第二章 魔法物理学 その1
怪我から目覚めて、二週間が経過した。
頭の傷はほぼほぼ完治。触れば膨らみが指に当たるものの、痛みはないし、
〇
静養という名の公認引きこもり期間が終わり、俺は家族での食事の場に顔を出さなければいけなくなった。
だが、怪我の一件の事などまるで無かったかのように、俺は再び透明人間扱いに戻ってしまった。食事の席は母の『ヨハン自慢大会』に終始し、父がそれに頷く形で最低限の会話の体が成り立っている。
これまではそれをおかしいとは思っていなかった。だが、今は分かる。笑顔を貼り付けたような母、機械のように頷く父、同じ話の繰り返しにうんざりするヨハン、いないものにされた俺。
これは家族の食事ではない。それを真似た別の何かだ。つつけばメッキが剥がれ落ちそうなおままごとである。俺はそれ以上考えることをやめ、ただ食事の摂取の場としてのみ考えることにした。
〇
自室に籠ることが増えたある日、めずらしくカーラ以外の使用人が部屋に顔を出した。ジェイルという名の、昔から屋敷にいる執事だ。彼は俺が机に向かって本を読んでいるのを確認し「怪我の具合はどうか」と尋ねてきた。俺が「もう大丈夫だ」と答えると、ジェイルは無言で部屋を後にした。
父のドーソンに様子だけ報告するように言われたのだろうか。そのくらい食事の席で自分で聞けばいいと思うが、これも今の俺にはどうでもいいことなので放っておく。
そのほかめぼしいニュースはない。透明人間扱いである事に加えて、進んで自室に籠っているのだから当然だ。
〇
さて、本日。
俺はため息とともに、ペンを机に投げた。
この二週間ひたすら本を読み漁り、魔法に関して基礎の部分をおさらいしたものを、一旦取りまとめ終えたのだ。
メモを書いた紙が数十枚に及び煩雑としてきたので、一度穴を開けて紐を通し『魔法物理学基礎』とタイトルをつけることにした。勿論これには本からの知識だけでなくヨハンの協力が多分に含まれている。
俺は自分の書いたメモに、改めて目を通してみることにした。
この世界の魔法は、大きく六つに分類される。
火、水、風、土、光、闇である。
これらは属性と呼ばれ、人によって扱える属性は異なる。
ほとんどの人々は一つの属性のみで、多くても三つほどの魔法属性を有するのが、この世界においての限界のようである。
それぞれの属性を簡単に言い表すとこうなる。
・火を出現させる。
・水を出現させる。
・風を起こす。
・土を操る。
・結界を生み出す。
・有毒物質を生み出す。
この世界において上記六属性は同列で取り扱われているものの、起きている現象の不可解さ、物理学的に見た時の実現難易度にはかなりの差異がある。
全てに同じ法則が当てはまるとは到底思えず、俺は目下分かりやすい現象から解明していくつもりでいるが、全てに手をつけるには多大な時間がかかる事が予想された。
ちなみに、父ドーソンは水。母エリアは風。家庭教師に神童と太鼓判を押されているヨハンは、水と風のハイブリッドである。
結果、一番初めの研究対象を俺は『水魔法』と決めた。
――――まず、『水魔法』について本から得た情報を箇条書きする。
・魔法を操る際はほとんどの場合、手のひらを起点とする。
・生成された水は手のひらから一定の距離に浮遊する。
・生成された水の形は不定形だが、球体が基本である。
・熟練度や魔力量によって生成される水の量は変化する。
・熟練度や魔力量によって魔法を維持できる時間は変化する。
・球形を保ったまま前方に発射する技法がある。
・薄く変質させ、物体を切断可能にする技法がある。
発展技法はこの他にも無数にあるが、以上がどの本にも共通して書かれているような内容である。
これを受けて、俺はまずおおざっぱな仮説を立ててみた。『水魔法とは、空気中の水分を目視可能なレベルまで凝縮させたものである』という仮説だ。
窓が結露して濡れるように、温度変化によって水分は気体から液体に変化する。この世界の空気中にも水蒸気が含まれていて、何らかの方法で密度を上げているのではないか、という事である。
そこで俺はヨハンの協力の元、まずは水魔法が発現する瞬間を観察することにした。ハイスピードカメラなどあるはずもないので、なるべくゆっくりと発生させてもらうようお願いした。ヨハンは「何、その気持ち悪いお願い!?」と言っていた。
魔法の発生過程は、思いの外興味深いものだった。何故これについて取りまとめたものがないのかと、疑問に思った程である。
まず、(ヨハン曰く)手に魔力を込める。
すると水が発生する前段階として、直径三十センチほどの球状空間が淡く発光する。
そして、その空間内に細かな粒状の水滴が無秩序に発生し、それぞれが大きさを増して合体し、すぐに塊と呼べる大きさに変わる。球状に完成した水の塊は、一定の速度で回転しながら宙に浮遊する。
これら一連の流れが、この世界の本では『まず魔力を込め、水を生成する』の一文に省略されているのだ。
いや、馬鹿か。俺はこの世界における科学的な素養のなさに愕然とした。
だがガリレオが地動説の提唱を教会から断罪されたように、この世界での魔法というものは極めて神秘的なものとして捉えられている。
『精霊様』が人間に与えたもうた奇跡の力とされているので、そもそもこうした事細かな分析自体が無粋とされている節があった。
なればこそ、俺は改めて手つかずの『魔法物理学』に無限の可能性を感じるのだが。
「――兄様」
不意に扉が押し開かれる。
「ノックがなかったぞ」
「ええ? したよ、また集中してたんじゃないの?」
「いいや、今は休憩中だった。そしてノックの音は絶対に聞こえていない」
「じゃあ音が聞こえづらい扉なんだね」
ヨハンはもはやごまかす気もなさそうな言い訳をしながら、部屋へ入ってくる。
「何か用か?」
「何か用がなくちゃ来ちゃいけないの? ていうか兄様、休憩してたとか言いながらまたがっつり勉強中なんじゃないか。遊ぼうよぉ、へいへいへい」
「勉強中じゃない。資料に目を通していただけだ」
「それを人は勉強と呼ぶんだよ」
ヨハンは妙に悟った風にそう言い、俺の手元を覗き込んでくる。
「それで? 進んでる?」
「いや、進んでいるとは言い難いな……。まだ分からないことだらけだ。ヨハン、もう一度水魔法を見せてもらってもいいか。確認したいことがある」
「またぁ? まあいいけど、今度は何するの?」
「水温を確認したい」
「水温…………?」
「魔法で発生した水は温かいのか、冷たいのか。これは重要な情報のはずなんだ」
「別に温かくも冷たくもないと思うけどなあ」
ヨハンは不承不承ながらも、手のひらをかざす。淡い光が生じ、水の球が浮き上がった。
「何度見ても超常現象……。しかしもし、これが空気中の水蒸気を液体にしているのなら、必ず温度が変化しているはずなんだ。温度が低ければ低い程、空気中に含まれる水分は少なくなる。冷たいコップの周りに水滴がつくように。なあ、浮いてるこの水の球は触っても大丈夫なものか?」
「大丈夫、今なら別に指が飛んじゃうとかはないよ」
「そうか」
俺は許可を取って水の球に人差し指を突っ込んでみた。緩やかな水の回転が指の腹に当たり、不思議な感覚がする。
「…………常温だ」
「まあ、そうだろうね。ちなみに多分念じても温度は変えられないと思う。やってみようか」
「じゃあ冷たくしてくれ」
「ん~~~~~~………………、どう?」
「特に変化は感じられないな……。つまり仮定した、温度変化による水蒸気の状態変化の線は薄い……。それにそもそも、これだけの量の水を部屋の中から集めるのは質量保存の法則からして無理がある気がする。部屋の湿度が変化している様子もないし……」
ならばポイントはやはり、水が発生する直前の淡い光だろう。
あれが魔法による光――、つまりこの世界独自の現象であることは間違いないとして、それが何もなかった場所に水を出現させているというのだろうか。
ヨハンが考え込む俺に、少し呆れたような目線を向ける。
「兄様、だから魔法ってそういうもんなんだよ。精霊に与えられた神秘の力、人知の及ばない奇跡、そう本にも書いてあるでしょ?」
「…………書いてあったな」
「僕は気にしないけど、あんまりいい見られ方はしないと思うよ? この研究ってやつ。魔法は精霊様のおかげ、それが答えなんだからそれでいいじゃない」
「――ん。ヨハン、それは違う。色々やってみた結果でそういう結論になるのであれば、その時は俺も諦めよう。だが現時点でのそれはただの思考放棄だ。本に書いてあることを鵜呑みにするのも、実験もしない内から結論を決めつけるのも科学者の姿勢ではない。宇宙だって結局、地球中心に回っている訳じゃなかった。神の存在を無下に否定する気はないが、それでも何かの法則があるはずだと、俺は思う」
きっと俺が熱く語った内容の半分も分かっていないのだろうが、やれやれといった風に肩をすくめてヨハンは言った。
「……まあ、勝手に納得いくまで考えればいいけど、あんまり長いと僕も付き合いきれないからね。案外疲れるんだよこれ」
「そうか、持続時間が人によって違うという話もあったな。ちなみにヨハンはこの状態でのどのくらい保てるんだ?」
「三十分くらいだよ」
「それは長いのか短いのか」
「……一応長い方じゃないかな。父様はこの半分が限界だって」
「そりゃすごいな。さすが神童と呼ばれてるだけの――、あいてっ!」
俺が素直な称賛を口にするところへ、ヨハンが唐突に二の腕をパチンと殴ってきた。見ればまたも口を尖らせている。
「やめてよ。それ嫌いだっていつも言ってるじゃないか、そう言われるの」
「ああ、そうだったな、すまん。よしよし」
「………………子供扱いもいらないんだけど」
「難しいお年頃なことで」
ヨハンが大人顔負けの魔力の持ち主であることは間違いない。だけれどヨハンはそれを鼻にかけることを好まない。母が顔を見れば自分を褒めそやすのも、本当はやめて欲しいのだそうだ。
果たしてそれが俺に気を遣っての事なのか、その本当の所を尋ねることはさすがにできないけれど。
「話が逸れたな。ともかく魔力には限界量がある。ガスコンロもガスが切れれば火が消えるように、魔力という名のエネルギーが魔法において消費されていることは間違いない。それが体の中にあるものか、空気中にあるものか、正確にどちらかはまだ分からないが、個人差がある所を見ると体内に流れているものだろう」
「うん。魔力は体の中で生み出される――、僕もそう習った。それで手のひらから出すんだ」
ヨハンはそう言って手のひらを俺にみせる。何の変哲もない綺麗な手のひらだ。俺の知っている限り手のひらにあって何かを出すとしたら汗腺くらいなものだ。
……さすがに魔力が汗腺から分泌されるというのはいかがなものだろう、なんかちょっと嫌だが……。
「一応手のひら以外からも魔法を発現できると本には記載があるが本当か?」
「うーん、できないことはないけど、ぶっちゃけ難しい。イメージもしづらいし、手のひらから出すのが一番強力だしね」
「ちなみにヨハンはできるのか」
「でき……ないことはないけど」
言葉を若干濁しているのは、謙遜しているからか、できても微々たるものだからか。
本を読んだ印象とヨハンから聞いた印象を総合すると、手のひら以外から魔法を発現させるのは曲芸みたいなものなのかもしれない。だが、一応できるという事実は無視できない。出力の差があるなら、むしろ十分比較対象として有用とも言える、か……?
俺はしばし顎を摘まみながら考えを巡らせてみるが、やがて観念して天井を仰いだ。
「――いや、分からん。分からん要素が多すぎて頭がパンクしそうだ」
「ほどほどにしときなって。頭パンクしたらまた血が出ちゃうよ?」
「それはさすがに御免だな」
そう笑う俺を見て、ヨハンがふと思いついたように言う。
「ねえ兄様、気分転換にちょっと丘の方へ散歩しない? ほら、あそこにはさっき話に出た精霊様の祠もあることだし」
「精霊様の祠?」
俺はそう聞き返してから、すぐに思い出した。
確かにナラザリオ家の統治するこの土地には、名のある水の精霊が祀られている祠がある。それゆえか分からないが、この土地で生まれたものは水魔法の適性がある事が多いらしい。
「いいな、昼飯の後に行こうじゃないか。せっかく天気もいいことだし」
「やったね! お昼は適当に拝借すればいいよ、兄様! 行こ! 今すぐ行こ!」
「い、今すぐ?」
「カーラ~! 着替え着替え着替え~!」
ヨハンは魔法の検証に付き合わされていた時とは打って変わって笑顔になり、飛び跳ねるようにして自室に帰って行った。俺は机の上に広げていた紙をまとめて引き出しにしまい、両腕を天井に向けて伸ばす。すると十六歳の若い体がゴキゴキと豪快な音を立てる。
外出はそう言えば久しぶりだと、俺は窓越しの太陽に目を細めた。
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