ピアノのある終着駅

緋糸 椎

第1話 ピアノが泣いています

──ツメが甘いんだよ!──


 これから僕を待っているのは、こんな上司の叱責の言葉だ。見込みのある商談が潰れたのだ。調律に行っているピアノ教師から「電子ピアノしか持っていない生徒がいる」との情報を得たのが数ヶ月前、それ以来慎重にセールスをかけてきた。ところがいざ契約という段になって「知り合いからピアノを譲ってもらうことになりました」と断られたのだった。見上げれば雲一つない青空が広がるというのに、うつむいた僕の目には灰色のアスファルトしか映らない。


 僕の名前は矢島隼人。川渡楽器という小さな楽器店に、ピアノ調律師として勤めている。こういった小さな楽器店でピアノ調律師に求められるのは、まず第一にピアノの販売だ。

 いつだったか、楽器メーカーの決起集会でピアノ販売台数全国一位に輝いた営業マンのいった言葉が思い出された。


──営業は、断られた時からがスタートです──


 あの営業マンなら、この状況をどう乗り切るのだろう、と想像してみる。しかし、不向きな営業に嫌気がさしている僕に、表彰台で熱く語る気合根性論者の思考などわかるはずもない。

 このまま会社に戻っても小言が待っているだけだ。少しサボろうか……そう思った時、携帯が鳴った。上司の重山課長からだ。スルーしたかったが、今取らないと、後々もっとややこしいことになる。

「……もしもし」

「おう矢島、午後の時間空いてたよな」

「ええ、午後はフリーです」

「じゃあ、川渡中央駅に行ってくれるか。あそこのグランドピアノ、調律して欲しいって依頼が来たんだ」

「了解しました」


 川渡中央駅は県庁所在地にあるJR港堤駅から伸びる川渡高速鉄道の終着駅である。この駅のコンコースには、誰でも自由に弾くことのできるグランドピアノが置かれている。

 近未来的な川渡中央駅の改札を出ると、セメントの埃っぽい匂いが立ち込めていた。この辺りはまだ建設中の建物が多く、周囲あちこちで工事を行っていたのだ。そしてしばらく歩いていると、セメントの匂いに混ざって突然すえた匂いが鼻をついた。見ると、どこか寂しげな目つきをしたホームレスの男性がそこに座り込んでいた。僕はまるで何も見ていないかのようにそこを過ぎ去り、そして駅長室の扉を開いた。

 駅長の話によれば、昨晩終電から降りてきた酔っぱらい女性が、いきなり派手な曲を弾き出し、

「このピアノめちゃくちゃじゃないの! すぐに調律して!」

 と叫びまくったという。それで、急遽調律を依頼することになったらしい。

「私にはどこが悪いのか、よくわからないんですけど」といいながら、駅長は僕をピアノのところに案内し、そして駅長室に戻っていった。

 僕はピアノの前に座ってみる。正面に「Wanderer」という煤けた金文字ロゴマークが見える。きいたことのないブランド名だが、ドイツ製だろうか。ポロポロと試弾してみたところ、かなり状態はひどかった。

 鍵盤を押したら戻ってこないところが数箇所。鍵盤を離しても音が伸びっぱなしで止まらないところが数箇所。僕たちの用語でスティックと呼ばれる症状だ。早速外装を外そうとするが、イタズラ防止のためか、至る所がむやみやたらネジ止めされている。

(これは面倒だな……)

 僕は無造作に取り付けられたそれらのネジを一つ一つ外していく。そして全てのネジが外れて通常の状態になるまで15分もかかってしまった。さらにそこから外装を外し、スティックを修繕する。グランドピアノは外さなけれならない部品が多い。結局、調律を始めるまでに一時間を要した。

(まあいいか。すぐには会社に帰りたくないし……)

 スティックを直してからチューニングメーターで基準音Aのピッチを確認する。435ヘルツしかない。国際標準ピッチである440ヘルツよりかなり低い。


 やれやれ……


 僕はチューニングハンマーをチューニングピンに刺して音を合わせようとした。ところが、どういうわけか音が合わない。その時、重山課長の叱責の言葉が頭をよぎる。


──ツメが甘いんだよ!──


 甘い? こっちは汗水垂らして精一杯やってるんだよ、あんたがそうやってデスクでふんぞりかえっている間もな! 僕は頭の中で課長に楯突く。だんだん腹が立ってきた。くそっ、あの客も客だ。買うって言ってたくせに、ふざけんな!

 色々な鬱憤が音の合わない苛立ちと重なり、つい打鍵が荒くなる。

 バンッ、バンッ、バンッ!

 と、その時だった。

「ピアノが……泣いていますよ」

 振り向くと、声の主は先程見かけたホームレスの男だった。世捨人のような風貌には似つかわしくない、しおらしい言葉づかいだった。それでも僕はちょっと面倒くさく思いながらこたえた。

「うるさかったらすみません。でも、これは私の仕事ですので……」

 暗にうるさいなら他所へ行けばいいだろう、という含みを持たせたつもりだったが、男は首を左右に振った。

「いえ、大きな音が迷惑だというわけではありません。ただ、あまり乱暴に鍵盤を叩いたらピアノが可哀想です」

 僕はピアノを見た。たしかに泣いているように見えた。作業を止めて呆然とピアノを続ける僕に、ホームレス男は話しつづける。

「もしかして仕事で嫌なことがあったんじゃないですか? ……そうですね、何か失敗して上司に叱られるのが心配だとか」

 僕は驚いた。

「どうしてそれがわかったんですか? もしかして、あなたは占い師?」

 すると男は苦笑して手刀をゆらした。「今の私の楽しみと言えば、ここで人間観察をすることくらいですから。そんなことを続けていると、その人の背景が見えてくるんです。まあ、私の勝手な思い込みかもしれませんが……ああ、すみません。お仕事の邪魔してしまいましたね、どうぞ続けて下さい」

 男に促されて僕は再び調律を再開した。すると、先ほどの苦労が嘘のように、次々に音が合っていく。しかもグーンと伸びのある良い音だ。まるで魔法にでもかけられたような気分だった。

「もう、泣いてないみたいですよ」

 と僕が言うと、男は少し嬉しそうな顔をした。そんな僕らを通りすがりの人たちがチラチラと見る。

「最近、特に鬱憤を抱えている人が多いんです」

 男はまた話しだす。「そして、はけ口はないかといつも探し求めています。でもそのはけ口となるのは、いつも反撃も出来ないような弱い存在です」

「悲しき人間の性ですね……」

「さっきあなたが話していた駅長さん、かなりイライラしていたでしょう。きっと昨日の夜、夫婦喧嘩でコテンパンにやられたんですよ」

「そうなんですか? そんな風には見えませんでしたが……」

 そうしているところに、話題の的である駅長がやって来た。

「ちょっとあんた、あの看板見える?〝寝そべり、座り込み禁止〟って書いてるでしょ? すぐに出て行って!」

 男への駅長の口調は失礼極まりない。腹が立った僕はムキになって反論した。

「あの……おことばですけど、この人寝そべっても座り込んでもいませんよ」

「はあ? なんなんです、あなた。こっちもねえ、テナントさんから苦情が来て困ってるんですよ。不衛生な男に店の前をウロウロされたんじゃ商売にならないって!」

「そんな……」

 そう言おうとする僕の肩に手を置き、男は首を横に振った。

「駅長さん、すぐに行きますからそんなに怒らないで下さい。……調律師さん、それじゃあこのピアノのこと、よろしく頼みますよ」

 まるで娘を嫁に出すように僕にピアノを託すと、男はたどたどしい足取りで静かに去って行った。


第1話 おわり

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