天使の送り
浜田豊子は奇声を上げた。振り向く者のいない街。雲に覆われた夏の夜。
群がる蠅が日を追って増える。悲しみを呑み込む怒り。安穏な夢と現実の壁の崩壊。浜田康平の不倫が判明すると、豊子の消費者金融での借金が明るみとなった。
男子高校生の飛び込み自殺というセンセーショナルな出来事に関心を寄せていた人々は、彼の家族の歪さに同情と好奇の視線を送った。未来ある子供の死。マスコミが動かぬのならば自らが動かねば、といった義憤に駆られた者はいない。ただただ、芽生える同情心と好奇心。SNSに散らばる言葉が増えると、夫婦に向けられる視線が増した。
イジメの情報は不倫と借金の濁流に呑み込まれた。自分が見たい情報を見る人々。悲劇よりも喜劇が好まれる世の中。子供の不幸よりも大人の失敗こそが甘美な蜜となる。
豊子は気付いていた。旦那の浮気には薄々気付いていた。思い悩む息子の表情にも気付いていた。自分が病気だという事にも気付いていた。
葬式から三日後にパチンコを打った豊子は罪悪感から手首を切った。神の導きか、偶然にも康平の不倫を街中で目の当たりにした豊子は息子の死んだホームの先に立った。悪魔の謀りか、偶然にも借金が康平にバレてしまった豊子は睡眠薬を致死量ギリギリに服用した。
白髪の老婆が彷徨いてる。
豊子がうわ言のように同じ言葉を繰り返し始めると、彼女の周りから人がいなくなった。康平との離婚が決まっても、彼女の借金は消えない。
息子の死の悲しみを呑み込む怒り。夜の空に奇声をあげる豊子。白髪の老婆は誰にも気付かれることなく、豊子の最後を見送った。
吉沢由里は白い拳を握りしめて夜の街を闊歩した。
自転車用の白ヘルメットを被り、小学生の頃に修学旅行で買った木刀を握り締めた太田翔吾がその後に続く。
背後から二人を見つめるショートボブの天使。天使の肩で一匹の黄金虫が羽を休めている。
午後十一時二十分。日野龍弥との待ち合わせから遅れること二十分。二人に認知される事なく背後を歩いていた田中愛は眉を顰めた。
夜更かしと遅刻の悪行。子供にとっては重罪だろうとショートボブの天使は認識している。柔道着を着た翔吾の背中では、二匹のカブトムシが熾烈な縄張り争いを繰り広げていた。
「なぁ由里、明日も学校なんだし、もう帰ろうぜ?」
「うるせーよ、テメェ一人で帰りやがれ」
「結構遅れてるし、そもそも日野の奴が律儀に来るとは思えないって。なぁ、イジメの件は教師とかに相談すればいいじゃん?」
「うるせーっつってんだろ! つーかテメェ暑苦しいんだよ!」
翔吾の汗の滲む白い柔道着を忌々しげに睨み付ける由里。その背中で繰り広げられる争いが加速する。地面に投げ飛ばされたツノの短いカブトムシを田中愛は慌てて救出した。
T川の水深は浅い。だが、雲の無い夜に流れる水は黒く、橋の上から覗く川は底の無い穴のように不気味に映った。
運動場は橋から川沿いの小道を進んだ先に広がっている。コンクリートから乾いた砂の道に足を踏み入れる二人と一と三匹。翔吾は汗の噴き出す体をほぐすように動かすと、深く息を吐いた。翔吾の背中から飛び立つカブトムシが一匹。
川沿いに明かりは少ない。街とは違う暗い小道に翔吾の恐怖心が増す。草むらで何かが動くと翔吾の心臓が跳ね上がった。
「なぁ、やっぱり帰ろうぜ?」
「死ね」
「ヤバいってここはマジで。暗いし、人けもねーし、襲われたらひとたまりもねーって」
「じゃあ、とっとと死ね」
「なぁ、おばさんに……」
「うるせーっつってんだろ、カスが!」
由里の怒鳴り声に飛び上がる野鳥。田中愛の細い腕をせっせと登っていたツノの短いカブトムシは、驚いたように地面に転げ落ちると、河原の草むらに逃げ込んだ。慌ててカブトムシの後を追うショートボブの天使。
「お、マジで来たよ」
運動場の狭い入り口から声が響くと、由里と翔吾は顔を上げた。所々破れた緑色のネットが風に揺れる古い運動場。粗末な物置の並ぶ出入り口付近のベンチで、五人の男が屯している。
「由里ちゃーん、こんばんは」
「へぇ、可愛いじゃん」
「つーか隣の変態、誰だよ?」
立ち上がる五人の男。覚悟を決めてバッと前に飛び出た翔吾は木刀を構える。柔道着姿でヘルメットを被った汗だくの男の荒い息にたじろぐ男たち。翔吾は木刀を振り上げると腹の底から声を出した。
「日野龍弥、出て来い!」
「由里ちゃん、誰その変態? 一人で来てって言ったじゃーん」
頭を掻く背の高い男。ジーパンを履いた日野龍弥は黒のタンクトップから多少鍛えた細い腕を覗かせている。青いジャージ姿の由里はペッと地面に唾を吐くと腕を組んだ。
「コイツが勝手に着いて来たんだよ、つーかテメェも一人じゃねーだろ」
「彼らはただの観客だからさ、気にしないでよ」
「観客だと?」
「由里ちゃんさぁ、浜田クンの秘密知りたいんだよね。でもさ、当然タダって訳にはいかないからねぇ?」
へっへっへ、と口を広げて含み笑いをする男たち。チッと舌打ちをする由里。カブトムシを救出した田中愛は、龍弥の背後で複雑な表情をしたまま腕を組む小柄な男に音も無く近付いた。
小柄な男の肩にカブトムシを乗せる田中愛。男の子はカブトムシが好きだという話を思い出した天使からの幸。学校の廊下で尻餅をついた天使に手を差し伸べた男子生徒への報い。
何やら首筋に違和感を感じた男子生徒は、恐る恐る自分の肩に手を伸ばす。硬く鋭い感触。耳元に伝わるカブトムシの関節の軋む音。首の皮膚を撫でる短いツノ。
絶叫。どわっ、と暴れ始める小柄な男。慌てて飛び立つカブトムシ。
カブトムシを追って走り出した田中愛は、何事かと振り返った龍弥に衝突する。悲鳴をあげて倒れる龍弥。地面をコロコロと転がる田中愛。暗い河原に訪れる混沌。
今だっ、と木刀を構えて薄暗闇の中を走り出した翔吾は、地面で目を回す田中愛に躓いて横転する。草むらに消える木刀。慌てて暗闇に手を伸ばした翔吾の手のひらに伝わる柔らかな感触。首を傾げた翔吾の頬を田中愛の強烈なビンタが貫いた。
何処からか聞こえて来る奇声。喉が枯れたような女の絶叫。
「ゆ、幽霊だ!」
誰かがそう叫ぶと、運動場前の混乱が頂点に達した。
転がるように、這うように、走り出した男たち。慌てて立ち上がろうとする龍弥の鼻先を蹴り上げた由里は、鼻血を出して地面に伸びる翔吾を足で揺すった。翔吾の柔道着に砂をかけるショートボブの天使。
河原に静寂が訪れると、由里は暗い川下を睨んだ。まだ僅かに耳の奥に残る奇声。何処かで聞いたような悲しみと怒りの叫び。
砂まみれの体で起き上がった翔吾は、キョロキョロと辺りを見渡した。
「あれ、ここは?」
「帰るぞ、ドアホ」
翔吾の頭を叩く由里。肩に蹲る黄金虫に驚く田中愛。
草むらの木刀を拾い上げた由里は、最後にもう一度だけ川下を見つめた。
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