第二章
導きの天使
背の高い老女。白髪の天使が廊下を歩くと横に避ける生徒たち。
人に認知され難い存在。新実和子の眼光に気が付いた者はいない。だが、生徒たちは無意識にこの白髪の老女を避けた。鋭い一重に灯る冷たい光。高い鷲鼻。キツく結ばれた唇。
無論、認識から遠い老女の容姿を確認出来る者はいない。それにも関わらず、生徒たちは無意識に老女の視線を恐れた。
空気を動かさない歩行。音の無い存在。手を後ろに組んだ新実和子は誰を避ける事もなく、広い校舎を闊歩した。一つの存在が落ちた学校で天使の報いを遂行する為に。
二学期の喧騒。夏の終わりを告げる風。
頭に枯れ葉を絡ませたショートボブの天使。田中愛は背の低い男子生徒を追って校舎裏を歩いていた。男子生徒の手に握られた小麦色の昼食。潰れたロールパンに目を細める田中愛。
校舎裏の錆びた用具入れの前でキョロキョロと辺りを見渡した男子生徒は、サッとしゃがみ込むと、用具入れの裏の隙間に手を伸ばした。
まさか捨てるのでは、と田中愛は腕を振って駆け出した。ショートボブに絡まった枯れ葉が宙を舞うと、消しゴムよりも小さな小石に躓いた田中愛は、男子生徒の後ろにズザッと転がる。
わっと振り返る男子生徒。シャー、という鳴き声。体を起こして顔を上げた田中愛は、男子生徒の驚いたような表情と、ガジガジとロールパンを齧る白い子猫を見た。
「黒猫だ、そっか、もう一匹いたんだ」
微笑む男子生徒。ショートボブの天使の存在を黒猫と認識したらしい男子生徒は、潰れたロールパンの端を千切ると、地面に蹲る田中愛の手元に置いた。
ムッと眉を顰める田中愛。立ち上がって手を振る男子生徒を見上げた田中愛は、男子生徒が立ち去るのを見届けると、ロールパンの切れ端を白い子猫に手渡した。シャー、と毛を逆立てる子猫。無視して立ち上がったショートボブの天使は、子猫に食事を与えていた男子生徒への報いを考えた。
昼休みの校舎に木霊する野太い声。体育祭の近い学校は運動部系の生徒たちの熱気に包まれている。教室で友達と笑い合う柔道部の太田翔吾。文学部の中野翼はイライラと文庫本を開いては閉じた。
校内を巡回していた田中愛は微かな違和感に首を傾げた。
いつも通りの活発な子供たち。だが、昼休みにも関わらず、廊下を歩く生徒の数が少ない。そして、生徒の少ない廊下を見覚えのない大人たちが腕を後ろに組んで歩いている。
生徒を見かけると笑いかけるスーツ姿の大人たち。その瞳に色は無い。不具合に目を凝らす検査員のような、暗い溝の奥を照らすライトのような、仕事の為の瞳の光。
生徒たちは困惑したような眼差しで、教室から大人たちを見つめていた。大人たちが過ぎ去ると、ひそひそと話を始める生徒たち。
部外者に興味が湧かないショートボブの天使。別段気にした様子もなく大人たちの後ろ姿を見送った田中愛は、そのまま、校内の巡回を続けた。天使の仕事に休みは無い。
「えっ? ぼ、僕が転勤って?」
「ほほ、吉野先生、ただの異動ですよ。何も遠くに引っ越せなどと言っているのではないですわ」
「で、ですが、来月って……」
「あらあら、それは随分と急ですわね」
指導教諭の山本恵美は、まるまると肥えた腕を上げて濃い口紅の光る口元を押さえた。乙女が笑うような仕草。脂肪に埋まった金の指輪がキラリと煌めくと、もっさりと肩に溢れるパーマ掛かった茶髪がゆらゆらと揺れた。
吉野清也は困惑したように唇を歪めると、手元の書類と、中年の指導教員の太った体を交互に見つめた。教員の辞令は生徒たちに噂が広まらぬよう突然行われると言われている。だが、これはあまりにも急だった。そして今は二学期である。通常ではあり得ない辞令の形に、清也は、胸の奥を圧迫されるような不安感に囚われた。
「あ、あ、あの……どうしてこんな時期に?」
「さぁ、どうしてでしょうね」
「い、いま、二学期ですよ? い、異動は春に行われるものでは?」
「私どもは未来ある子供達を教育する立場にあります。当然、例外的人事異動もございますわ」
「こ、子供たちが動揺するのでは、ありませんか? こ、こんな異動、おかしいですよ」
「あら、これは県の教育委員会で定められた正式な辞令ですことよ? 吉野先生、当然ですが、生徒たちに動揺が広まらないよう、内密に、迅速に、行動をお願いしますわね?」
弛んだ丸い頬をプルプルと震わせた恵美は、目を細めてニッコリと微笑むと、猫を追い払うような仕草で肥えた腕を前に振った。
書類を胸の前に押さえる清也。肩を落とした清也はガクリと俯くと、トボトボと狭い進路指導室を出ていった。清也と入れ違うようにして進路指導室に足を踏み入れる若い女性教員。廊下で腕を組む背の高い白髪の老女。
浜田圭太の家族に訪れた厄災。彼の両親が相次いで自殺すると、沈黙を続けてきたマスコミが動き出した。
飛び込み自殺の真相は──。
教育現場の実態は──。
隠蔽されたイジメとは──。
とある都合によりイジメの問題を揉み消さねばならぬ彼ら。教育委員会の汚職と怠慢が槍玉に上がり出すと、先ずは荒れ狂うPTA役員と生徒たちの親族を抑える為に、F高校の教育改革の一環として人事異動による教師の入れ替えが行われる事となった。
前例の無い辞令である。当然、異議を唱える者たちは存在した。辞令に賛成した者たちでさえ、胸の奥に微かな違和感を抱いているくらいだった。イジメによる自殺など、彼らにとっては日常茶飯事である。それが、いったい何故、こんな事態になってしまったのか。
SNSの狂気は日増しに広がっていく。ネット社会の炎上は鎮静化を待つしかない。
イジメは無かった。彼らは、それを押し通すより他に道は無いと覚悟を決めている。ただ、拭いきれない違和感。まるで何か大きな力に導かれているかのような。神か、悪魔の囁きに動かされているかのような。
白髪の老婆の存在に違和感を持ったものはいない。
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