求める者
朝が来て昼となり、夜が訪れまた朝が来る。
変えることが出来ない毎日の中で、少しずつ日野龍弥は壊れていった。
「白髪のババアが窓の外にいるんだ」
怯えたように肩を震わせる龍弥の細やかな汗。少年の広く柔らかな肩を撫でるようにして抱きしめた大葉藍香は、龍弥の痩せた頰に鼻先を擦り寄せた。
「大丈夫だよ、龍ちゃん」
二人の部屋は二階にあった。窓の外に人が立つことなどあり得ない。
藍香は気にしなかった。家出少年の中には薬物に手を染めている者も多くいる。龍弥にもその気配があった。だが、藍香には何だって構わない。ただ、暖かな肌と肌を寄せ合う心地良さ。体の繋がりこそが藍香の求める全てなのである。
龍弥は震えていた。宙にぶらりと浮かび上がった彼の体。足場のない寒空。見えない先に目を凝らすことを止めた少年。
繋がりが絶たれた龍弥は孤独だった。いや、彼は元々孤独だった。それは、彼自身が繋がりを求めてこなかったからだ。
龍弥は勘違いしていた。周囲を渦巻いた声に。差し伸べられた無数の手に。幾重にも重なった視線に。繋がりを求めずとも、繋がりを求める者たちが常に龍弥の身近に存在していたのだ。龍弥は自分が孤独でないと勘違いをしていた。
龍弥は気が付いてしまった。自分は孤独であったと。自分が何ものとも繋がっていない孤独な存在であったのだと。
藍香の柔らかな細い指が龍弥の下半身に伸びる。微かに反応する龍弥。快楽。だが、果たして欲望は満たせるとすれ、そこに繋がりはない。
産毛を震わす藍香の囁き。甘い吐息。孤独を知る女が必死に繋がりを求める声。龍弥を求める最後の糸。
違う、と思った。体ではない、と龍弥は初めて悟った。か細く温かく甘い一本の糸は龍弥の求める繋がりではなかった。
夕雲が流れ、声は通り過ぎる。夜が訪れると藍香は繋がりを離した。
「藍香さん、俺も連れてってくれよ」
「だーめ、龍ちゃんはお留守番だよ」
扉が閉まると孤独感に恐怖の影が差す。いつも通りウォークマンの電源を入れる龍弥。だが、光を発しない。龍弥の願いも虚しく、既にその電子機器は世界との繋がりを絶っていた。
部屋に響く自分の呼吸音。静かだった。まるで世界から隔離されたかのように、全ての声から忘れ去られたかのように、部屋は静かだった。
窓の向こうに光はない。毛布を頭から被った龍弥は一人ベットで誰かの声を願った。一人でに光を放つブラウン管の箱も、床を踏み鳴らす誰かも、龍弥の求める声ではない。
バンッと窓ガラスを叩く何かの音を聞いた龍弥はビクリと体を震わせる。暗いガラスの向こうに揺れる白い髪。鋭い一重に固定された三白眼の瞳。孤独と恐怖に耐えきれなくなった少年は脱ぎ捨てられた衣服を手に外に飛び出した。
「誰か……か、母ちゃん……」
透き通る春の夜空。誰の声もない線路沿いの小道。
街灯のない木陰に白い影が佇む。色の落ちた赤い頭巾。背の高いもんぺ姿の老女。白髪の老婆はスッと地面を滑るようにして歩き出した。
「く、来るなよ! あっち行け! 来るな!」
龍弥は走った。声を求めて。救いを求めて。繋がりを求めて。暗い線路沿いの小道を必死に走った。
白髪の天使。新実和子は音もなく歩みを進めた。日野龍弥への報いを完遂する為に。罪に対する罰を終わらせる為に。
痩せた少年の後ろ姿。罪を背負った少年の影。
罰はまだ終わらせるべきでないのかもしれない。少年の行く末は生涯消えぬ炎の内だろう。放火を指示した実行犯である龍弥が、死刑は免れる可能性はあるとて、無期は免れない。死の幸はまだ与えるべきでないのかもしれない。
新実和子はゆっくりと足を動かした。風を動かさない歩行。白い影が夜の道に現れては消える。
或いは、ショートボブの天使ならば、重い罪を背負った少年にすらも許しを与えようと不器用に動くのかもしれない。或いは、丸メガネの天使ならば、罰を与えるべき少年の行く末すらも静かに見守るのかもしれない。
否、白髪の天使は決して人の罪を許しはしない。傍観しはしない。与えられる範囲で与えるべき人に報いを実行する。
かつてのような失敗は許されない。
新実和子は少年の背中を追った。
傲慢。傍若。不遜。人であるにも関わらず神の振る舞いに落ちた少年。自我による同種殺し。種族保存本能を犯す本能。種族繁栄の道から外れた少年の罪。かつての少女に何処か似た少年。
日野龍弥は歩道橋を駆け上がった。点滅する街灯の光。金網の低い橋の上に冷たい夜風が吹き抜ける。
「ああい、あああっ……」
風に飛ばされる龍弥の叫び声。歩道橋の向かいから此方を見つめる鋭い一重。老女の白い髪が橋の上の闇に靡いた。慌てて下に戻ろうと振り返った龍弥は階段下に揺れる白い髪を見る。
「あ、あ、あ……」
金網にしがみ付いて荒い呼吸を繰り返した龍弥の太ももに振動が伝わる。ポケットに手を突っ込んだ龍弥は、画面の割れたスマホを取り出した。龍弥はとっくに自分のスマホを捨てている。誰のものかも、何故ポケットにスマホが入っているのかも分からないままに、龍弥は藁にもすがる思いで光に耳を当てた。
「こんばんは、こちらY市警察署です。先ほどから何度もお電話をされていらっしゃるようですが、いったいどういったご用件に御座いましょうか?」
少しイラついたような男の低い声。夜風に靡く老婆の白い髪を見下ろしながら龍弥は声を震わせた。
「し……あ……」
「どうしましたか? 貴方のお名前は?」
「ひ、日野……龍弥」
「日野龍弥だって?」
男の声色が変わった。割れた画面の向こうが俄かに騒がしくなる。孤独と恐怖を呑み込む緊張と熱気。龍弥は必死にスマホの光に縋り付いた。
「……君、龍弥くん? F高等学校の日野龍弥くんであってるかな?」
「はい……そう、です」
「……龍弥くん、そうか、うん、先ずは無事で何よりです。今、会話は大丈夫なのかな?」
優しげな男性の声。画面の向こう側は緊張の空気に沈黙している。スマホを持ったまま龍弥は首を振った。
「バ、ババアが……」
「龍弥くん?」
「し、白髪のババアが……」
「……落ち着いて、龍弥くん。すぐに助けを向かわせるから、場所を……」
「か、母ちゃんは?」
「……龍弥くん? 君のお母様は今ご自宅で……」
白髪の老女が音もなく一歩足を踏み出すと、龍弥は金網に体をぶつけて金切声を上げた。
「あああ、来るな! 来るな!」
「りゅ、龍弥くん、大丈夫だから落ち着くんだ」
「大丈夫じゃねーよ! 早く何とかしろって!」
龍弥は後ずさるようにして歩道橋の中央に走った。だが、白髪の老婆の視線からは逃げられない。スマホを震わす熱の籠った声。龍弥はその声を無視した。電子機器から響く声も光も、白い影に怯える龍弥の心を癒してはくれなかった。
声の繋がりは龍弥の求めるものではなかったのだ。だが、繋がりを求める想いは増大させた。
母ちゃんに会いたい。
必死になって金網にしがみ付いた龍弥は暗い線路の上に身を投げた。
衝撃と痛み。光のない世界。声にならない呻き声を上げた龍弥は、折れた足を引き摺るようにして敷き詰められた砕石の上を這った。動かない体。光の消えたスマホに手を伸ばす少年。
電話は切れていた。ホームボタンを押した龍弥の目に映る時刻と日付。
[22 :34] [5月17日]
浜田圭太が自殺したのは、ちょうど一年前の今日であった。だが、龍弥はその日付けに何ら違和感を抱かない。
スマホの電源が切れる。音も光もない世界。動かない体に吹く冷たい風。地面に蹲った龍弥は、遠くに鳴る地響きのような摩擦音を微かに聞いた。そこが線路の上であると気が付いた龍弥の顔から血の気が引く。慌てて移動しようとした龍弥の足を掴む白い腕。龍弥は必死に声を荒げた。
「離せ! 離せよ! このクソババア!」
だが白い腕は離れない。春の夜風を切る轟音。闇を呑み込む強い光に怯える少年。
「離せ! 離せ!」
折れた足を掴む白い腕。龍弥の瞳の端に映る白い影。
顔を上げた龍弥は線路と歩道を隔たる鉄柵の向こうに老女の白い髪を見る。冷たい両眼の光。その黒い瞳に映る少年と電車の光。
じゃ、じゃあ、この手は……?
それは男の手だった。まだ幼い少年の手。はっは、と繰り返す荒い呼吸を止めた龍弥は迫り来る強い光に視線を向けた。
「た、助けて……」
最後に助けを求めた少年の声は春の夜空に消える。
千切れた少年の首。その瞳から光が消えた事を確認した白髪の老女は、ゆっくりと夜の道を歩き出した。
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