追う者
薄い白髪を後ろに撫で付けた老人。大場浩二は汗にひしゃげた手帳をズボンのポケットから取り出した。雨の無い梅雨空は厚い雲に覆われている。重い空気を運ぶ風はない。
[リンゴ農園児童集団中毒事件]
手帳に殴り書かれたそれは、34年前に市内の農園で起こった事件だった。特定毒物に指定された殺虫剤による中毒事件。TEPPが散布されたリンゴを口にした小学生の児童数十人に呼吸困難等の症状が起こったのだ。
農園の経営者だった宮野弘は集団訴訟の末に土地の権利を売った。祖父の代から続いてきた農園だったそうだ。失意の果てに、宮野弘はこの世を去った。
宮野弘の死から3年後、浩二の親友だった宮野正人もまた自らの命を絶った。入水自殺である。冬の川で、衣服を身につけたまま凍り付いた宮野正人の遺体が発見されたのだ。妻を失い、実家と父を無くし、娘の虐待を疑われた親友の最後は哀れなものだった。
湿気たタバコにライターの火を灯す老人。煙を吐いた浩二は薄暗い曇り空に目を細めた。
青々とした晴れ空に浮かぶ赤い果実の光。友人の父が浮かべる眩い笑顔の輝き。幼き日に親友と見た光景を、浩二は忘れる事が出来ない。
友人の二人の子供。まだ中学生だった娘たち。親を失った姉妹は母方の祖父母の元で暮らす事となった。天真爛漫だった姉と陰気だった妹。対照的に見えた姉妹。
「大場さん、お待たせして申し訳ありません」
肩の広いの男が曇り空の下に立つ老人に頭を下げた。浩二は、かつての部下である山下克也の太い腕を叩く。
「待ってねぇよ。この忙しい時期に、悪かったな」
「いえいえ、大場さんの頼みですから」
「そうかよ、悪ぃな。立ち話もなんだ、入ろうぜ」
道の向かいの喫茶店に親指を向ける老人。コクリと頷いた克也と共に浩二は古びた喫茶の扉を潜った。
「それで、大場さん、何で今さら30年近くも前の事件を?」
薄い白磁のカップから立ち昇る湯気。熱いコーヒーを啜った克也は、目の前の老人に首を傾げた。
「ただの興味本意だ。おめぇさんも気にならなかったかい?」
「ええ、調べてみて少し興味が……。それにしても彼女、本当に可哀想だな。姉が自殺した校舎で、今度は放火事件に巻き込まれてしまうなんて……」
「さて、どうかねぇ」
「それと確かに、彼女の、山本恵美の通っていた小、中学校は、事件の発生率が異様に高かったようですね」
「妙だろ?」
「うーん、妙というほどでは……」
「あ?」
「だって、30年以上も前の話でしょう? 元々この辺は治安が悪かったようですし、それに、事件は彼女と関わりのない場所で全て解決していますよ」
「それが妙なんだよ。治安が悪りぃとこってのはな、本来事件自体が表面化しにくいんだ。それをおめぇ、コイツの周りだけ事件が頻繁発生して表ん出て、そんで全部綺麗に解決しちまうんだぜ。まるでよ、そう、まるで全部作りもんみてぇな……」
「作りもの?」
「そうだ、作りもんだ。全部作られた事件だったんじゃねーかって、おらぁ疑ってんだよ」
「作られた事件って……何の為に」
「さぁな……。いや、多分だが、排除する為じゃねーかって思っちまってる」
「排除?」
「邪魔な奴を排除するために事件を作るんだよ。自分の手ぇ汚さずに嫌な奴排除すんには、そいつを犯罪者にしちまうか、もしくは犯罪に巻き込ませちまうのが一番手っ取り早ぇんだろ」
「……はぁ」
「いや、悪りぃ、ちょっと妄想が過ぎちまってんな。なんかよ、歳取っちまったせぇか、おらぁ最近よ、色々と考え過ぎちまうんだ。どうしようもねぇ社会の理不尽て奴ぁ全部よ、実は、何か大きな存在によって作られた必然みてぇなもんなんじゃねーかって、妄想しちまうんだ……」
白磁のカップがカチャリと音を鳴らす。克也はかつての上司の薄くなった白い頭を寂しそうに見つめた。
「……大場さん、まさか貴方、山本恵美がその大きな存在だとお考えになっているのですか?」
「ああ、そうだったかもしんねぇと思っちまってやがる。……いや、気にすんな、ただの妄想だよ、枯れかけのジジイのな」
「……もしやあの放火事件の黒幕も、彼女だと?」
「どうかねぇ」
「彼女はただの被害者だったと、お考えにはならないのですか?」
「分かんねぇんだよ、それが」
カチリとライターの火を点ける老人。薄暗いカフェに浮かぶ白い煙。浩二はかつて友人宅を訪れた際に見た姉妹の姿を思い出していた。豊かな表情でころころと笑う可愛らしい姉。その妹の瞳の色は何処までも暗かった。何か恨みでも持っているかのように、ジッと虚な瞳を向けてくるその妹に対して、浩二は良い印象を抱かなかった。
老人の口元に揺れる赤い火。かつての上司の次の言葉を待った克也は、ゆっくりと温くなっていくコーヒーの苦味を味わった。
「……あのよ山下、おらぁよ、誰が黒幕かなんて話は正直、昔からどうでもよかったんだ。あの辺で起こった通り魔事件も、暴行事件も、俺の親友がよぉ、自殺しちまった事件も、綺麗に解決すりゃあ、それでよかったんだ。たとえ裏にでっけぇ何かがいたとしてもよ、それを探ろうと思うことなんてなかったのさ。だからよ、今まで誰にもこの事は話さなかったんだ」
「ならば、どうして今になって?」
「違和感の中にな、更に別の違和感が浮かんじまうんだわ。……あのな山下、もしも奴が、あの暗い娘がよぉ、本当に黒幕だってんなら……いや、こんな事言っちまったら、おらぁ刑事として失格だがな、やめちまってる今だから言わせてもらうわ。奴ぁよ、完璧だった。完璧だったんだよ、山下。事件の発生から解決まで、何かに導かれるかのように一本筋で繋がってやがったんだ。被害者の人生も、加害者の人生も、完璧に終わっちまってたんだよ。あれが排除の為だけに作られた事件だったてんなら、震えちまうよ、完璧すぎてな」
「それが本当なら、まるで、神か悪魔の仕業のようですね……。それで、違和感の中の違和感とは?」
「……奴の姉が死んだ事件だきゃ、どうにもな、お粗末過ぎた。いや、結果的には自殺と判断されたんだが、ありゃあ怪し過ぎだ。奴ぁ一緒に屋上にいたんだぜ? 姉が飛び降りるのを目の前で見てたって言うじゃねーか。それまでの完璧な事件とは、あまりにも勝手が違ぇんだよ」
「そうですね。本当に神か悪魔の仕業なら、身内の自殺は自分とは関わりのない場所で行わせるはずですもんね」
「……あれでよ、おらぁ分かんなくなっちまった。あれ以来、宮野恵美、いや、山本恵美の行方も分かんなくなっちまったしな。ただ、頻繁に発生してた筈の事件の数々が、山本恵美の行方と共に鳴りを潜めたのも確かなんだ」
「それは……」
「おらぁ違和感の中に違和感を抱いたまんま、奴の存在を記憶の底に押し沈めちまってた。何たってよ、30年近くも前の話だぜ? お前さんがまだ幼いガキの頃の話だよ。いろんな事件があって、俺も歳ぃ取っちまって、やっと落ち着いた日常が始まったと思やぁ、最悪の放火事件ってよ。しかもその関係者の中に奴の名があんじゃねーか。おらぁ親友の、アイツの顔思い出しちまったよ。忘れんじゃねーぞってよ、チクショウ、何だってんだ」
「大場さん、酷い偶然ですね、それは」
「偶然かねぇ……。まぁ何にしろ、見ちまったもんは仕方がねぇ、ちゃんと調べてやんねぇとなって思ってよ」
「いいですよ、大場さん、僕にも手伝わせてください」
「悪ぃな、山下」
「いえいえ、僕も興味が湧いてしまいました。貴方の元部下としてこのままでは引き下がれませんよ」
「ありがとよ」
「いえいえ……。大場さん、もしかしたら僕たちも、何か分からない大きな存在ってやつのに動かされているのかもしれませんね」
「……かもな」
タバコの火を灰皿に潰す老人。煙の残り香に揺れる影。
立ち上がった二人の男は梅雨の空下に足を踏み出した。
ショートボブの天使。田中愛は走り出した。
梅雨の重たい空気を切る新品の軍手。曇り空に佇む焼け焦げた校舎の黒。青い雑草に覆われた花壇を眺める長い黒髪の女生徒。
花壇の雑草を眺めていた宮野鈴は、こちらに走り寄る天使の気配に気が付くと、ゆっくりとした動作で振り返った。曇り空に光る白い肌。梅雨の空を流れる長い黒髪。わっと飛び付いてきた田中愛を抱き止めた宮野鈴は、花壇の端に天使の体を下ろすと警告の視線を送った。
また人に落ちたらどうするつもりだ、と目を細める長い黒髪の天使。ショートボブの天使はコクコクと首を縦に動かした。
生温い風が校庭を流れる。声の無い駐輪場。黒土の上で鈍い光を放つ雲母の黄金色。寂れた花壇にかつての生徒の夢はない。
軍手を両手にはめるショートボブの天使。花壇の手入れをするのだと田中愛は意気込んだ。
長い黒髪の天使は細い首を振った。花壇の手入れはもう必要ない、と。
必要あるのだ、と落ちていたスコップを手に取るショートボブの天使。生徒たちの為に、教員たちの為に、かつて自分を救った天使の為に、マリーゴールドを植える必要があるのだ、と田中愛は花壇の土を掘り返し始める。
ショートボブの天使。田中愛は疑わなかった。
人の行いを。天使の報いを。自分が与えるものを。
ショートボブの天使。田中愛は信じていた。
人の本質を。天使の存在を。自分が生まれ落ちた理由を。
田中愛の後を追ってF高校に辿り着いた二つの存在。吉沢由里と藤野桜は、既に土塗れの田中愛をジッと見つめる長い黒髪の天使に警戒の視線を送った。
薄い影に煌めく赤い唇。黒い校舎で微笑む存在。宮野鈴の長い黒髪が仄かな梅雨の風に靡いた。
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