音のない世界で、君の歌だけが聴こえる。
柚城佳歩
1
突然の事だった。
世界から音が消えたのは。
それは何の前触れもなく、まるで電気のスイッチを切り替えたかのように、唐突に静寂が訪れた。
その日私はリビングのソファで寛ぎながら、土曜の夕方のテレビ番組を観ていた。
内容が後半に差し掛かったところで、急にぷっつりと音がしなくなった。
初めはテレビの故障かと思った。
見たところでわかるわけではなかったけれど、近付いて、コードや配線を確認してみる。
抜けているところはない。
次に音量ボタンを確認してみる。
消音にもなっていない。
そこであれ、と気付いた。
周りがやけに静かなのだ。
試しに声を出してみる。
聞こえない。
もう一度、今度は少し大きく声を出してみる。
それでも聞こえない。
わあーーーっ、と目一杯に叫んでみても、やっぱり何も聞こえないまま。
パニックになった私はテレビの音量を最大まで上げた。
表示では確かに最大値になっている。
だけどわずかな音すら感じ取れない。
おかしい。どうしよう。何が起きてるの?
そこへ騒ぎを聞いてか、母が駆け付けてきた。
眉を
私のただならない様子に、母も異変を感じたのだろう。不満げだった表情はすぐに心配するものに変わり、私が落ち着くまでずっと背中を優しく撫で続けてくれていた。
突発性難聴。病院でそう診断された。
直接的な原因は不明。前兆のようなものも特に思い当たる事はない。早めの治療で多くの人は症状が改善するらしいけれど、私の場合は一向に回復の兆しが感じられなかった。
弱り目に祟り目ではないけれど、どうしてよくない事というのは次々と重なってしまうのだろう。
幼い頃から絵を描くのが好きで、念願だった美大に入れたまではよかった。
でもそれも三年前。四年生になった私は、卒業後の進路、具体的には就職について行動しなければならなくなっていた。
友人たちは、出版社や広告のデザイン事務所などに既に内定をもらっている。
在学中に絵が評価されて画家の道に進む人やイラストレーターとしての仕事を始めている人だっている。
どこかの孤島に私だけ取り残されたようで、余計に気持ちばかりが焦っていく。
絵だけを描いて生活したいだなんて事は言わない。それでも少しでも絵と携わる仕事がしたいと思うのは贅沢なんだろうか。
いくつものデザイン事務所に自分の絵を売り込みに行った。
返事は大体どこも「うちとは系統が違う」「そういう絵は既に契約している作家がいる」だった。
事務員や編集者でならどうかと聞いてくれるところもあったけれど、自分では届かないものを毎日間近で見せつけられるのはきっと心が耐えられない。
勿体ない事しているよなという気持ちと、ご厚意に対して申し訳ないとも思いながら、正直な気持ちを話してお断りさせてもらった。
絵は趣味として描けばいいと半ば無理矢理割り切って普通の会社の面接にも行った。でももしこのまま働き始めたとして、充分に趣味の時間を取れるのかなどと考えてしまい、受け答えに身が入らず当然落ちた。
それでも何かしなければと頑張っていたのに。
こんなタイミングで難聴になるなんて。
毎日溜め息とともにやる気まで吐き出している気分になる。
手持ち無沙汰にスマホを掴んだ時、短く震えてメッセージの着信を知らせた。
差出人は
〈新しい曲出来た!今度のライブでも歌う予定。
家が隣同士で物心つく前からの幼馴染みでもあるこの男は、耳が聞こえなくなったと伝えた後も変わらず接してくる。
変に気遣われないのはこちらとしても気楽でありがたい。それはいいのだけれど、朔楽は高校生の頃から続けている音楽活動で新曲を作る度、対バンライブへの出演が決まる度に私を誘った。
朔楽の歌も声も嫌いじゃない。というよりも好きだった。だから今までタイミングが合えばライブにも足を運んだし、今日みたいに曲が出来たから聞きに来てと言われれば家にも行った。
だけど今は。音のない世界にいる私に歌を聞かせてどうしろと言うのか。
〈ごめん、課題の絵が全然仕上がってないからまた今度。ライブ楽しんでね〉
絵の課題があるのは事実だ。けれどそれは既に仕上げ段階に入っていて、切羽詰まっているわけでもない。
前までの私だったら〈今から行く〉と返信してすぐに隣のインターホンを押しただろう。以前までは。
今の私が行ってもどうしようもないじゃん……。
結局私は適当な嘘で朔楽を遠ざける事にしたのだった。
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