天使の報い

忍野木しか

第一章 

天使の報い


 天使のショートボブが窓から吹く風に揺れる。白いカーテンが天使の頬を叩く。

 F高校。昼休みの喧騒。2年D組を賑わす生徒の笑い声。窓際で本を読むフリをする中野翼の後ろに座る天使。

 ショートボブの天使。田中愛。クラスにいて印象に残らない生徒。認知から遠く離れた存在。善行には幸福を、悪行には厄災を、人に平等をもたらす天使は、ひっそりと、人に紛れて暮らしている。



 中野翼は本を閉じた。おもむろに立ち上がると窓を閉める。風に靡くカーテンが鬱陶しかったのだ。一度閉じた本をまた開く気にもなれず、翼は静かに教室を出た。

 顔を上げるショートボブの天使。風で乱れた髪を撫で付けた田中愛は立ち上がった。窓を閉めた中野翼の行為を善と判断したのだ。無音で彼の後を追う天使

 人に認知され難い存在。人を超越してはいない存在。天使の判断で起こる報いは天使の手によって行われる。

 因みに、人の善悪に疎い天使は、平和な地域を任される事が多いと言われているが、真相は定かではない。



 田中愛の前を歩く細身の男子生徒。中野翼は静かな場所を探していた。活力漲る子供の集まる狭い学校で、静寂を探すという至難の業。取りあえず、翼は一階の体育館前の古いトイレを目指した。

 天使は人の心を読めない。最近、男子高校生の心理状態を勉強し始めた田中愛は、肩を丸めて前を歩く中野翼の想いを読んだ。

 前方から髪の長い女生徒が歩いてくる。スラリと伸びる手足。短いスカートから覗く小麦色の太もも。

 立ち止まった田中愛は中野翼との間に距離を作る。中野翼と女生徒が廊下の中央で交差する刹那、田中愛は走り出した。中野翼の背中にぶつかる天使。よろけて女生徒にぶつかる翼。悲鳴を上げる女生徒の上に倒れた翼の上にのしかかる天使。

 田中愛はバッと立ち上がった。挫いた足を引き摺りながら急いでその場を離れる。

「いたた、ご、ごめんなさい」

「いいから、早く退いて」

 謝る翼を下から睨みつける女生徒。廊下で足を引き摺る田中愛の背中に視線を向ける。

「誰よ、アイツ」

「アイツって?」

「アンタの背中にぶつかった女。つーか、早く退いて!」

「ご、ごめん」

 翼は慌てて体を起こした。手に残る柔らかな感触。フローラル系の甘ったるい匂いが、いつまでも彼の周囲を漂う。

 それにしても、どうして急に転けちゃったんだろう?

 困惑した翼は、憤慨する女生徒の背中を見送りながら頭を掻いた。

 階段に蹲るショートボブの天使。足首がスモモの様に腫れ上がっている。

「アンタ、大丈夫?」

 先ほど、翼の善行の報いの犠牲となった女生徒。稀に、ほんの瞬間のみ天使を認識することが出来る存在。

 コクリと頷く田中愛。

 女生徒はため息をついた。天使の小さな手を握ると立ち上がらせる。

「歩ける? 肩貸してあげるから、保健室まで頑張りなよ?」

 天使のように微笑む女生徒。

 善行に対する報い。先ほどの不幸を帳消しにする幸。

 天使はそっと女生徒の顔を見上げた。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る