコレは通院時代から疑問だったのだが、木曜日の午後2時なんて約束はしていないのに、喫煙所に行くと必ず渚がいた。
「待ち伏せしてました」(笑)だそうだ。なんだこの可愛い生き物は。
その割には、2か月間何もなかったよねと言いかけて止めた。「メール」を何通も打っていたと聞いていたからだ。きっと、2か月間、渚は話を聞いてくれる人が欲しかったのだろう。会話の端々で「割と冷遇されてる」ような感じだった。渚は「美し過ぎる」のだ。多くの男は彼女に話しかけることすら躊躇うだろう。僕だって、渚から話しかけてこなかったら、接点なんざ無かったわけだから。ベックスで結構話し込んだ。話題は尽きなかった。病気の話は避けたが、それでも様々な「話したい事」が浮かんでくる。僕はブログをやっていて・・・と言えば、渚は「どこでですか?携帯からも読めますか?」と訊いてくる。多少迷った。僕のブログは「男性向け」のブログで、簡単に説明すれば「エロ話」であふれているし、当時はまだ「おっぱい」の画像くらいなら使えたので、割とおっぱいブログだった。規制さえなければ「女性のアソコ」の写真だって使いかねない勢いだった。僕は(過去の記事をすぐに整理しよう)と心に誓いながらブログのURLを教えた。迂闊だった。渚はその場で僕のブログを閲覧し始めたのだ。(終わった・・・)と、某ベジタブルみたいな名前のヤサイ人の絶望に共感が持てた。渚はしばらくは真剣に読んでいたが、ふと顔を上げて僕を見た。コレはこの場で罵倒される流れだ。ある意味「ご褒美」と言えなくも無いが、二度と会えないことになりそうだ。「あの・・・コレを安元さんが?」すいませんすいませんっ!「やだー、面白い。私もブログをやってみようかな?」
お腹が空いてきたので、ベックスを出て食事することにした。僕は迷いのない足取りで、何度も通った吉野家に向かった。渚は僕の半歩後ろをついてくる。さぁ、ここが吉野家だよ、女の子一人じゃ入りにくいよねっ!
生姜焼き定食を目の前にして、渚は不機嫌さ全開である。会話が弾んでいる時や、ふと気づくと僕を見ている渚は美しいが、不機嫌になると真っ黒な「負のオーラ」を吹き出すクトゥルフ神よりも怖かった。女性との食事と言うことで、僕は並盛に「卵」は付けなかった。女性の前でずるずるとすすり込む勇気がある男がいるなら名乗り上げて欲しい。なるべく上品に並盛を食べた。ペースは渚に合わせていたが、渚は半分残した。「もういいの?」と訊くと頷いたので、レジに向かった。この店舗はレジで支払う形式なのだ。財布から千円札を出そうとしたら、渚は500円玉を押し付けてきた。「奢りじゃなくていいから」だそうだ。コレは「逆フラグ」だ・・・
そしてサッサと店を出てしまった。後を追う僕。立ち止まる渚。
「今度はもっとちゃんとしたところでご飯食べたい」
渚はあの電話で「吉野家の生姜焼き定食が食べたい」と言った。ソレでいいのと僕は念を押したはずだ。しかし、吉野家に連れて行ったらクトゥルフ神に変わった。
女心が分からない・・・
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