動かぬ者
「中野くん、お待ちなさいって……」
中野翼の細い腕を掴んだ山本恵美は辺りを漂い始めた煙の臭いに顔を上げた。同様に、動きを止めた翼も旧校舎の廊下を見渡す。
異様な静けさだった。暗い雲に覆われた空。窓は全て閉じられている。
花火後のゴミ溜めのような臭いに口を閉じた二人は、音の消えた旧校舎の寒気に肩を縮めた。時が流れを止めたかの如く動かない空気。取り残され忘れ去られた世界を漂う静寂。
バンッ、という破裂音が耳元で鳴り響いた。窓ガラスが一斉に叩き割られたかのような激しい振動。飛び上がった二人は慌てて周囲を見渡した。だが、世界を取り巻く静寂に変わりはない。
幻嗅、幻聴……?
中野翼は自分の頭を手のひらで叩いた。もしや、軽いPTSDを発症してしまっているのでは無かろうか、と自分自身に猜疑心を抱く少年。山本恵美は太い首を振りながらオロオロと寒々しい廊下を見渡し続けた。
ううぅという低い音が静寂と重なり合う。カーテン越しに息を絞り出したかのような声。焼け焦げたスニーカのゴムの刺激臭。窓を割る破裂音が遠くに響くと、無数の足音が廊下を揺らした。
ひっと息を呑んだ恵美の頬が震える。壁に身を寄せた翼は、痛みに意識を集中させようと前髪を強く引っ張った。
「あっあぁ……」
廊下の向こうに視線を送った恵美の呼吸がくっと止まる。硬直する眼筋。固定される視点。蠢く黒い何か。
影だった。
黒い暗い影の群れ。
影だと、恵美は咄嗟に思った。
手足を持った影。ゆっくりと前に進む影。所々に赤い線の走る影。
「ぁああああぁああぁ……」
息が震えた。咽頭で押し潰された老廃物が口腔の振動に刻まれる。潰れ刻まれた吐息は耳障りな音となって静寂を震わせた。
前髪を引っ張ったまま後ずさる少年。確かな理性を与えてくれる痛みが欲しいと手首の肉に噛み付いた翼は、或いは眼前に広がる異様な光景は強いショックにより生み出された幻覚の類などでは無く、図らずも垣間見ることとなってしまった現実世界の一端をなのでは無かろうかと、疑念への疑念に思考を寄せていった。
幽霊の存在を信じていない少年は理性的であろうとした。湧き上がる恐怖の感情に翼は自らの呼吸の乱れが止められなかった。
「せ、先生、行きましょう……」
翼は、動かぬ時間に取り残されてしまったかのように動きを止めた山本恵美の腕を引っ張った。耳障りな音を発し続ける中年女性。恵美の視点は蠢く黒い影を見つめたままに固定されている。
あの赤い線は何だろう?
惚けたようにポカンと口を開けたまま、恵美は浅く息を吐いた。のそりと動く黒い影。服を噛んだ女性の叫びを連想させるくぐもった低音。開いては閉じる赤い光。
「先生! 行きましょうって!」
強く腕を引っ張られた恵美は、フラフラと太った体を左右に揺らしながら翼の後に続いて走り出した。動かない思考。何度か躓きながら階段を駆け上がった恵美は3階の廊下を見渡した。ひと気のない旧校舎を漂う凍えた空気。煙の臭い。呻き声に重なる悲鳴。
ドサッ、と何かが落ちる音がした。振り返った恵美の定まらない視点を下に向ける。弱々しく手足を動かす影。人の形をした黒い塊。滲み出る赤い線。
尻餅を付いて絶叫した恵美は、丸い腕を振り回すようにして廊下を這うと、フラフラと立ち上がって駆け出した。力の入らない手足。旧校舎を転がり抜けた恵美は、本校舎の茶色いリノリウムの廊下に足を躓かせる。暫し呆然と、突然現れた焼死体が幻覚か否かという疑問に思考を向けていた翼は、走り去る太った女性教員の存在に気が付かなかった。
ごめんなさい……ごめんなさい……。
蠢く黒い影。厄災の炎に焼かれた生徒たちの成れ果て。
恐怖に震える全身。血走る眼球。歯をガチガチと鳴らした恵美は何度も躓き転びながらも足を前に動かし続けた。逃げるように、求めるように、前に腕を振る中年女性。
階段前で立ち止まった恵美は、階下から此方を見上げる生徒たちの虚な瞳を見た。感情の無い唇。声の無い存在の視線。顔や衣服を煤けさせた生徒たちがふっと歩き出すと、悲鳴を上げた恵美は4階に向かって階段を駆け上った。
ごめんなさい……ごめんなさい……。
声にならない謝罪を繰り返した恵美は4階の廊下に膝から崩れ落ちると、蹲ったままに手足を動かして前に進んだ。
厄災は自分が引き起こしたものなのだろうか……。
恐怖に呑まれた心の片隅に生まれる思考。
自分という存在が周囲を不幸にしているのだろうか……。
祖父、父、姉、親友、生徒たち。自らを取り巻く者たちの死の記憶。
自分という存在が死を呼び寄せていたのだろうか……。
廊下を這う中年女性。徐々に恐怖の感情が薄れていった恵美は、手足の動きを止めるとゆっくりと後ろに振り返った。
「ごめんなさい……」
無表情の生徒たち。まだ幼なげな男子生徒の唇。煤に覆われた女生徒の白い肌。
「ごめんなさい……」
涙を流す中年女性。彼女を取り囲む生徒たちの成れ果て。
煤けた生徒たちの虚な瞳を見上げた恵美は諦めたように目を瞑った。
臼田勝郎は言葉を失った。
足は動きを止め、口は声を忘れ、目は色を失う。黒と薄い黒のモノトーン。反響する壁の無い暗闇。歩く先の消えた未来。
暗闇を漂う不快臭だけが生々しい。吐瀉物と嘔吐物の臭いに呼び戻される現実の感覚。嘆きといたみの臭い。死の幸を拒絶する本能の臭い。
幾日の時が過ぎたであろうか。勝郎は終わりの見えない闇に永遠の時を感じた。黒と黒の世界。救われない涙の音。底の無い感情。動かぬ者。
「どうなってんだよっ、おいっ!」
闇を切り裂くような老人の怒鳴り声が体育館の空気を揺らした。大場浩二の怒りに蠢く者たちが一瞬動きを止める。驚いて顔を上げた奥田恭子は、出入り口を遮るようにして立ち竦むカツラを被った大男に向かって叫び声を上げた。
「臼田先生! 生徒が、生徒たちが! は、早く生徒たちを吐かせて!」
「何だってんだ! どうなってんだよ、チクショウ!」
心は惑おうとも一切の躊躇なく動き出せる老人のそれは職業柄であろうか。勝郎は老人の仕事を愚弄してしまった先ほどの自分に対しての後悔の念に涙を滲ませた。
やっと一歩前に勝郎が足を踏み出そうとした頃、男子生徒を吐かせようと指を伸ばす奥田恭子の横に片膝を付いた浩二はサッと唇を動かした。
「どうなってる、何があった」
「だ、誰ですか、あなた!」
「んなこたぁどうだっていいんだよっ! 何があった!」
「せ、生徒たちが睡眠薬を飲んで、は、早く吐かせてください!」
「睡眠薬だと……?」
「そうです! 早く! 臼田先生、何をやってるんですか! 早く生徒たちを吐かせなさい!」
ゴボッ、とえずく男子生徒。吐瀉物を受け止めるようにして男子生徒を抱き締めた恭子は、深呼吸を繰り返すよう男子生徒に指示すると、すぐ隣で肩を震わせる女生徒の顎に手を回した。
ま、まさか、集団自殺か……?
ショックで思考が止まった老人は、ほんの一瞬動きを止める。はっと自分の胸を力一杯殴った浩二は、ダンッ、ダンッと左足で床を踏み鳴らした。警官時代に柔道をやっていた浩二が気合を入れる際の癖である。
「おい、おめぇ、通報はしてんだろうな」
「救助を要請しています!」
「いつ呼んだ」
「十分ほど前よ! 正確な時間は分からないわ!」
「おせぇじゃねーか、チクショウが!」
恭子が顎に手をかけた女生徒は小刻みな痙攣を繰り返していた。目と唇をギュッと閉じた女生徒の口を何とか開かせようと恭子が叫び声を上げる。だが、女生徒は一向に口を開こうとしない。
恭子を押し退けるようにして女生徒の胸ぐらを掴んだ浩二は、その鳩尾を力一杯殴り付けた。カハッ、と口を開く女生徒。その隙間を押し広げるようにして痩せた指を突き入れる老人。腰を折り曲げた女生徒は床に向かって胃の内容物を吐き出した。
「な、何をしてるの!」
「一刻を争う事態だ! とろとろ動いてんじゃねーぞ!」
刹那の時に睨み合った二人はすぐにそれぞれの動きに戻る。恭子が別の女生徒の顎を掴むと、浩二は携帯を耳に当てた。
何処で何やってんだ、あの野郎……。
元部下の行方を探すように目を細めた浩二は、薄暗闇の奥に向かって鋭い視線を動かした。
ダークブロンドの天使。吉沢由里は泣き叫んだ。声の無い天使の叫び。気が付く人のいない涙。
男子生徒を吐かせようと叫ぶ太田翔吾のすぐ隣で、島原健也は短い髪の女生徒に水を飲ませた。ニッコリと微笑む女生徒。涙を浮かべて嗚咽した健也はギュッと女生徒の体を抱き締める。女生徒の唇に浮かぶ柔らかな光。死を望む者の瞳。吉沢由里の叫びは届かない。
ふっと浮かんでは消える赤い影。救いを求める存在。赤い服の少女。
藤野桜は蠢く者の間を彷徨った。錠剤を掠め取っては口に入れる赤い影。だが、救いは訪れない。激しく鼓動を続ける胸。だが、救いは訪れない。黄色い吐瀉物の中に救いの光を探す少女。だが、救いは訪れない。
膝を折り曲げ、視線を下に向けた少女の細い腕を掴む誰か。虚な瞳を上に向けた藤野桜は、ダークブロンドの天使の瞳に浮かぶ光を見た。
口に入れたものを出しなさい、と警告するダークブロンドの天使。吉沢由里の涙に反射する赤い影。ゆっくりと腰を上げた藤野桜はダークブロンドの天使を見下ろして微笑んだ。
赤い唇。赤いワンピース。藤野桜は既に人に落ちていた。
背の高い少女。不完全な人形。生前の吉沢由里と同じくらいの年齢に落ちた藤野桜は、長い指の先で天使の輝く金髪をそっと撫でると、その白い顎に手を添えた。
生まれ落ちた理由は何か。
救いを求める者の光。嘆き悲しむ者の涙。
何故、この世を彷徨うのか。
赤い服の少女。藤野桜の赤い唇が横に開く。
吉沢由里は唇をキツく結んだ。背の高い少女の腕を振り払うダークブロンドの天使。藤野桜の瞳が冷たい光を放つ。
自らの口に指を押し入れた藤野桜は、まだ飲み込めていなかった錠剤の一つを吐き出した。誰かの唾液に光る白い錠剤。暗闇を照らす道標。スッと腕を伸ばした藤野桜は、吉沢由里の細い首筋に長い指を絡ませると、じわじわとその指の先に力を込めていった。背の高い少女の視線から逃れようと吉沢由里は必死にもがく。だが、少女の長い指は幾重にも織られた絹の糸のように固く動かない。
藤野桜の微笑み。赤く煌めく濡れた唇。薄暗闇に揺れる赤いワンピース。
片腕でダークブロンドの天使を持ち上げた藤野桜は、涙を流し続ける吉沢由里の美しい瞳の奥をうっとりと見つめると、救いの光をその口元に近づけていった。必死に体を揺さぶるダークブロンドの天使。口の中に錠剤を押し込まれた吉沢由里は、腹の底から押し上がってくる不快感の波に喉を震わせながら、えずくような動作を繰り返した。涙と唾液に光る頬。怒りと悲しみの鼓動。
藤野桜は笑った。眩い笑み。虚な瞳。
意味など無いのだ、と悲しそうに笑う赤い服の少女。
一緒に楽になろう。
天使の喉の奥に錠剤を押し込んだ藤野桜は、激しく喉を震わせる吉沢由里のダークブロンドを愛おしそうに撫でると、そっと唇を重ね合わせた。
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